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[[289年]]11月、武帝は病に倒れると、自らの死期を悟り、死後は叔父の汝南王[[司馬亮]]と楊駿の二人に太子司馬衷(後の恵帝)の補佐を任せようと考えた。だが、楊駿は司馬亮が権力を握るのを嫌い、楊芷と共に裏で働きかけて司馬亮を[[侍中]]・[[大司馬]]・[[大都督]]・[[豫州]]諸軍事に任じて仮黄鉞を与え、[[許昌市|許昌]]に出鎮するよう命じ、表向きは昇進させた上で地方へ追い払おうとした。また、他の皇族についても同様に昇進を名目として地方に遠ざけた。
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[[290年]]1月、[[司空]][[衛カン|衛瓘]]の子である[[衛宣]]は[[繁昌公主]](武帝の娘)を娶った。楊駿はかねてより衛瓘の存在を疎ましく思っていたので、衛宣が酒による過失が多いのを理由として、[[宦官]]と共謀して衛宣を弾劾し、繁昌公主と離婚させた。これを知った衛瓘は禍を恐れて朝廷から離れ、私邸に帰った。
[[290年]]1月、[[司空]][[衛瓘]]の子である[[衛宣]]は[[繁昌公主]](武帝の娘)を娶った。楊駿はかねてより衛瓘の存在を疎ましく思っていたので、衛宣が酒による過失が多いのを理由として、[[宦官]]と共謀して衛宣を弾劾し、繁昌公主と離婚させた。これを知った衛瓘は禍を恐れて朝廷から離れ、私邸に帰った。


3月、武帝の病状が日に日に悪化すると、宮中にいた楊駿は独断で武帝の近侍を自らの意に沿う者と入れ替えた。武帝の病状が少し回復すると、彼は近侍が入れ替わっている事に気付き、楊駿へ「なぜに近侍を入れ替えたか!」と咎めたが、罰する事は無かった。この時、許昌に赴くよう命じられていた司馬亮はまだ出発していなかったので、武帝は改めて司馬亮と楊駿に後事を託そうと考え、[[中書省|中書]]に命じて[[遺詔]]を作らせた。だが、楊駿は中書の下を訪ねると遺詔を持ち去ってしまい、中書監[[華廙]]が返却を要求するも応じなかった。またある時、楊芷は政治を全て楊駿に委ねるよう武帝に勧めると、武帝は既に意識が朦朧としてまともな思考が出来ず、訳も分からずに頷くのみであった。
3月、武帝の病状が日に日に悪化すると、宮中にいた楊駿は独断で武帝の近侍を自らの意に沿う者と入れ替えた。武帝の病状が少し回復すると、彼は近侍が入れ替わっている事に気付き、楊駿へ「なぜに近侍を入れ替えたか!」と咎めたが、罰する事は無かった。この時、許昌に赴くよう命じられていた司馬亮はまだ出発していなかったので、武帝は改めて司馬亮と楊駿に後事を託そうと考え、[[中書省|中書]]に命じて[[遺詔]]を作らせた。だが、楊駿は中書の下を訪ねると遺詔を持ち去ってしまい、中書監[[華廙]]が返却を要求するも応じなかった。またある時、楊芷は政治を全て楊駿に委ねるよう武帝に勧めると、武帝は既に意識が朦朧としてまともな思考が出来ず、訳も分からずに頷くのみであった。

2021年3月22日 (月) 03:33時点における版

楊 駿(よう しゅん、生年不詳 - 291年)は、中国西晋時代の権臣。文長弘農郡華陰県の出身。武帝司馬炎外戚として権勢を振るったが、恵帝皇后賈南風と対立した末に誅殺された。彼の死が八王の乱の端緒となった。

生涯

武帝の外戚

姪の楊艶武帝の皇后だったので、若い頃に朝廷から取り立てられた。やがて高陸県令、驍騎鎮軍二府司馬に任じられた。

274年7月、楊艶が病死すると、彼女の遺言により楊駿の娘の楊芷が後宮に招かれ、次期皇后の最有力候補となった。

276年、楊芷が正式に皇后に立てられると、楊駿は外戚としてさらに度を超えた抜擢を受け、重任を委ねられるようになった。鎮軍将軍に任じられ、さらに車騎将軍に昇進し、臨晋侯にも封じられた。

武帝は呉の平定以降、天下統一を成し遂げた事に安心しきり、政務を蔑ろにして酒食に溺れるようになったので、宮中では賄賂が公然と行われる有様となった。次第に楊駿は弟の楊珧楊済と共に権勢を欲しいままにするようになり、彼らは『天下三楊』と称されるようになった。楊駿は自らを支持する者ばかりを取り立て、多くの旧臣を遠ざけたので、吏部尚書山濤は幾度も武帝へ楊駿の重用を止める様に諫めた。尚書褚䂮郭奕らもまた上表し、楊駿は度量が狭いので国政を担うには力不足であると述べたが、武帝はいずれの意見も容れなかった。貴族や官僚達は楊駿の専横を憂えて「多くの者を諸侯に封じているのは王室を保つためだと言うが、却って障害を作っている。皇后(楊芷)は政務や祭祀を取り仕切って宮中を自らの思い通りにしており、皇后の父(楊駿)は臨晋侯の名をもって自ら侯爵を封じ始めており、まるで晋室の上に立っているかのようだ。これはまさに大乱の予兆である」と言い合ったという。

289年11月、武帝は病に倒れると、自らの死期を悟り、死後は叔父の汝南王司馬亮と楊駿の二人に太子司馬衷(後の恵帝)の補佐を任せようと考えた。だが、楊駿は司馬亮が権力を握るのを嫌い、楊芷と共に裏で働きかけて司馬亮を侍中大司馬大都督豫州諸軍事に任じて仮黄鉞を与え、許昌に出鎮するよう命じ、表向きは昇進させた上で地方へ追い払おうとした。また、他の皇族についても同様に昇進を名目として地方に遠ざけた。

290年1月、司空衛瓘の子である衛宣繁昌公主(武帝の娘)を娶った。楊駿はかねてより衛瓘の存在を疎ましく思っていたので、衛宣が酒による過失が多いのを理由として、宦官と共謀して衛宣を弾劾し、繁昌公主と離婚させた。これを知った衛瓘は禍を恐れて朝廷から離れ、私邸に帰った。

3月、武帝の病状が日に日に悪化すると、宮中にいた楊駿は独断で武帝の近侍を自らの意に沿う者と入れ替えた。武帝の病状が少し回復すると、彼は近侍が入れ替わっている事に気付き、楊駿へ「なぜに近侍を入れ替えたか!」と咎めたが、罰する事は無かった。この時、許昌に赴くよう命じられていた司馬亮はまだ出発していなかったので、武帝は改めて司馬亮と楊駿に後事を託そうと考え、中書に命じて遺詔を作らせた。だが、楊駿は中書の下を訪ねると遺詔を持ち去ってしまい、中書監華廙が返却を要求するも応じなかった。またある時、楊芷は政治を全て楊駿に委ねるよう武帝に勧めると、武帝は既に意識が朦朧としてまともな思考が出来ず、訳も分からずに頷くのみであった。

4月、楊芷は中書監華廙と中書令何劭に命じ、楊駿を太尉太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じる、という内容の遺詔を作らせた。詔が完成すると楊芷は武帝に渡したが、武帝は昏睡状態に陥っており何も答えなかった。また、楊駿は武帝の命を偽り、司馬亮へ速かに許昌へ向かうよう催促した。武帝が一時的に意識を取り戻すと「汝南王(司馬亮)は来たか」と近侍に問うたが、みな楊駿の息がかかっていたので真実を告げなかった。その後、武帝は再び昏睡状態に陥り、間もなく死去した。

朝政を専断

司馬衷(恵帝)が後を継ぐと、楊駿は遺言通りに太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じられ、朝政の全権を握った。また、太極殿(皇帝の住居)に住まうようになり、虎賁(勇士)百人に自らを警備させた。後に武帝の棺は太極殿に移されたが、楊駿は太極殿から下りる事はなかった。

司馬亮は楊駿の権勢を恐れ、武帝の死を知っても宮中には入らずに洛陽城外に留まり、武帝の葬儀が終わったのを見届けてから許昌に出発することを請うた。ある者が「司馬亮は挙兵するつもりです」と楊駿に告げると、楊駿は驚愕して楊芷を介して恵帝に詔を書かせ、石鑒張劭に司馬亮を討つよう命じた。しかし、石鑒は司馬亮に反乱の意思が無い事を知っていたのでこの命令に従わず、楊駿の動きを知った司馬亮はすぐさま許昌に赴いて難を逃れた。弟の楊済と甥の河南尹李斌は司馬亮に許昌の兵権を与えるのは危険であるとして、逆に洛陽に留まらせるよう勧めたが、楊駿は聞き入れなかった。楊済はなおも侍中石崇を派遣して楊駿を説得したが、結局従う事は無かった。

楊駿は朝廷の第一人者となった後も、自らにまだ人望が無い事を理解していたので、明帝を模範として群臣の爵位を昇格させて人心を得ようと目論んだ。左軍将軍傅祗は「帝王が崩御して間もないのに論功を行うのは未だ例が有りません」と言って諫めたが、楊駿は聞き入れなかった。5月、全官僚の爵位が一等進められ、武帝の喪事に関わった者については二等進められた。また、二千石以上の者については全員が関中侯に封じられ、租税が一年間免除となった。散騎常侍石崇・散騎侍郎何攀は上奏し「新帝(恵帝)は皇太子となってから20年余りの末に、大業を受け継ぎました。今回の封爵は泰始革命(西晋の建国)と呉平定の時に比べて規模が大きく、程度の差が不公平となっております。占いによりますと、大晋の世は永久に続くといわれております。故に、今回の事は制度として後世にも踏襲されることとなり、新帝即位の度に爵位を増やしてしまえば、数世の後にはあらゆる国民が公侯の位に昇ってしまいます」と諫めたが、楊駿は取り合わなかった。

さらに詔が下り、楊駿は太傅・大都督に任じられ、仮黄鉞(軍隊を独断で動かせる権限) を下賜され、百官を従えて朝政を司るよう命じられたが、これも楊駿自身の意によるものであった。傅咸は楊駿を諫めて「陛下は謙虚であるから朝廷の大権を明公(楊駿)に譲られましたが、天下の人々が納得しているわけではありません。聖人である周公といえども幼主を補佐して政治を行った時、簒奪の噂が流れましたのです。ましてや、聖上(恵帝)は幼主ではありませんから、喪が終わり次第、明公(楊駿)は大権を返上すべきです」と勧めたが、楊駿は聞き入れなかった。その後も傅咸が繰り返し諫めると、楊駿は遂に怒って傅咸を郡太守に左遷しようとしたが、李斌が「正人を駆逐してしまえば人望を失うでしょう」と諫めたので、この人事を中止して朝廷に留めた。

楊駿は古代の法令や制度をよく理解しておらず、古くからの慣例に幾度も背いた。武帝が死んで1年も経たずに永平と改元したが、『春秋』においては新しい君主が即位して2年目に改元を行い、これをもって正式な即位とするという規定が有ったので、人々は楊駿がこれに背いたと取り沙汰した。朝廷はこの誤りを問題視し、史官に命じて記録を書き直させ、291年1月に改元した事にしたという。

楊駿の政治は非常に厳格であり、些細なことでも容赦なく糾弾したので、中央・地方問わずみなから忌み嫌われた。馮翊太守孫楚は楊駿へ「公(楊駿)は外戚の立場として伊尹霍光の大任の如くを任せられております。しかしながら、強盛な宗族(司馬一族)と協調しておらず、朝廷内の群臣へ猜疑の目を向けており、外においても派閥を作ろうとしておりません。これは危機を招く事になります」と忠告したが、楊駿は聞き入れなかった。楊駿の姑子である弘訓少府蒯欽もまた、楊駿が危うい立場にある事を幾度も諫言したという。また、楊駿は匈奴東部の王彰を司馬に任じたが、王彰は近いうちに禍が起こる事を予見し、これを辞退して逃走した。

恵帝皇后賈南風は陰険で策謀を好む人物であり、密かに政事に関与しようとしていた。291年1月、楊駿は彼女の存在を大いに警戒し、甥の段広を散騎常侍に任じて宮室や朝廷の機密を管理させ、側近の張劭を中護軍に任じて禁兵を統率させた。また、全ての詔は恵帝が批准した後、楊芷が内容を確認してから発布する様に定めた。

殿中中郎孟観李肇は楊駿に軽んじられており、これを妬んで賈南風へ「楊駿が社稷を傾けようとしております」と讒言した。これを受け、賈南風は楊駿誅殺と楊芷の廃位を目論むようになり、宦官董猛・孟観・李肇に密謀を委ねた。さらに、李肇を許昌へ派遣して司馬亮へ楊駿誅殺を持ちかけたが、司馬亮は応じなかった。李肇はさらに荊州に赴いて楚王司馬瑋にも同様の提案を行うと、司馬瑋は喜んで賛同し、上表して入朝を請うた。楊駿はかねてよりら司馬瑋の勇猛さを恐れており、洛陽へ呼び寄せて手元に置いておきたいと考えていたが、司馬瑋が反発して挙兵するのを恐れて躊躇していた。その為、司馬瑋が自ら入朝を望んだ事を慶び、これを快く許可した。

2月、司馬瑋は都督揚州諸軍事・淮南王司馬允と共に洛陽に入った。

政変と死

3月、孟観・李肇は計画を実行に移し、恵帝の下へ赴いて楊駿の謀反を訴えた。さらに、楊駿の全ての官職を免じて臨晋侯のまま家に帰るよう命じる詔を夜の内に作成し、洛陽城内外には戒厳令を敷いた。東安公司馬繇は殿中の兵400人を率いて楊駿攻撃に向かい、楚王司馬瑋もまた兵を率いて司馬門を制圧した。この時、楊駿配下の左軍将軍劉豫は洛陽の城門を押さえていたが、右軍将軍裴頠は劉豫を騙し、楊駿が西へ逃亡したと伝えた。これにより劉豫は戦意喪失して投降し、兵権を裴頠に預けた。裴頠は詔により領左軍将軍に任じられ、劉豫の代わりに万春門を抑えた。

楊駿の甥である段広は政変を知ると、恵帝の下に赴いて跪き「楊駿には後嗣がいないのに、なぜ謀反など行って帝位を狙う必要がありましょうか。どうか御再考くださいますよう」と請願したが、恵帝は何も答えなかった。楊芷もまた政変を知ると『太傅(楊駿)に協力した者には恩賞を与える』という旨の内容をに書いて城外へ射たが、賈南風はこれを知ると「皇太后も楊駿に協力して謀反した」と宣言した。

宮中の兵もまた動員され、楊駿府は焼き払われた。さらに弩手が楊駿府の周りに配置されたので、楊駿直属の兵は外に出ることが出来なかった。

楊駿自身は武庫の南にある曹爽の故府にいたが、変事を聞くと群臣を集めて今後の進退について議論した。太傅主簿朱振は「宮殿で起きた異変の目的は明らかです。宦官が賈后の命で陰謀をなしたのでしょう。雲龍門(南門)を焼いて彼らを威嚇し、首謀者を差し出すよう要求するのです。それから万春門(東門)より入り、東宮と外営の兵を率いて皇太子(司馬遹)を擁立して皇宮に向かえば、殿内は震撼して必ず首謀者の首を送ってくるでしょう。早く決断しなければ禍が及びますぞ」と勧めたが、楊駿は「雲龍門は魏明帝が造った門であり、多くの労力と費用を費やしたので。それを焼いて良いはずがない」と述べ、申し出を拒絶した。侍中傅祗は楊駿が大事を成す器ではないと判断し、状況確認を名目として宮中へ逃亡した。この時、他の官僚へも同様に勧めたので、多くが傅祗に続いて楊駿のもとを離れていった。これにより楊駿を守る者はいなくなり、進退窮まった楊駿は馬厩に逃亡したが、見つかってしまい遂に殺された。

その後、孟観らは楊駿の弟である楊珧・楊済、配下の張劭・李斌・段広・劉豫・武茂・散騎常侍楊邈・中書令蒋俊・東夷校尉文鴦を逮捕した。楊珧と楊済はそれぞれ優れた功績を挙げた人物で人望もあり、楊珧については鍾毓鍾会の兄)の先例を挙げて助命を嘆願する声も出たが、結局連座して楊氏は三族皆殺しとなった。楊氏に与したとみなされた人物も多くが三族皆殺しとなったが、文鴦や武茂武周の子)のように、讒言で巻き添えとなった者もいた。皇太后楊芷もまた庶人に落とされ、後に殺害された。

楊駿は暗愚であり多くの官僚から忌み嫌われていたが、直言が怒りに触れたとしても遠ざけるだけに留め、無罪の人間を無闇に殺すようなことはしなかったという。

墓誌と弘農楊氏

楊駿の墓誌は、欠落が多いものの、1991年発行の『洛陽出土歴代墓誌輯縄』に「楊駿残碑」として収録されている。中でも

……諱敷。大父東萊太守・蓩亭侯、諱〓(衆)……

という部分は従来の文献資料では確証のなかった続柄で、楊駿の祖父は蓩亭侯の楊衆中国語版、曾祖父は楊敷ということになる。これにより、楊奉楊震と遡って、いわゆる四代三公として知られている家系と楊駿の家系との繋りが判明し、世代も確定した[1]。例えば、楊駿が楊震の5世孫であることから、姪の楊艶は楊震の6世孫となる。

逸話

ある時、楊駿は隠者孫登を迎え入れると、様々な問いかけを行ったが、孫登は一切答えなかった。また、楊駿は着物を贈ったが、孫登は門から出た所で人から刀を借り、着物を上下に切り裂いた。それを楊駿の屋敷の門下に置くと、さらに幾度も切り刻んだ。当時の人々は孫登を狂人と思ったが、後に楊駿が誅殺された時、孫登の行動はこれを予言したのだとみな言い合ったという。

参考文献

出典

  1. ^ 石井仁, 渡邉義浩西晋墓誌二題」(pdf)『駒沢史学』第66巻、駒沢大学文学部、2006年3月、80-100頁、NAID 1200066163462020年11月21日閲覧