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{{基礎情報 過去の国 |
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[[File:Rasulids_Aden_Yemen_1335.jpg|thumb|ラスール朝時代の貨幣([[アデン]]、1335年)]] |
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|略名 = |
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|日本語国名 = ラスール朝 |
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|公式国名 = |
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|建国時期 = [[1229年]] |
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|亡国時期 = [[1454年]] |
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|先代1 = アイユーブ朝 |
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|先旗1 = Flag of Ayyubid Dynasty.svg |
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|次代1 = ターヒル朝 (イエメン) |
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|次旗1 = |
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|国旗画像 = |
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|国旗リンク = |
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|国旗説明 = |
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|国旗幅 = |
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|国旗縁 = |
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|国章画像 = |
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|国章リンク = |
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|国章説明 = |
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|国章幅 = |
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|標語 = |
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|国歌名 = |
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|国歌追記 = |
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|位置画像 = Rasulid_1264.jpg |
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|位置画像説明 = 1264年のラスール朝の支配領域 |
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|公用語 = |
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|宗教 = [[イスラーム]][[スンナ派]] |
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|首都 = [[ザビード]]<br/>[[タイズ|タイッズ]](ムザッファル1世から) |
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|元首等肩書 = [[スルターン]] |
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|元首等年代始1 = [[1229年]] |
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|元首等年代終1 = [[1249年]] |
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|元首等氏名1 = [[マンスール1世]] |
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|元首等年代始2 = [[1249年]] |
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|元首等年代終2 = [[1295年]] |
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|元首等氏名2 = [[ムザッファル1世]] |
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|元首等年代始3 = [[1451年]] |
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|元首等年代終3 = [[1454年]] |
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|元首等氏名3 = [[ムアイヤド2世]] |
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|変遷1 = 成立 |
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|変遷年月日1 = [[1229年]] |
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|変遷2 = 名実ともに独立 |
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|変遷年月日2 = [[1235年]] |
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|変遷3 = 滅亡 |
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|変遷年月日3 = [[1454年]] |
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|通貨 = [[ディナール]] |
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|通貨追記 = |
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|時間帯 = |
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|夏時間 = |
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|時間帯追記 = |
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|ccTLD = |
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|ccTLD追記 = |
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|国際電話番号 = |
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|国際電話番号追記 = |
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|現在 = {{YEM}} |
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|注記 = |
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'''ラスール朝'''(ラスールちょう)は、[[13世紀]]から[[15世紀]]にかけて[[イエメン]]を支配した[[スンナ派]]の[[イスラーム王朝]]。[[アイユーブ朝]]に仕えた[[テュルク系]]の[[アミール]]である[[マンスール1世]]を創始者とする。 |
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[[1229年]]にイエメンを治めるアイユーブ朝の[[スルターン]]の代理となったマンスール1世はラスール朝を創始する。その後も外向きにはアイユーブ朝への忠誠を示していたが、[[1235年]]に[[アッバース朝]]の[[カリフ]]からイエメン支配の承認を得て名実ともに独立した。マンスール1世を継いだムザッファル1世がラスール朝の最盛期とされている。ラスール朝は国際貿易の一大中継地として栄えたが、たびたび内紛が発生した。特に第12代スルターンの死後は5人のスルターンが立って抗争を繰り広げたため分裂状態となり、その中でターヒル家が台頭した。[[1454年]]に第17代スルターンであるムアイヤド2世がターヒル家に身柄を確保されたことでラスール朝は滅亡し、ターヒル家による[[ターヒル朝 (イエメン)|ターヒル朝]]が成立した。 |
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'''ラスール朝'''(ラスールちょう)は1229年から1454年まで [[イエメン]]と[[ハドラマウト]]を支配した[[イスラーム]][[王朝]]のひとつ。ラスール朝は、 [[アラビア半島]]の南西部の[[州]]から [[エジプト]]人の [[アイユーブ朝]]が去った後に勢力を持った。 |
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ラスール朝は、ラスール(彼の本名はMuhammad ibn Harun)という名祖を持つ先祖の子孫で、ラスールはテュルク人の[[オグズ]]族の族長だった。後年彼らはアラブの家系を収集し、古代アラブ人部族の子孫だと主張した。ラスールは [[アッバース朝]] [[カリフ]]の使者として1180年頃イエメンに来た。彼の息子のアリーは一時[[メッカ]]の知事となった。ラスールの孫のUmar bin Aliはラスール朝の最初の [[スルタン]]となった。 |
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== 名称 == |
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''Rasūl''は[[アラビア語]]で、''伝令''を意味する (この語の場合の”伝令”とは、[[イスラム教の預言者]]という意味合いは薄い)。王朝の支配の間、ラスール王朝の人々は伝説的な [[総主教]] Qahtanの子孫を名乗った。 |
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ラスール({{lang-ar|رسول}})とはアラビア語で伝令を意味し、ラスール家の始祖である[[ムハンマド・ブン・ハールーン]]のあだ名に由来する{{sfn|Smith|1995|p=455}}。 |
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== 歴史 == |
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アッバース朝崩壊とエジプトの[[ファーティマ朝]]の勃興により、地中海とインドの間の貿易ルートは、イラク経由から紅海経由に比重が移っていった。ラスール王朝の時代(1229-1454年)は、紅海・アラビア海を通じた地中海とインド、東アフリカ間の貿易が活発となり、イエメンは地中海-インド間の貿易網の中心部のひとつに位置していたため、アラビア半島南部や紅海沿岸の港湾都市は繁栄していたが、権益争いの場ともなった。同王朝の時代は、エジプトでは[[マムルーク朝]]、イランでは[[イル汗国]]と[[ティムール朝]]が勃興し、これらの大国と貿易路の確保を巡り激しく争った。 |
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=== 背景 === |
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[[9世紀]]の初め、ムスリムによる大征服の終了により地中海世界ではアッバース朝と[[ビザンツ帝国]]の関係が安定したことや、西ヨーロッパが政治的・経済的に繁栄したこと、[[後ウマイヤ朝]]が[[アブド・アッラフマーン1世]]のもとで基礎が整えられたことなどを要因として、紅海を経由した交易が盛んになった。これによってイエメンは地中海世界とインド洋世界の重要な結節点となった{{sfn|蔀|2018|p=268, 269, 271}}。 |
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[[1169年]]に[[サラーフッディーン]]が[[ザンギー朝]]の実権を握ったことに始まるアイユーブ朝にとって、紅海経由の交易路の安全を確保することは喫緊の課題であった。そのため、サラーフッディーンは[[1173年]]に兄の[[トゥーラーン・シャー]]が率いるテュルク・[[クルド人|クルド系]]で構成される部隊をイエメンに派遣した。当時のイエメンには[[マフディー朝]]や[[ズライゥ朝]]、[[ハムダーン朝 (イエメン)|ハムダーン朝]]などの地方政権が割拠していたが、アイユーブ朝軍はそれらを打ち破り、[[ザイド派]]勢力が支配していた北部を除くイエメンの支配を確立した。アイユーブ朝は、アイユーブ一族の者をスルターンとしてイエメンを統治した{{sfn|馬場|2017|p=13}}{{sfn|蔀|2018|p=271}}{{sfn|馬場|2021|p=163}}。 |
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==歴史== |
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初代スルタン、マンスール・ウマル一世は、アイユーブ朝が十字軍に忙殺されている情勢を背景に、イエメン地方で起こった内乱に乗じて独立した(1229年)、ヒジャーズ地方(アラビア半島南西の紅海沿岸地方。[[メッカ]]や[[メディナ]]がある)に軍隊を派遣し、1241年にはアイユーブ朝をメッカから放逐し、ラスール朝の勢力圏とした。第二代スルタン、ムザッファルは1279年ハドラマウト地方(アラビア半島南岸。イエメンとオマーン地方の間の地域)に遠征し、アラビア海と紅海間の中継貿易路の支配を確立した。 |
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ラスール家がイエメンに流入した時期については2つの説がある。1つ目は、トゥーラーン・シャーとともに1173年に侵攻したという説であり、2つ目は、1183年に流入したという説である。いずれにせよ、ラスール家はアイユーブ朝のスルターンのアミールとしてイエメンに流入した{{sfn|Smith|1995|p=455}}{{sfn|蔀|2018|p=272, 273}}。 |
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1323年以降ラスール朝はスルタン位を巡る内紛が国内部族間の抗争に発展した。第五代スルタン、ムジャーヒドはマムルーク朝に救援を求め、1325年にマムルーク朝から遠征軍が派遣された。マムルーク朝は交易路の直接支配を目論み、ラスール朝を支配下に置くことを目的として遠征軍を派遣したものと思われるが、この時は内乱鎮圧後、スルタン・ムジャーヒドによる国内統一が急速に推進され、マムルーク朝のイエメン支配は失敗した。1330年には[[イブン・バットゥータ]]が訪れている。1424年、マムルーク朝は再度遠征軍を派遣しメッカの外港にあたる[[ジッダ]]を奪取することに成功した。この結果、インドからの交易船は、イエメンの主要港であるアデンを避けて、直接ジッダに入港することになり、マムルーク朝の商業利益を増大させる一方、ラスール朝の経済力を低下させることになった。13代スルタン・ムザッファル2世(1442年)以降17代スルタン・ムアィヤド(1452-54年)の間に短期間に4人のスルタンが立ち内部抗争を展開し王朝は衰亡した。特に16代スルタン・マスウード(1444-54年)と13代スルタン・ムザッファルの争いでが、ムザッファルがジュバン地方の部族長ターヒル家を介入させた。打ち続く内乱に嫌気のさしたザビード(イエメン北部)の街の守備隊や家臣達はスルタン・ムアィヤドを擁立した。ムザッファルは史料から途中で消えてしまい消息は不明だが、マスウードは1454年に退位し、インドに亡命したと記載のある史料がある。ムアィヤドはメッカに亡命し、1454年新王朝ターヒル朝が成立した。 |
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ラスール家はムハンマド・ブン・ウマルを始祖とする一族である{{sfn|Smith|1995|p=455}}。同家の出自が南アラブ系だとする史書も在るが、そのほかの史料や現代の研究から、同家はテュルク系だと考えられている{{sfn|馬場|2021|p=163-164}}。 |
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== トゥグルク朝使節を巡る事件 == |
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1329年、インドの[[トゥグルク朝]]第二代スルタン・[[ムハンマド・ビン・トゥグルク|ムハンマド]]がマムルーク朝に派遣した使節がラスール朝に捕らえられ贈物を没収したとされる事件が発生した。翌1330年ラスール朝からマムルーク朝派遣された使節をスルタン=ナースィルは投獄させた。その後インドから再度マムルーク朝に使節が送られたが、使節はイエメン・ルートを避けてイラク経由で往復した。この一件は複数の史料(イブン・ハジャル(ibn Ḥajar)、ヌワイリー(al‐Nuwayrī)、[[アル=マクリーズィー|マクリーズィー]]、[[イブン・バットゥータ]])に記載されている。史料毎に若干内容が異なっているものの、当時のラスール朝の交易・外交上の立ち位置を象徴する内容となっている<ref>家島彦一訳「大旅行記第5巻」pp401-416</ref><ref>家島彦一訳「大旅行記第2巻」pp142-146</ref>。 |
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=== ラスール朝の成立 === |
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イエメンにおけるアイユーブ朝の6代目スルターンであるマスウード・ユースフはヌール・アッディーンに厚い信頼を寄せていた{{sfn|馬場|2017|p=16}}{{sfn|蔀|2018|p=273}}。1228年または1229年(ヒジュラ暦626年)、新たな任地に移ることとなったマスウードは、次のスルターンが派遣されるまでの代行者としてヌール・アッディーン(後のマンスール1世)を指名した。しかし、次のスルターンは派遣されてこなかった{{sfn|Smith|1995|p=455}}{{sfn|馬場|2017|p=16}}{{sfn|蔀|2018|p=273}}。そのため、この1229年にラスール朝が成立したとされている。また、ヌール・アッディーンはこの年からマンスールと名乗るようになった{{sfn|馬場|2017|p=17, 27}}{{Refnest|group="注釈"|以下、マンスール1世と表記する。}}。マンスール1世は外向きにはアイユーブ朝のカリフに忠誠を示していたが、1233年には独自に貨幣の鋳造を始めた。1235年にアッバース朝のカリフである[[ムスタンスィル]]よりイエメン支配の承認を受け、これによってラスール朝は名実ともに独立した{{sfn|Smith|1995|p=455}}{{sfn|馬場|2017|p=16}}{{sfn|蔀|2018|p=273}}{{Refnest|group="注釈"|この時代にはアッバース朝カリフは名目上の存在であったが、ムスリムの間では宗教的威信が保たれ、また、イスラーム法理論家はカリフの権威を認めていたため、独立君主にはカリフの承認が必要だった{{sfn|斎藤|1970|p=47, 48}}。}}。 |
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ラスール朝末期は、鄭和の艦隊が来航した。鄭和の艦隊の分隊がメッカを訪問した一件は、同時代のエジプトの史家[[マクリーズィー]]のものが有名だが、イエメン史の史料に(以下史料欄のアラビア語写本4609番、274番、「イエメン・ターヒル朝史」等)より豊富な情報が記載されている。その史料には、7回の鄭和の遠征のうち、最後の3回の遠征に相当すると思われるシナ人の艦隊の来訪が記載されている。一方「[[明史]]」の巻326には「阿丹国の条」があり、阿丹王抹立克那思児が永楽14年以降4度にわたって入貢してきたとの記載がある。阿丹はアデン、阿丹国は当時のラスール朝であり、阿丹王抹立克那思児とは、ラスール朝第8代スルタン・アル=マリク・アン・ナースィル・アフマド(漢字はマリク・ナースィルの音写)と考えられている。 |
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ラスール朝の当初の領域はアイユーブ朝時代に支配した、紅海沿いの平原である[[ティハーマ]]と南イエメンだった{{sfn|Smith|1995|p=456}}。マンスール1世は南部の山岳地帯の[[タイズ|タイッズ]]から北部の[[サナア]]に至るまで支配地域を広げ、また、アイユーブ朝が十字軍の対処に追われている隙をついて[[ヒジャーズ]]に派兵し、1241年または1242年には[[マッカ]]からアイユーブ朝の勢力を排除した{{sfn|蔀|2018|p=274}}{{sfn|家島|2021|p=259}}。この際にマンスール1世はマッカの[[マスジド・ハラーム]]の西側に[[マドラサ]]を建設した{{sfn|Mortel|1997|p=240}}。このほか、マンスール1世は[[マディーナ]]の外港であるヤンブゥを支配した{{sfn|蔀|2018|p=274}}{{sfn|家島|2021|p=259}}。 |
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==史料== |
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ラスール朝時代の史料は主に以下のものがある。 |
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1249年または1250年、マンスール1世はタイッズの北にあるジャナドにおいて[[マムルーク]]に殺害された{{sfn|Smith|1995|p=456}}{{sfn|蔀|2018|p=274}}。マンスールの3人の息子の間では激しい後継者争いが起こり、[[ムザッファル1世]]が2代目スルターンとなった{{sfn|蔀|2018|p=274}}。 |
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*年代記「イエメン・ラスール朝史に関する真珠の首飾りの書」ハズラジー著(1400年までを記載する) |
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*紅海書「有益の書」 イブン・マージド著 |
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*パリ国民図書館所蔵アラビア語写本4609番所収のラスール朝年代記の断片(1434年まで) |
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*エジプト国立図書館所蔵「タイムール文庫」アラビア語写本274番所収のラスール朝年代記の断片(1434年まで) |
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*「イエメン・ターヒル朝史(幸運のイエメン情報に関する眼の慰めの書」イブン・アッ・ダイバ著 |
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*イエメン史「時代の名士たちの死去に関する胸飾り」アブー・マフラマ著 |
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*エジプト史「諸国王の知識のための事跡の書」マクリーズィー著 |
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*イブン・バットゥータ、イブン・ジュザイイ著、家島彦一訳注「大旅行記第三巻」平凡社東洋文庫、1998年ISBN 978-4582806304 |
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=== ムザッファル1世の治世 === |
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王朝末期の内紛とターヒル朝の成立については以下の史料がある。 |
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ムザッファル1世の治世はラスール朝における最盛期とされている{{sfn|馬場|2017|p=17}}{{sfn|蔀|2018|p=274}}。ムザッファル1世の初期の治世は、マンスール1世が放置していたティハーマと南イエメンの支配を再び確立することに費やされた{{sfn|Smith|1995|p=456}}。その後、ムザッファル1世は、北はヒジャーズ、東は[[ハドラマウト]]まで支配し、さらに東にあり、乳香の産地として名高く海上交易ルートの重要な結節点としても栄えていたズファールに派兵した{{sfn|蔀|2018|p=274-275}}。当時のズファールは[[ハブーディー朝]]と呼ばれる王朝の首都であった。ムザッファルは1279年の夏にズファールに侵攻を開始した。ハブーディー朝はスルターンであったサーリムのもとで激しく抵抗したが敗北し、サーリムは処刑された{{sfn|蔀|2018|p=275}}。こうした広域の支配を確立したことによりラスール朝は運輸・貿易における影響力を得た。インド洋やペルシア湾、中国の商人や有力者はラスール朝に相次いで使者を派遣して通商関係の強化に努めた{{sfn|家島|2021|p=261}}。 |
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*「キルワ王国年代記(キルワ情報に関する慰めの書)」 |
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*イブン・アッダイバ著「ザービド誌」(ザービドの街の情報に関する有益なる望み) |
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ムザッファル1世の治世においてタイッズが新たにラスール朝の首都となった{{sfn|Sadek|2003|p=309, 310}}。 |
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*アブー・マフラマ著「時代の名士たちの死去に関する胸飾り」 |
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=== ムザッファル1世以降 === |
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1295年、死期を悟ったムザッファル1世は息子である[[アシュラフ1世]]を次期スルターンに指名してスルターン位を移譲した{{sfn|栗山|1999|p=76}}{{sfn|馬場|2017|p=20}}。ムザッファル1世は同年に死去した{{sfn|Smith|1995|p=456}}。ムザッファル1世の死去の報を聞いたアシュラフ1世の兄弟である[[ムアイヤド1世]]は、スルターン位を狙ってアシュラフ1世を攻撃した。アシュラフ1世はこれを撃退し、ムアイヤド1世は幽閉された{{sfn|馬場|2017|p=20}}。 |
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アシュラフ1世は1296年、在位2年目にして急死した。アシュラフ1世の息子であるアーディルとナースィルはそれぞれ遠方に滞在していたため、幽閉されていたムアイヤド1世が第4代スルターンに即位した{{sfn|馬場|2017|p=20}}{{sfn|栗山|1999|p=76}}。これ以降、ムアイヤド1世の直径子孫がラスール朝のスルターンとなる。ムアイヤド1世の治世にはザイド派勢力の攻撃やクルド人などによる反乱、また、兄弟であるマスウード1世や、前述のナースィルによる謀反が発生するなど政治的な混乱が発生した。しかし、経済は安定的な成長を続けた{{sfn|馬場|2017|p=21}}。 |
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ムアイヤド1世の後を継いだ[[ムジャーヒド]]は即位後から叔父にあたるマンスールやその息子であるザーヒルとスルターン位を巡って対立した。ザーヒルは12年に渡ってティハーマを支配したため、この間、ラスール朝は2つに分割された{{sfn|馬場|2021|p=168}}。この内紛に誘発されてラスール朝の各地で部族衝突が発生した。これを受けてムジャーヒドは[[マムルーク朝]]のスルターンであるナースィルに援軍の派遣を要請した。イエメンへの勢力拡大を狙っていたナースィルはイエメンに向けてマムルークとアラブの混合部隊を派遣した。マムルーク朝軍は1325年にザビードに侵入した。これを知ったザビードの住民やザーヒルはムジャーヒドに降伏し、ラスール朝は統一へ向かった{{sfn|家島|2021|p=266, 267}}。 |
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マムルーク朝軍によってイエメンが支配されることを恐れたムジャーヒドは、彼らへの糧食や物資の提供を拒んだ。これを受けてマムルーク朝軍は各都市で略奪を行ったが、1235年8月にはマッカに撤退した{{sfn|家島|2021|p=268}}。 |
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=== 内紛と滅亡 === |
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第12代スルターンである[[アシュラフ4世]]以降、5人のスルターンが次々に擁立され、激しい内部抗争を繰り広げたため、ラスール朝は分裂状態となった{{sfn|家島|2021|p=293}}{{sfn|日本イスラム協会|2002|p=578}}。1442年、第13代スルターンには[[ムザッファル2世]]が立ったが、同年にはアブド(後述)によって[[ナースィル2世]]が第15代スルターンとして担がれたほか{{sfn|家島|2021|p=294}}{{sfn|馬場|2021|p=170}}、翌年の1443年にはザビードの守備隊や住民に擁立されて第10代スルターンであるアシュラフ3世の息子である[[マスウード (ラスール朝)|マスウード]]が第16代スルターンとなった。ムザッファル2世とマスウードは武力を用いた内紛を開始し、首都であるタイッズを巡って1448年まで抗争を繰り広げた{{sfn|家島|2021|p=294}}{{sfn|日本イスラム協会|2002|p=578}}。ムザッファル2世とマスウードの内紛による混乱と弱体化を嫌悪したザビードの守備軍らは1451年、新たに[[ムアイヤド2世]]を第17代スルターンとして擁立した{{sfn|家島|2021|p=295}}。しかし、その後、ザビードの有力者は、当時アデンを占領していた、南部山岳地帯出身の部族であるターヒル家に帰順した。ターヒル家は急速にイエメンの都市を制圧した{{sfn|家島|2021|p=297}}{{sfn|Peskes|2010|p=291}}。 |
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1454年、ムアイヤド2世はアデンにてターヒル家によって身柄を確保され、全ての所持品を没収された。これによってラスール朝は滅亡し、ターヒル家による[[ターヒル朝 (イエメン)|ターヒル朝]]が成立した。ムアイヤド2世にはわずかな武器と馬が与えられてマッカへ亡命し、1466年、そこで死去した{{sfn|家島|2021|p=297, 298}}。 |
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== 政府・行政 == |
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=== 王権 === |
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ラスール朝の君主はスルターンであった。第2代スルターンであるムザッファル1世は1258年にアッバース朝のカリフであるムスタスィムがモンゴルに殺害されると自らをカリフと称するようになったが、ムザッファル1世以降のスルターンが積極的にカリフを名乗った形跡はない{{sfn|馬場|2017|p=17, 20}}。 |
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ラスール家の娘たちは主に学者と結婚させられたが、時には他の部族と政略結婚をすることがあった{{sfn|Sadek|1989|p=123}}。 |
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=== 行政機関 === |
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ラスール朝の行政機構は、アイユーブ朝など、ラスール朝に先行する諸王朝のものが継承された{{sfn|馬場|2017|p=153}}{{sfn|El-Shami|Serjeant|1990|p=445}}。ただし、ラスール朝に存在する行政機構も存在した。例えば、応接館と呼称され、宮廷訪問者への対応をする「ハーナ」が存在した{{sfn|馬場|2017|p=153-155}}。 |
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=== タワーシー === |
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ラスール朝の宮廷に従事していた去勢された奴隷であるハーディムのうち、高位のものはタワーシーと呼ばれた。タワーシーはアミールとして軍を率いたほか、スルターンの代理を務めた{{sfn|馬場|2021|p=166}}。 |
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=== 司法 === |
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ラスール朝には司法機構として[[シャーフィイー学派]]の[[カーディー|大カーディー]]が置かれ、その下にカーディーや[[ハーキム]]が設置されていた{{Refnest|group="注釈"|ラスール朝の創設者であるマンスール1世はもともと[[ハナフィー学派]]であったが、夢で預言者ムハンマドに勧められたとしてシャーフィイー学派に法学派を変更した{{sfn|栗山|1999|p=81}}。}}。カーディーの任免は大カーディーの職務だったが、2代スルターンであるムザッファルの治世には大カーディーではなく、ウラマーの名門であるイムラーン家によってカーディーが任命されていた{{sfn|栗山|1999|p=72, 73}}。 |
|||
ムザッファルの治世においてイムラーン家は司法で勢力を伸ばし、中央官職で特権的な地位を占めたが、これによって同家による不正が発生し、ラスール朝の司法に混乱が生じた。しかし、ムザッファルの息子であり第3代スルターンであるアシュラフの死後、同じくウラマーの名門であるムハンマド・ブン・ウマル家が台頭したことを一因としてイムラーン家は失脚した{{sfn|栗山|1999|p=74-76}}。その後、ムハンマド・ブン・ウマル家も、第4代スルターンであるムアッヤドの転覆を謀って失敗したことで失脚した{{sfn|栗山|1999|p=82}}。 |
|||
== 社会 == |
|||
=== 民族 === |
|||
ラスール朝は、土着のイエメン人が多数派を占めていたが、アイユーブ朝の侵攻以来、イエメンには北方からテュルク・クルド系が、また、東アフリカから[[ヌビア|ヌビア系]]、[[エチオピア|エチオピア系]]の人々が流入しており、彼らの子孫も存在した。アフリカ系とイエメン人との混血が進んだほか、クルド系はイエメン社会との同化が進み、1388年以降の史料には登場しない{{sfn|馬場|2021|p=163-165}}。 |
|||
=== 交通 === |
|||
ラスール朝においてはザビード、タイッズとアデンが交通の要衝となっていた{{sfn|馬場|2017|p=125}}。 |
|||
=== 奴隷 === |
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ラスール朝のもとでは男性を指すアブドや去勢された男性を指すハーディム、女性を指すジャーリヤと呼ばれる奴隷が存在した。こうした奴隷はエチオピアやザンジュからラスール朝へもたらされた{{sfn|馬場|2021|p=164-165}}。現在のイエメンにはアフダームと呼ばれる被差別民が存在する。アフダームは多数派のイエメン人と比べて肌の色が黒いほかアフリカ系の顔立ちをしており、こうした奴隷がアフダームになったという説がある{{sfn|馬場|2021|p=170}}{{Refnest|group="注釈"|他にも、[[ヒムヤル王国]]時代にエチオピアから流入した人々や、ラスール朝以前の諸王朝による支配下で流入したアフリカ系の人々に起源を求める説があり、決定的なものはない{{sfn|馬場|2021|p=170}}。}}。 |
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ラスール家や諸部族が有していた男性奴隷であるアブドはしだいに特定の人間集団となった。人間集団であるアブドは農耕してラスール朝に税を納め、また、ラスール朝から穀物が支給された。アブドは軍事力を有してラスール朝に協力した。しかし、第5代スルターンであるムジャーヒドとザーヒルとの間でラスール朝が内紛状態になった際にはザーヒル側につくなどラスール朝に反抗することもあった{{sfn|馬場|2021|p=166, 168, 169}}。 |
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== 経済 == |
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=== 貨幣 === |
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[[ファイル:Rasulids Aden Yemen 1335.jpg|サムネイル|右|アデンで鋳造されたラスール朝の貨幣。魚が刻印されている。]] |
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全てのスルターンが貨幣を製造した。貨幣は主にアデンやタイッズ、ザビード、al-Mahdjamで鋳造された。ラスール朝の貨幣には生き物が刻印されており、鋳造された場所によって刻印が異なる。アデンで鋳造されたものには魚が、タイッズで鋳造されたものには座った人間が、ザビードで鋳造されたものには鳥が、al-Mahdjamで鋳造されたものにはライオンが刻印された{{sfn|Smith|1995|p=456}}。 |
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=== 税制 === |
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ラスール朝はインド洋世界と地中海世界を結ぶ結節点にあったことを利用して、支配下にある主要な港湾では入港税を徴収したほか、輸入品目ごとに細かく規定された関税、仲介税、また、シャワーニー船団の維持・運営という名目でシャワーニー税を徴収した{{sfn|蔀|2018|p=276}}{{sfn|栗山|2008|p=31}}。こうした税制はアイユーブ朝のものが踏襲された{{sfn|栗山|2008|p=31}}。このほかにも農業地帯からはハラージュが徴収された{{sfn|馬場|2017|p=7}}。 |
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ラスール朝では王族や高官、カーディー、ファキーフの私有地や遺産は免税対象となっていた{{sfn|馬場|2021|p=168, 169}}。 |
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=== 農業 === |
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イエメンはアラビア半島のなかで唯一可耕地をもつ地域であり、降雨と灌漑システムの発達によって「緑のイエメン」として知られていた。なかでもザビードを中心としたティハーマは農業生産性が高かった{{sfn|栗山|1994|p=55}}。 |
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=== 貿易 === |
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ラスール朝はイエメンからヒジャーズに至るまでの広域な支配を確立しており、国際運輸や貿易活動に大きな影響を及ぼした。ラスール朝はカリカットやクーラム・マライといったインドの諸都市、キーシュといったペルシア湾の港などとの通商関係を深め、国際運輸・貿易の一大中継地となった{{sfn|家島|2021|p=261}}。 |
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ナースィル1世の治世である1418年から1419年にかけては[[明]]の[[鄭和]]が率いる艦隊がラスール朝のアデンを訪れ、中国からの贈り物が献上された{{sfn|家島|1974|p=139, 140}}。 |
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== 文化 == |
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=== 宗教 === |
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ラスール朝は[[スンナ派]]の王朝だった{{sfn|栗山|1994|p=65}}{{sfn|Smith|1995|p=456}}。200年に渡るラスール朝の支配によってイエメン南部やティハーマにはスンナ派が定着した{{sfn|Smith|1990|p=139}}{{sfn|Peskes|2010|p=290}}。 |
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ラスール朝では積極的に建設事業が行われており、[[モスク]]はマドラサに次いで多く建設された。ただし、ラスール朝以前から存在したモスクは老廃して利用されなくなるところもあった{{sfn|栗山|1994|p=57}}。 |
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=== 学問 === |
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ラスール朝の歴代のスルターンの多くは学者であり、幅広い分野に興味を示していた{{sfn|El-Shami|Serjeant|1990|p=461}}。スルターンたちは学問を奨励していた{{sfn|栗山|1994|p=58, 59}}。例えば、ザビードで教鞭を取っていた著名なウラマーが法学書を作成した際には48,000[[ディルハム]]の報酬がスルターンから与えられた{{sfn|栗山|1994|p=58, 59}}。他にも、著名な辞書学者であった[[マジドッディーン・フィールーザーバーディー]]がスルターンに招聘されてイエメンに到着した際には4,000ディルハムが与えられた{{sfn|栗山|1994|p=58, 59}}。 |
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ラスール朝においては様々な建設事業が行われたが、なかでも[[マドラサ]]が最も多く建設され、過半数を占めている。こうしたマドラサはワクフによって運営された{{sfn|栗山|1994|p=56-57}}。多くのマドラサを建設した理由について、{{harvtxt|栗山|1994}}は、外国人勢力だったラスール朝がイエメンの人々に対して自分たちの権威を認めさせるためであり、また、上記のようにシーア派の分派であるザイド派に対抗してスンナ派勢力の維持と拡大を図ったためであると推測している{{sfn|栗山|1994|p=64, 65}}。 |
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イエメン内に限らず、1241年または1242年にマッカからアイユーブ朝勢力を追放した際には、初代スルターンであるマンスール1世はマッカにシャーフィイー学派のマドラサを設立した。このマドラサは北アフリカからマッカを訪れた巡礼者より称賛を受けた。また、第2代スルターンであるムザッファル1世や、第5代スルターンであるムジャーヒド、第6代スルターンであるアフダルもマッカにマドラサを設立した{{sfn|Mortel|1997|p=240-243}}。 |
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=== 文学 === |
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ラスール朝においては文学が花開いた。また、王室の人物にも評判の良い作家がいた。例えばムザッファル1世は『[[ハディース]]』の編纂を手掛けた{{sfn|Smith|1995|p=457}}。 |
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== 歴代君主 == |
== 歴代君主 == |
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# [[マンスール1世]](在位:[[1229年]] - [[1249年]]または[[1250年]]) |
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{| class="wikitable" |
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# [[ムザッファル1世]](在位:1249年または1250年 - [[1295年]]) |
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! [[スルターン]] !! 治世 |
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# [[アシュラフ1世]](在位:1295年 - [[1296年]]) |
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|- |
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# [[ムアイヤド1世]](在位:1296年 - [[1321年]]) |
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| [[al-Mansur Umar I]] || 1229–1250 |
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# [[ムジャーヒド]](在位:1321年 - [[1363年]]) |
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|- |
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# [[アフダル]](在位:1363年 - [[1377年]]) |
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| [[al-Muzaffar Yusuf I]] || 1250–1295 |
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# [[アシュラフ2世]](在位:1377年 - [[1400年]]) |
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|- |
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# [[ナースィル1世]](在位:1400年 - [[1424年]]) |
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| [[al-Ashraf Umar II]] || 1295–1296 |
|||
# [[マンスール2世]](在位:1424年 - [[1427年]] |
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|- |
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# [[アシュラフ3世]](在位:1427年 - [[1428年]]) |
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| [[al-Mu'ayyad Da'ud]] || 1296–1322 |
|||
# [[ザーヒル (ラスール朝)|ザーヒル]](在位:1428年 - [[1439年]]) |
|||
|- |
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# [[アシュラフ4世]](在位:1439年 - [[1442年]]) |
|||
| [[al-Mujahid Ali]] || 1322–1363 |
|||
# [[ムザッファル2世]](在位:1442年 - ?) |
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|- |
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# [[ムファッダル]](在位:1442年) |
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| [[al-Afdal al-Abbas]] || 1363–1377 |
|||
# [[ナースィル2世]](在位:1442年 - [[1443年]]) |
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|- |
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# [[マスウード (ラスール朝)|マスウード]](在位:1443年 - [[1454年]]) |
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| [[al-Ashraf Isma'il I]] || 1377–1400 |
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# [[ムアイヤド2世]](在位:[[1451年]] - 1454年) |
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|- |
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| [[an-Nasir Ahmad (Rasulid)|an-Nasir Ahmad]] || 1400–1424 |
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=== 系図 === |
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{{harvtxt|日本イスラム協会|2002}}ならびに{{harvtxt|馬場|2017}}をもとに作成{{sfn|日本イスラム協会|2002|p=577, 578}}{{sfn|馬場|2017|p=60, 61}}。 |
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| [[al-Mansur Abdullah]] || 1424–1427 |
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{{familytree/start|style=font-size:75%;}} |
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|- |
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{{familytree | | |MANI| | | | | | | |MANI=[[マンスール1世]]<sup>1</sup>}} |
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| [[al-Ashraf Isma'il II]] || 1427–1428 |
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{{familytree | | | |!| | | | | | |}} |
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|- |
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{{familytree | | |MUFI | | | | | | | |MUFI=[[ムファッダル1世]]<sup>2</sup>}} |
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| [[az-Zahir Yahya]] || 1428–1439 |
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{{familytree | | |,|^|-|-|.| | | |}} |
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|- |
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{{familytree | |ASHI| |MUAI| | | | | | |ASHI=[[アシュラフ1世]]<sup>3</sup>|MUAI=[[ムアイヤド1世]]<sup>4</sup>}} |
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| [[al-Ashraf Isma'il III]] || 1439–1442 |
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{{familytree | | | | | | |!| | | |}} |
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|- |
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{{familytree | | | | | |MUJ| | | | |MUJ=[[ムジャーヒド]]<sup>5</sup>}} |
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| [[al-Muzaffar Yusuf II]] || 1442 |
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{{familytree | | |,|-|-|-|(| | | |}} |
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|} |
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{{familytree | |AA| |AFD| | | | | |AA=アブドゥッラー|AFD=[[アフダル]]<sup>6</sup>}} |
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{{familytree | | |!| | | |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.|}} |
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{{familytree | |YUS| |ASHII| | | | | | | | | | | | | | | |UTH| |YUS=ユースフ|ASHII=[[アシュラフ2世]]<sup>7</sup>|UTH=ウスマーン}} |
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{{familytree | | |!| | | |)|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|.| | |!|}} |
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{{familytree | |MAL| |NASI| | | | | |ZAH| | | |MMU| |ISM| |MAL=マリク|NASI=[[ナースィル1世]]<sup>8</sup>|ZAH=[[ザーヒル (ラスール朝)|ザーヒル]]<sup>11</sup>|MMU=マリク|ISM=イスマーイール}} |
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{{familytree | | |!| | |,|^|-|.|| | |,|-|^|-|.| | | |!| | |!|}} |
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{{familytree | |NASII|MANII|ASHIII| |ASHIV| |MUAII| |MUZII| |MUF|NASII=[[ナースィル2世]]<sup>15</sup>|MANII=[[マンスール2世]]<sup>9</sup>|ASHIII=[[アシュラフ3世]]<sup>10</sup>|ASHIV=[[アシュラフ4世]]<sup>12</sup>|MUZII=[[ムザッファル2世]]<sup>13</sup>|MUAII=[[ムアイヤド2世]]<sup>17</sup>|MUF=[[ムファッダル]]<sup>14</sup>}} |
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{{familytree | | | | | | | | |!| |}} |
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{{familytree | | | | | | | |MAS| | |MAS=[[マスウード (ラスール朝)|マスウード]]<sup>16</sup>}} |
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{{familytree/end}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist}} |
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{{Notelist}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|20em}} |
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== 参考文献 == |
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=== 日本語文献 === |
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*{{Cite journal|和書|author=[[家島彦一]]|title=15世紀におけるインド洋通商史の一齣 : 鄭和遠征分隊のイエメン訪問について|journal=アジア・アフリカ言語文化研究|issue=8|pages=137-155|publisher=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所|year=1974|issn=03872807|ref={{SfnRef|家島|1974}}}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=家島彦一|title=インド洋海域世界の歴史|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|year=2021|isbn=978-4-480-51069-3|ref={{SfnRef|家島|2021}}}} |
|||
*{{Cite journal|和書|author=栗山保之|title=ザビード -南アラビアの学術都市-|journal=オリエント|volume=37|issue=2|pages=53-74|publisher=日本オリエント学会|year=1994|doi=10.5356/jorient.37.2_53|ref={{SfnRef|栗山|1994}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author=栗山保之|title=イエメン・ラスール朝とウラマー名家|journal=オリエント|volume=42|issue=1|pages=67-83|publisher=日本オリエント学会|year=1999|doi=10.5356/jorient.42.67|ref={{SfnRef|栗山|1999}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author=栗山保之|title=13世紀のインド洋交易港アデン:取扱品目の分析から|journal=アジア・アフリカ言語文化研究|issue=75|pages=5-61|publisher=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所|year=2008|issn=03872807|ref={{SfnRef|栗山|2008}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author=斎藤淑子|title=スルタン=カリフ制の一解釈|journal=オリエント|volume=13|issue=1-2|publisher=日本オリエント学会|year=1970|doi=10.5356/jorient.13.43|ref={{SfnRef|斎藤|1970}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[蔀勇造]]|title=物語 アラビアの歴史|series=中公新書|publisher=中央公論新社|year=2018|isbn=978-4-12-102496-1|ref={{SfnRef|蔀|2018}}}} |
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*{{Cite book|和書|editor=日本イスラム協会|title=新イスラム事典|publisher=[[平凡社]]|year=2002|isbn=978-4-58-212633-4|ref={{SfnRef|日本イスラム協会|2002}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=馬場多聞|title=宮廷食材・ネットワーク・王権|publisher=九州大学出版会|year=2017|isbn=978-4-7985-0200-7|ref={{SfnRef|馬場|2017}}}} |
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*{{Cite book|和書|editor=近藤洋平|title=アラビア半島の歴史・文化・社会|publisher=東京大学中東地域研究センター|year=2021|isbn=978-4-90-695202-1}} |
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:*{{Cite book|和書|author=馬場多聞|title=中世イエメンにおける奴隷|pages=159-174|ref={{SfnRef|馬場|2021}}}} |
|||
=== 英語文献 === |
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==関連書籍== |
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*{{Cite book|title=Abbasid Belles Lettres|publisher=[[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]]|year=1990|doi=10.1017/CHOL9780521240161}} |
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*Dresch, P., Tribes, Government, and History in Yemen. Oxford, 1989. |
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:*{{Cite book|first1=A.|last1=El-Shami|first2=R. B.|last2=Serjeant|title=Regional literature: the Yemen|pages=442-468|ref={{SfnRef|El-Shami|Serjeant|1990}}}} |
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*『海が創る文明―インド洋海域世界の歴史』([[朝日新聞社]]、[[1993年]])ISBN=978-4815805340 |
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*{{Cite journal|first=Richard T.|last=Mortel|title=Madrasas in Mecca during the Medieval Period: A Descriptive Study Based on Literary Sources|journal=Bulletin of the School of Oriental and African Studies|volume=60|issue=2|publisher=Cambridge University Press|year=1997|url=https://www-jstor-org.wikipedialibrary.idm.oclc.org/stable/620384?Search=yes&resultItemClick=true&searchText=Madrasas+in+Mecca+during+the+Medieval+Period+A+Descriptive+Study+Based+on+Literary+Sources&searchUri=%2Faction%2FdoBasicSearch%3FQuery%3DMadrasas%2Bin%2BMecca%2Bduring%2Bthe%2BMedieval%2BPeriod%253A%2BA%2BDescriptive%2BStudy%2BBased%2Bon%2BLiterary%2BSources%26so%3Drel&ab_segments=0%2FSYC-6168%2Ftest&refreqid=fastly-default%3Afb58d9fc9e023e41b9d12e40c27e462b&seq=1#metadata_info_tab_contents|jstor=620384|ref={{SfnRef|Mortel|1997}}}} |
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*『海域から見た歴史―インド洋と地中海を結ぶ交流史』([[名古屋大学出版会]]、[[2006年]])ISBN=978-4022566010 |
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*{{Cite book|editor=Maribel Fierro|title=The New Cambridge History of Islam|volume=2|publisher=Cambridge University Press|year=2010|doi=10.1017/CHOL9780521839570}} |
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:*{{Cite book|first=Esther|last=Peskes|title=Western Arabia and Yemen (fifth/eleventh century to the Ottoman conquest)|pages=285-298|ref={{SfnRef|Peskes|2010}}}} |
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*{{Cite journal|first=Noha|last=Sadek|title=RASŪLID WOMEN: POWER AND PATRONAGE|journal=Proceedings of the Seminar for Arabian Studies|volume=19|publisher=[[:en:Archaeopress|Archaeopress]]|year=1989|url=https://www-jstor-org.wikipedialibrary.idm.oclc.org/stable/41223091?Search=yes&resultItemClick=true&searchText=RAS%C5%AALID+WOMEN+POWER+AND+PATRONAGE&searchUri=%2Faction%2FdoBasicSearch%3FQuery%3DRAS%25C5%25AALID%2BWOMEN%253A%2BPOWER%2BAND%2BPATRONAGE%26so%3Drel&ab_segments=0%2FSYC-6168%2Ftest&refreqid=fastly-default%3A4fb83a6f026aff98a08030ad2fba194c&seq=1#metadata_info_tab_contents|jstor=41223091|ref={{SfnRef|Sadek|1989}}}} |
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*{{Cite journal|first=Noha|last=Sadek|title=Taʿizz, capital of the Rasulid dynasty in Yemen|journal=Proceedings of the Seminar for Arabian Studies|volume=33|publisher=Archaeopress|year=2003|url=https://www-jstor-org.wikipedialibrary.idm.oclc.org/stable/41223771?Search=yes&resultItemClick=true&searchText=Ta%CA%BFizz%2C+capital+of+the+Rasulid+dynasty+in+Yemen&searchUri=%2Faction%2FdoBasicSearch%3FQuery%3DTa%25CA%25BFizz%252C%2Bcapital%2Bof%2Bthe%2BRasulid%2Bdynasty%2Bin%2BYemen%26filter%3D%26so%3Drel&ab_segments=0%2FSYC-6168%2Ftest&refreqid=fastly-default%3Ae867a7c834973558d034b685739837b7&seq=1#metadata_info_tab_contents|jstor=41223771|ref={{SfnRef|Sadek|2003}}}} |
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*{{Cite journal|first=G.Rex|last=Smith|title=YEMENITE HISTORY - PROBLEMS AND MISCONCEPTIONS|journal=Proceedings of the Seminar for Arabian Studies|volume=20|publisher=Archaeopress|year=1990|url=https://www-jstor-org.wikipedialibrary.idm.oclc.org/stable/41223264?Search=yes&resultItemClick=true&searchText=Yemenite+History&searchUri=%2Faction%2FdoBasicSearch%3FQuery%3DYemenite%2BHistory%26so%3Drel&ab_segments=0%2FSYC-6168%2Ftest&refreqid=fastly-default%3A84bf500b917586f1667fbc31395f54b2&seq=1#metadata_info_tab_contents|jstor=41223264|ref={{SfnRef|Smith|1990}}}} |
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*{{Cite book|title=[[:en:Encyclopaedia of Islam|The Encyclopaedia of Islam]]|edition=New|volume=8|publisher=[[ブリル (出版社)|Brill]]|year=1995|isbn=978-90-04-09834-3}} |
|||
:*{{Cite book|first=G.R.|last=Smith|title=Rasulids|pages=455-457|ref={{SfnRef|Smith|1995}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
*{{仮リンク|スンナ派イスラム王朝の一覧|en|List of Sunni Muslim dynasties}} |
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* [[家島彦一]] |
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* {{仮リンク|スンナ派イスラム王朝の一覧|en|List of Sunni Muslim dynasties}} |
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{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
2022年1月18日 (火) 04:23時点における版
ラスール朝(ラスールちょう)は、13世紀から15世紀にかけてイエメンを支配したスンナ派のイスラーム王朝。アイユーブ朝に仕えたテュルク系のアミールであるマンスール1世を創始者とする。
1229年にイエメンを治めるアイユーブ朝のスルターンの代理となったマンスール1世はラスール朝を創始する。その後も外向きにはアイユーブ朝への忠誠を示していたが、1235年にアッバース朝のカリフからイエメン支配の承認を得て名実ともに独立した。マンスール1世を継いだムザッファル1世がラスール朝の最盛期とされている。ラスール朝は国際貿易の一大中継地として栄えたが、たびたび内紛が発生した。特に第12代スルターンの死後は5人のスルターンが立って抗争を繰り広げたため分裂状態となり、その中でターヒル家が台頭した。1454年に第17代スルターンであるムアイヤド2世がターヒル家に身柄を確保されたことでラスール朝は滅亡し、ターヒル家によるターヒル朝が成立した。
名称
ラスール(アラビア語: رسول)とはアラビア語で伝令を意味し、ラスール家の始祖であるムハンマド・ブン・ハールーンのあだ名に由来する[1]。
歴史
背景
9世紀の初め、ムスリムによる大征服の終了により地中海世界ではアッバース朝とビザンツ帝国の関係が安定したことや、西ヨーロッパが政治的・経済的に繁栄したこと、後ウマイヤ朝がアブド・アッラフマーン1世のもとで基礎が整えられたことなどを要因として、紅海を経由した交易が盛んになった。これによってイエメンは地中海世界とインド洋世界の重要な結節点となった[2]。
1169年にサラーフッディーンがザンギー朝の実権を握ったことに始まるアイユーブ朝にとって、紅海経由の交易路の安全を確保することは喫緊の課題であった。そのため、サラーフッディーンは1173年に兄のトゥーラーン・シャーが率いるテュルク・クルド系で構成される部隊をイエメンに派遣した。当時のイエメンにはマフディー朝やズライゥ朝、ハムダーン朝などの地方政権が割拠していたが、アイユーブ朝軍はそれらを打ち破り、ザイド派勢力が支配していた北部を除くイエメンの支配を確立した。アイユーブ朝は、アイユーブ一族の者をスルターンとしてイエメンを統治した[3][4][5]。
ラスール家がイエメンに流入した時期については2つの説がある。1つ目は、トゥーラーン・シャーとともに1173年に侵攻したという説であり、2つ目は、1183年に流入したという説である。いずれにせよ、ラスール家はアイユーブ朝のスルターンのアミールとしてイエメンに流入した[1][6]。
ラスール家はムハンマド・ブン・ウマルを始祖とする一族である[1]。同家の出自が南アラブ系だとする史書も在るが、そのほかの史料や現代の研究から、同家はテュルク系だと考えられている[7]。
ラスール朝の成立
イエメンにおけるアイユーブ朝の6代目スルターンであるマスウード・ユースフはヌール・アッディーンに厚い信頼を寄せていた[8][9]。1228年または1229年(ヒジュラ暦626年)、新たな任地に移ることとなったマスウードは、次のスルターンが派遣されるまでの代行者としてヌール・アッディーン(後のマンスール1世)を指名した。しかし、次のスルターンは派遣されてこなかった[1][8][9]。そのため、この1229年にラスール朝が成立したとされている。また、ヌール・アッディーンはこの年からマンスールと名乗るようになった[10][注釈 1]。マンスール1世は外向きにはアイユーブ朝のカリフに忠誠を示していたが、1233年には独自に貨幣の鋳造を始めた。1235年にアッバース朝のカリフであるムスタンスィルよりイエメン支配の承認を受け、これによってラスール朝は名実ともに独立した[1][8][9][注釈 2]。
ラスール朝の当初の領域はアイユーブ朝時代に支配した、紅海沿いの平原であるティハーマと南イエメンだった[12]。マンスール1世は南部の山岳地帯のタイッズから北部のサナアに至るまで支配地域を広げ、また、アイユーブ朝が十字軍の対処に追われている隙をついてヒジャーズに派兵し、1241年または1242年にはマッカからアイユーブ朝の勢力を排除した[13][14]。この際にマンスール1世はマッカのマスジド・ハラームの西側にマドラサを建設した[15]。このほか、マンスール1世はマディーナの外港であるヤンブゥを支配した[13][14]。
1249年または1250年、マンスール1世はタイッズの北にあるジャナドにおいてマムルークに殺害された[12][13]。マンスールの3人の息子の間では激しい後継者争いが起こり、ムザッファル1世が2代目スルターンとなった[13]。
ムザッファル1世の治世
ムザッファル1世の治世はラスール朝における最盛期とされている[16][13]。ムザッファル1世の初期の治世は、マンスール1世が放置していたティハーマと南イエメンの支配を再び確立することに費やされた[12]。その後、ムザッファル1世は、北はヒジャーズ、東はハドラマウトまで支配し、さらに東にあり、乳香の産地として名高く海上交易ルートの重要な結節点としても栄えていたズファールに派兵した[17]。当時のズファールはハブーディー朝と呼ばれる王朝の首都であった。ムザッファルは1279年の夏にズファールに侵攻を開始した。ハブーディー朝はスルターンであったサーリムのもとで激しく抵抗したが敗北し、サーリムは処刑された[18]。こうした広域の支配を確立したことによりラスール朝は運輸・貿易における影響力を得た。インド洋やペルシア湾、中国の商人や有力者はラスール朝に相次いで使者を派遣して通商関係の強化に努めた[19]。
ムザッファル1世の治世においてタイッズが新たにラスール朝の首都となった[20]。
ムザッファル1世以降
1295年、死期を悟ったムザッファル1世は息子であるアシュラフ1世を次期スルターンに指名してスルターン位を移譲した[21][22]。ムザッファル1世は同年に死去した[12]。ムザッファル1世の死去の報を聞いたアシュラフ1世の兄弟であるムアイヤド1世は、スルターン位を狙ってアシュラフ1世を攻撃した。アシュラフ1世はこれを撃退し、ムアイヤド1世は幽閉された[22]。
アシュラフ1世は1296年、在位2年目にして急死した。アシュラフ1世の息子であるアーディルとナースィルはそれぞれ遠方に滞在していたため、幽閉されていたムアイヤド1世が第4代スルターンに即位した[22][21]。これ以降、ムアイヤド1世の直径子孫がラスール朝のスルターンとなる。ムアイヤド1世の治世にはザイド派勢力の攻撃やクルド人などによる反乱、また、兄弟であるマスウード1世や、前述のナースィルによる謀反が発生するなど政治的な混乱が発生した。しかし、経済は安定的な成長を続けた[23]。
ムアイヤド1世の後を継いだムジャーヒドは即位後から叔父にあたるマンスールやその息子であるザーヒルとスルターン位を巡って対立した。ザーヒルは12年に渡ってティハーマを支配したため、この間、ラスール朝は2つに分割された[24]。この内紛に誘発されてラスール朝の各地で部族衝突が発生した。これを受けてムジャーヒドはマムルーク朝のスルターンであるナースィルに援軍の派遣を要請した。イエメンへの勢力拡大を狙っていたナースィルはイエメンに向けてマムルークとアラブの混合部隊を派遣した。マムルーク朝軍は1325年にザビードに侵入した。これを知ったザビードの住民やザーヒルはムジャーヒドに降伏し、ラスール朝は統一へ向かった[25]。
マムルーク朝軍によってイエメンが支配されることを恐れたムジャーヒドは、彼らへの糧食や物資の提供を拒んだ。これを受けてマムルーク朝軍は各都市で略奪を行ったが、1235年8月にはマッカに撤退した[26]。
内紛と滅亡
第12代スルターンであるアシュラフ4世以降、5人のスルターンが次々に擁立され、激しい内部抗争を繰り広げたため、ラスール朝は分裂状態となった[27][28]。1442年、第13代スルターンにはムザッファル2世が立ったが、同年にはアブド(後述)によってナースィル2世が第15代スルターンとして担がれたほか[29][30]、翌年の1443年にはザビードの守備隊や住民に擁立されて第10代スルターンであるアシュラフ3世の息子であるマスウードが第16代スルターンとなった。ムザッファル2世とマスウードは武力を用いた内紛を開始し、首都であるタイッズを巡って1448年まで抗争を繰り広げた[29][28]。ムザッファル2世とマスウードの内紛による混乱と弱体化を嫌悪したザビードの守備軍らは1451年、新たにムアイヤド2世を第17代スルターンとして擁立した[31]。しかし、その後、ザビードの有力者は、当時アデンを占領していた、南部山岳地帯出身の部族であるターヒル家に帰順した。ターヒル家は急速にイエメンの都市を制圧した[32][33]。
1454年、ムアイヤド2世はアデンにてターヒル家によって身柄を確保され、全ての所持品を没収された。これによってラスール朝は滅亡し、ターヒル家によるターヒル朝が成立した。ムアイヤド2世にはわずかな武器と馬が与えられてマッカへ亡命し、1466年、そこで死去した[34]。
政府・行政
王権
ラスール朝の君主はスルターンであった。第2代スルターンであるムザッファル1世は1258年にアッバース朝のカリフであるムスタスィムがモンゴルに殺害されると自らをカリフと称するようになったが、ムザッファル1世以降のスルターンが積極的にカリフを名乗った形跡はない[35]。
ラスール家の娘たちは主に学者と結婚させられたが、時には他の部族と政略結婚をすることがあった[36]。
行政機関
ラスール朝の行政機構は、アイユーブ朝など、ラスール朝に先行する諸王朝のものが継承された[37][38]。ただし、ラスール朝に存在する行政機構も存在した。例えば、応接館と呼称され、宮廷訪問者への対応をする「ハーナ」が存在した[39]。
タワーシー
ラスール朝の宮廷に従事していた去勢された奴隷であるハーディムのうち、高位のものはタワーシーと呼ばれた。タワーシーはアミールとして軍を率いたほか、スルターンの代理を務めた[40]。
司法
ラスール朝には司法機構としてシャーフィイー学派の大カーディーが置かれ、その下にカーディーやハーキムが設置されていた[注釈 3]。カーディーの任免は大カーディーの職務だったが、2代スルターンであるムザッファルの治世には大カーディーではなく、ウラマーの名門であるイムラーン家によってカーディーが任命されていた[42]。
ムザッファルの治世においてイムラーン家は司法で勢力を伸ばし、中央官職で特権的な地位を占めたが、これによって同家による不正が発生し、ラスール朝の司法に混乱が生じた。しかし、ムザッファルの息子であり第3代スルターンであるアシュラフの死後、同じくウラマーの名門であるムハンマド・ブン・ウマル家が台頭したことを一因としてイムラーン家は失脚した[43]。その後、ムハンマド・ブン・ウマル家も、第4代スルターンであるムアッヤドの転覆を謀って失敗したことで失脚した[44]。
社会
民族
ラスール朝は、土着のイエメン人が多数派を占めていたが、アイユーブ朝の侵攻以来、イエメンには北方からテュルク・クルド系が、また、東アフリカからヌビア系、エチオピア系の人々が流入しており、彼らの子孫も存在した。アフリカ系とイエメン人との混血が進んだほか、クルド系はイエメン社会との同化が進み、1388年以降の史料には登場しない[45]。
交通
ラスール朝においてはザビード、タイッズとアデンが交通の要衝となっていた[46]。
奴隷
ラスール朝のもとでは男性を指すアブドや去勢された男性を指すハーディム、女性を指すジャーリヤと呼ばれる奴隷が存在した。こうした奴隷はエチオピアやザンジュからラスール朝へもたらされた[47]。現在のイエメンにはアフダームと呼ばれる被差別民が存在する。アフダームは多数派のイエメン人と比べて肌の色が黒いほかアフリカ系の顔立ちをしており、こうした奴隷がアフダームになったという説がある[30][注釈 4]。
ラスール家や諸部族が有していた男性奴隷であるアブドはしだいに特定の人間集団となった。人間集団であるアブドは農耕してラスール朝に税を納め、また、ラスール朝から穀物が支給された。アブドは軍事力を有してラスール朝に協力した。しかし、第5代スルターンであるムジャーヒドとザーヒルとの間でラスール朝が内紛状態になった際にはザーヒル側につくなどラスール朝に反抗することもあった[48]。
経済
貨幣
全てのスルターンが貨幣を製造した。貨幣は主にアデンやタイッズ、ザビード、al-Mahdjamで鋳造された。ラスール朝の貨幣には生き物が刻印されており、鋳造された場所によって刻印が異なる。アデンで鋳造されたものには魚が、タイッズで鋳造されたものには座った人間が、ザビードで鋳造されたものには鳥が、al-Mahdjamで鋳造されたものにはライオンが刻印された[12]。
税制
ラスール朝はインド洋世界と地中海世界を結ぶ結節点にあったことを利用して、支配下にある主要な港湾では入港税を徴収したほか、輸入品目ごとに細かく規定された関税、仲介税、また、シャワーニー船団の維持・運営という名目でシャワーニー税を徴収した[49][50]。こうした税制はアイユーブ朝のものが踏襲された[50]。このほかにも農業地帯からはハラージュが徴収された[51]。
ラスール朝では王族や高官、カーディー、ファキーフの私有地や遺産は免税対象となっていた[52]。
農業
イエメンはアラビア半島のなかで唯一可耕地をもつ地域であり、降雨と灌漑システムの発達によって「緑のイエメン」として知られていた。なかでもザビードを中心としたティハーマは農業生産性が高かった[53]。
貿易
ラスール朝はイエメンからヒジャーズに至るまでの広域な支配を確立しており、国際運輸や貿易活動に大きな影響を及ぼした。ラスール朝はカリカットやクーラム・マライといったインドの諸都市、キーシュといったペルシア湾の港などとの通商関係を深め、国際運輸・貿易の一大中継地となった[19]。
ナースィル1世の治世である1418年から1419年にかけては明の鄭和が率いる艦隊がラスール朝のアデンを訪れ、中国からの贈り物が献上された[54]。
文化
宗教
ラスール朝はスンナ派の王朝だった[55][12]。200年に渡るラスール朝の支配によってイエメン南部やティハーマにはスンナ派が定着した[56][57]。
ラスール朝では積極的に建設事業が行われており、モスクはマドラサに次いで多く建設された。ただし、ラスール朝以前から存在したモスクは老廃して利用されなくなるところもあった[58]。
学問
ラスール朝の歴代のスルターンの多くは学者であり、幅広い分野に興味を示していた[59]。スルターンたちは学問を奨励していた[60]。例えば、ザビードで教鞭を取っていた著名なウラマーが法学書を作成した際には48,000ディルハムの報酬がスルターンから与えられた[60]。他にも、著名な辞書学者であったマジドッディーン・フィールーザーバーディーがスルターンに招聘されてイエメンに到着した際には4,000ディルハムが与えられた[60]。
ラスール朝においては様々な建設事業が行われたが、なかでもマドラサが最も多く建設され、過半数を占めている。こうしたマドラサはワクフによって運営された[61]。多くのマドラサを建設した理由について、栗山 (1994)は、外国人勢力だったラスール朝がイエメンの人々に対して自分たちの権威を認めさせるためであり、また、上記のようにシーア派の分派であるザイド派に対抗してスンナ派勢力の維持と拡大を図ったためであると推測している[62]。
イエメン内に限らず、1241年または1242年にマッカからアイユーブ朝勢力を追放した際には、初代スルターンであるマンスール1世はマッカにシャーフィイー学派のマドラサを設立した。このマドラサは北アフリカからマッカを訪れた巡礼者より称賛を受けた。また、第2代スルターンであるムザッファル1世や、第5代スルターンであるムジャーヒド、第6代スルターンであるアフダルもマッカにマドラサを設立した[63]。
文学
ラスール朝においては文学が花開いた。また、王室の人物にも評判の良い作家がいた。例えばムザッファル1世は『ハディース』の編纂を手掛けた[64]。
歴代君主
- マンスール1世(在位:1229年 - 1249年または1250年)
- ムザッファル1世(在位:1249年または1250年 - 1295年)
- アシュラフ1世(在位:1295年 - 1296年)
- ムアイヤド1世(在位:1296年 - 1321年)
- ムジャーヒド(在位:1321年 - 1363年)
- アフダル(在位:1363年 - 1377年)
- アシュラフ2世(在位:1377年 - 1400年)
- ナースィル1世(在位:1400年 - 1424年)
- マンスール2世(在位:1424年 - 1427年
- アシュラフ3世(在位:1427年 - 1428年)
- ザーヒル(在位:1428年 - 1439年)
- アシュラフ4世(在位:1439年 - 1442年)
- ムザッファル2世(在位:1442年 - ?)
- ムファッダル(在位:1442年)
- ナースィル2世(在位:1442年 - 1443年)
- マスウード(在位:1443年 - 1454年)
- ムアイヤド2世(在位:1451年 - 1454年)
系図
日本イスラム協会 (2002)ならびに馬場 (2017)をもとに作成[65][66]。
マンスール1世1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムファッダル1世2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アシュラフ1世3 | ムアイヤド1世4 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムジャーヒド5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アブドゥッラー | アフダル6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユースフ | アシュラフ2世7 | ウスマーン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリク | ナースィル1世8 | ザーヒル11 | マリク | イスマーイール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ナースィル2世15 | マンスール2世9 | アシュラフ3世10 | アシュラフ4世12 | ムアイヤド2世17 | ムザッファル2世13 | ムファッダル14 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マスウード16 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e Smith 1995, p. 455.
- ^ 蔀 2018, p. 268, 269, 271.
- ^ 馬場 2017, p. 13.
- ^ 蔀 2018, p. 271.
- ^ 馬場 2021, p. 163.
- ^ 蔀 2018, p. 272, 273.
- ^ 馬場 2021, p. 163-164.
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