「紀元前430年」の版間の差分
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2021年3月29日 (月) 12:21時点における版
世紀 | 前6世紀 - 前5世紀 - 前4世紀 |
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十年紀 |
前450年代 前440年代 前430年代 前420年代 前410年代 |
年 |
前433年 前432年 前431年 紀元前430年 前429年 前428年 前427年 |
紀元前430年は、ローマ暦の年である。
当時は、「クラッススが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元324年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前430年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ギリシア
- スパルタ軍が再びアッティケーを荒らし回ったが、ペリクレスはこれにひるまず、当初の戦略を変更しなかった。ペリクレスはスパルタ軍との地上戦を避け、再びペロポネソス半島沿岸を海から襲うべく、今回は艦隊の規模を100隻ほどに増強し、海路での遠征を行なった。
- アテナイに攻城戦を仕掛けられていたポティダイア (Potidaea) が、冬場になって遂に降伏した。
- アテナイで疫病が発生し、人口密度が高かったこの都市で猛威を振るった(古代の墓から得られた検体による現代のDNA分析から、この疫病はチフスと推定されている)。3万人以上の市民、船員、兵士が死に、ペリクレスの2人の息子も犠牲となった。アテナイの人口の概ね4分の1ほどが、この疫病で死んだ。この疫病の広がりを恐れたスパルタ軍は、兵士たちが病に冒された敵軍と接触することを嫌ったため、アッティケー侵略を放棄して撤退した。
- ペリクレス自身も罹患したが、一時は回復を見せた。ペリクレスは将軍職を一旦解かれたが、後に再任された。
中国
芸術
- ポリュクレイトスが、代表的な彫刻作品のひとつである大作ディアデュメノス (Diadumenos) を完成させた。
誕生
→「Category:紀元前430年生」も参照
死去
→「Category:紀元前430年没」も参照
- エンペドクレス - ギリシアの哲学者(おおよその年代)(紀元前490年ころ生)
- ペイディアス - ギリシアの彫刻家(おおよその年代)(紀元前490年/紀元前480年ころ生)
- エレアのゼノン - ギリシアの哲学者(おおよその年代)(紀元前490年ころ生)
脚注
注釈
出典