「紀元前389年」の版間の差分
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* [[楚 (春秋)|楚]]の[[令尹]]([[中国の宰相|宰相]])[[呉起]]が、政治、行政、軍制改革に着手し、最初の一連の法令を定めた。呉起は、この国から腐敗を一掃し、特権を制限しようと取り組んでおり、それに反発していた楚の高官や貴族たちは呉起への怒りや不信を高めた。呉起は、最後には[[紀元前381年]]の[[悼王 (楚)|悼王]]の葬儀の際に暗殺されたが、暗殺者たちは直後に即位した[[粛王]]によって一族もろとも処刑された。 |
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* 歴史書『[[春秋]]』の代表的な注釈書で、[[左丘明]]という盲目の歴史家の作とされる『[[春秋左氏伝]]』が、この年までに成立した(より古い可能性がある)。 |
* 歴史書『[[春秋]]』の代表的な注釈書で、[[左丘明]]という盲目の歴史家の作とされる『[[春秋左氏伝]]』が、この年までに成立した(より古い可能性がある)。 |
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2021年3月29日 (月) 12:41時点における版
世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
---|---|
十年紀 |
前390年代 前380年代 前370年代 前360年代 前350年代 |
年 |
前392年 前391年 前390年 紀元前389年 前388年 前387年 前386年 |
紀元前389年は、ローマ暦の年である。
当時は、「ポプリコラ、カピトリヌス、エスクイリヌス、マメルキヌス、コルネリウス、アルビヌスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元365年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前389年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ギリシア
- スパルタ王アゲシラオス2世が率いるスパルタ遠征軍は、コリンティアコス湾を渡って反スパルタ同盟に加わっていたアカルナニア (Acarnania) を攻撃した。アゲシラオスは、最後には敵を会戦に引き出し、アカルナニ勢を潰走させた。
- アテナイの将軍トラシュブロスが、三段櫂船の艦隊を率い、エーゲ海の諸都市からの献納を集め、民主派の政権がスパルタと戦っていたロドス島の救援に向かった。この遠征中に、トラシュブロスはビュザンティオンを陥れ、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を通る船に課税し、エーゲ海の島々の多くから献納を集めた。
中国
- 秦が晋に侵攻した。
- 斉の田和が魏や楚や衛と濁沢で会盟し、諸侯となることを求めた。
- 楚の令尹(宰相)呉起が、政治、行政、軍制改革に着手し、最初の一連の法令を定めた。呉起は、この国から腐敗を一掃し、特権を制限しようと取り組んでおり、それに反発していた楚の高官や貴族たちは呉起への怒りや不信を高めた。呉起は、最後には紀元前381年の悼王の葬儀の際に暗殺されたが、暗殺者たちは直後に即位した粛王によって一族もろとも処刑された。
- 歴史書『春秋』の代表的な注釈書で、左丘明という盲目の歴史家の作とされる『春秋左氏伝』が、この年までに成立した(より古い可能性がある)。
誕生
→「Category:紀元前389年生」も参照
死去
→「Category:紀元前389年没」も参照
脚注
注釈
出典