紀元前317年
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紀元前317年(きげんぜん317ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ブルトゥスとバルブラが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元437年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前317年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]マケドニア帝国
[編集]- セレウコスがアンティゴノスに味方して、ともにカルディアのエウメネスに当たり、バビロンを奪還する。
- パラエタケネの戦い:西洋の会戦としては初めて両軍が戦象隊を動員した、アレクサンドロス3世(大王)の遺した帝国の支配権を巡って争われた戦い。
- アルメニアのペルシア人サトラップ(太守)アルドヴァテス (Ardvates) が、マケドニアの支配から祖国を解放した。
- カッサンドロスは、マケドニア王国の摂政ポリュペルコンと破ってアテナイを奪い、その統治をアテナイの雄弁家、政治家、哲学者であったデメトリオス・パレレオスに委ねた。
- ポリュペルコンはエピロスへ逃れ、亡くなったアレクサンドロス3世(大王)の母であるオリュンピアス、大王の未亡人ロクサネとその幼い息子アレクサンドロス4世と合流した。ポリュペルコンは、アレクサンドロス4世の摂政として行動していたオリュンピアス、エピロス王アエアキデス (Aeacides of Epirus) と同盟を結んだ。
- カッサンドロスがペロポネソス半島方面の戦いで忙殺されている間に、オリュンピアスはマケドニアで軍を率いて戦った。最初はうまくゆき、ピリッポス3世の軍勢を撃破して、王と妃のエウリュディケ2世、カッサンドロスの兄弟ニカノール (Nicanor) を捕らえ、殺害した。
- プトレマイオス1世が、妻エウリュディケの侍女だったベレニケと結婚した。
シチリア
[編集]- 寡頭制統治の打倒を図って2度追放されていたアガトクレスが、軍隊を引き連れてシュラクサイに舞い戻り、寡頭制統治のリーダーたちを含む1万人もの市民があるいは逃亡し、あるいは殺害され、アガトクレスは自ら僭主となった。アケストリデス (Acestorides) は逃亡した。
中国
[編集]芸術
[編集]- アテナイの墓地で、私的な記念物の設置が禁じられた。
文学
[編集]誕生
[編集]→「Category:紀元前317年生」も参照
死去
[編集]→「Category:紀元前317年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典