「簡王 (楚)」の版間の差分
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2021年3月29日 (月) 12:42時点における版
簡王 熊中 | |
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楚 | |
王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前432年 - 前408年 |
都城 | 郢 |
姓・諱 | 熊中 |
諡号 | 簡大王[1]、柬大王[2] |
生年 | 不詳 |
没年 | 前408年 |
簡王(かんおう、? - 紀元前408年、在位:紀元前432年 - 紀元前408年)は、中国の春秋時代の楚の王。姓は羋、氏は熊。諱は中[3]。
生涯
楚の恵王の子として生まれた。紀元前432年、恵王が死去し、簡王が楚王として即位した。紀元前431年、北伐して莒を滅ぼした[4]。紀元前425年、宋の悼公が楚に来朝し、宋の司城[立皮]が公室を弱体化させていると報告した。簡王は莫敖の昜為に軍を率いて赴かせ、宋の公室を平定し、黄池や雍丘に築城するよう命じた。晋の魏斯・趙浣・韓啓章が軍を率いて黄池を包囲したため、昜為の兵を楚に帰国させた。紀元前423年、簡王は昜為に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は宜陽を奪い、赤岸を包囲して、黄池の役に報復した。晋の魏斯・趙浣・韓啓章が軍を率いて赤岸を救援したので、楚軍は包囲を解いて撤退した。晋軍と長城で戦って楚軍は敗れ、多くの物資を遺棄して逃走した[1]。紀元前413年、楚軍が晋を攻撃して上洛に達した[5]。紀元前408年、簡王が死去し、子の声王が楚王に即位した[4]。
脚注
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