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「簡王 (楚)」の版間の差分

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== 生涯 ==
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楚の[[恵王 (楚)|恵王]]の子として生まれた。[[紀元前432年]]、恵王が死去し、簡王が楚王として即位した。[[紀元前431年]]、北伐して莒を滅ぼした<ref name="soseika">『史記』楚世家</ref>。[[紀元前425年]]、[[宋 (春秋)|宋]]の[[悼公 (宋)|悼公]]が楚に来朝し、宋の司城[立皮]が公室を弱体化させていると報告した。簡王は莫敖の昜為に軍を率いて赴かせ、宋の公室を平定し、黄池や雍丘に築城するよう命じた。[[晋 (春秋)|晋]]の[[文侯 (魏)|魏斯]]・[[献侯 (趙)|趙浣]]・[[韓啓章]]が軍を率いて黄池を包囲したため、昜為の兵を楚に帰国させた。[[紀元前423年]]、簡王は昜為に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は宜陽を奪い、赤岸を包囲して、黄池の役に報復した。晋の魏斯・趙浣・韓啓章が軍を率いて赤岸を救援したので、楚軍は包囲を解いて撤退した。晋軍と長城で戦って楚軍は敗れ、多くの物資を遺棄して逃走した<ref name="seikakan"/>。[[紀元前413年]]、楚軍が晋を攻撃して上洛に達した<ref>『古本[[竹書紀年]]』晋紀烈公3年</ref>。[[紀元前408年]]、簡王が死去し、子の[[声王 (楚)|声王]]が楚王に即位した<ref name="soseika"/>。
楚の[[恵王 (楚)|恵王]]の子として生まれた。[[紀元前432年]]、恵王が死去し、簡王が楚王として即位した。[[紀元前431年]]、北伐して莒を滅ぼした<ref name="soseika">『史記』楚世家</ref>。[[紀元前425年]]、[[宋 (春秋)|宋]]の[[悼公 (宋)|悼公]]が楚に来朝し、宋の司城[立皮]が公室を弱体化させていると報告した。簡王は莫敖の昜為に軍を率いて赴かせ、宋の公室を平定し、黄池や雍丘に築城するよう命じた。[[晋 (春秋)|晋]]の[[文侯 (魏)|魏斯]]・[[献侯 (趙)|趙浣]]・[[韓啓章]]が軍を率いて黄池を包囲したため、昜為の兵を楚に帰国させた。[[紀元前423年]]、簡王は昜為に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は宜陽を奪い、赤岸を包囲して、黄池の役に報復した。晋の魏斯・趙浣・韓啓章が軍を率いて赤岸を救援したので、楚軍は包囲を解いて撤退した。晋軍と長城で戦って楚軍は敗れ、多くの物資を遺棄して逃走した<ref name="seikakan"/>。[[紀元前413年]]、楚軍が晋を攻撃して上洛に達した<ref>『古本[[竹書紀年]]』晋紀烈公3年</ref>。[[紀元前408年]]、簡王が死去し、子の[[声王]]が楚王に即位した<ref name="soseika"/>。


== 脚注 ==
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2021年3月29日 (月) 12:42時点における版

簡王 熊中
王朝
在位期間 前432年 - 前408年
都城
姓・諱 熊中
諡号 簡大王[1]、柬大王[2]
生年 不詳
没年 前408年

簡王(かんおう、? - 紀元前408年、在位:紀元前432年 - 紀元前408年)は、中国春秋時代の王。[3]

生涯

楚の恵王の子として生まれた。紀元前432年、恵王が死去し、簡王が楚王として即位した。紀元前431年、北伐して莒を滅ぼした[4]紀元前425年悼公が楚に来朝し、宋の司城[立皮]が公室を弱体化させていると報告した。簡王は莫敖の昜為に軍を率いて赴かせ、宋の公室を平定し、黄池や雍丘に築城するよう命じた。魏斯趙浣韓啓章が軍を率いて黄池を包囲したため、昜為の兵を楚に帰国させた。紀元前423年、簡王は昜為に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は宜陽を奪い、赤岸を包囲して、黄池の役に報復した。晋の魏斯・趙浣・韓啓章が軍を率いて赤岸を救援したので、楚軍は包囲を解いて撤退した。晋軍と長城で戦って楚軍は敗れ、多くの物資を遺棄して逃走した[1]紀元前413年、楚軍が晋を攻撃して上洛に達した[5]紀元前408年、簡王が死去し、子の声王が楚王に即位した[4]

脚注

  1. ^ a b 清華簡』「繋年」21章
  2. ^ 上海博物館蔵戦国楚竹書』「柬大王泊旱」
  3. ^ 史記』楚世家による。同書六国年表では、仲とする
  4. ^ a b 『史記』楚世家
  5. ^ 『古本竹書紀年』晋紀烈公3年
先代
恵王
前432年 - 前408年
次代
声王