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義渠は、岐山・梁山・涇水・漆水の北に居住していた<ref name="kyoudo">『[[史記]]』匈奴列伝</ref>とされる。また涇北に義渠の戎があった<ref>『[[後漢書]]』西羌伝</ref>とされる。
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[[紀元前444年]](厲共公33年)、秦が義渠を攻撃し、その王を捕らえた<ref name="shinhongi">『史記』秦本紀</ref>。

2021年3月29日 (月) 12:48時点における版

義渠
末 - 秦の昭襄王35年(紀元前272年
国姓 不明
爵位 不明
国都 不明
分封者 不明
始祖 不明
滅亡原因 により滅亡
史書の記載戦国策
墨子』節葬下
周朝諸侯国一覧
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義渠(ぎきょ)は、中国春秋戦国時代オルドス地方に存在した遊牧国家

義渠は、岐山・梁山・涇水・漆水の北に居住していた[1]とされる。また涇北に義渠の戎があった[2]とされる。

紀元前471年厲共公6年)、義渠が贈り物をたずさえてに来朝した[3]

紀元前444年(厲共公33年)、秦が義渠を攻撃し、その王を捕らえた[4]

紀元前430年躁公13年)、義渠が秦に侵攻し、渭水の南に達した[4]

紀元前331年恵文君7年)、義渠で内乱が発生し、秦の庶長操が出兵してこれを平定した[3]

紀元前327年(恵文君11年)、秦が義渠を県とした。義渠君は秦の臣となった[4]

後に義渠君はに朝事するようになった。魏の公孫衍(犀首)は「秦は中国に事のないときには貴国を思うまま焼き払い、中国に事があると重い贈り物をたずさえて平身低頭してきます」と義渠君に吹き込んだ。紀元前318年恵文王7年)、・魏・の5カ国連合軍が秦を攻撃すると、陳軫は義渠に賄賂を送って手なづけるよう秦の恵文王に勧めた。恵文王がその言に従って綾絹1000純と婦女100人を義渠君に贈った。義渠君は公孫衍の言っていたことはこのことだったかと思い、兵を出動させて秦の李帛(現在の甘粛省天水市の東)を攻めたが敗れた[5]函谷関の戦い)。

紀元前315年(恵文王10年)、秦が義渠を攻撃し、25城を奪った[4]

紀元前310年武王元年)、秦が義渠を攻撃した[4]

秦の昭襄王のとき、義渠戎王は秦の宣太后と乱倫してふたりの子をもうけた。宣太后は義渠戎王を甘泉に誘い出して殺害した。その後、秦軍が出動して義渠を攻め滅ぼした[1]。秦は義渠の故地に北地郡を置き[6]長城を築いて北方民族の侵入を阻んだ[1]

脚注

  1. ^ a b c 史記』匈奴列伝
  2. ^ 後漢書』西羌伝
  3. ^ a b 『史記』六国年表
  4. ^ a b c d e 『史記』秦本紀
  5. ^ 『史記』張儀列伝
  6. ^ 史記集解』秦本紀所引応劭および『史記正義』秦本紀所引『括地志