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義渠は、岐山・梁山・涇水・漆水の北に居住していた<ref name="kyoudo">『[[史記]]』匈奴列伝</ref>とされる。また涇北に義渠の戎があった<ref>『[[後漢書]]』西羌伝</ref>とされる。 |
義渠は、岐山・梁山・涇水・漆水の北に居住していた<ref name="kyoudo">『[[史記]]』匈奴列伝</ref>とされる。また涇北に義渠の戎があった<ref>『[[後漢書]]』西羌伝</ref>とされる。 |
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[[紀元前471年]]([[厲共公]]6年)、義渠が贈り物をたずさえて[[秦]]に来朝した<ref name="rikkoku">『史記』六国年表</ref>。 |
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[[紀元前444年]](厲共公33年)、秦が義渠を攻撃し、その王を捕らえた<ref name="shinhongi">『史記』秦本紀</ref>。 |
2021年3月29日 (月) 12:48時点における版
国姓 | 不明 |
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爵位 | 不明 |
国都 | 不明 |
分封者 | 不明 |
始祖 | 不明 |
滅亡原因 | 秦により滅亡 |
史書の記載 |
『戦国策』 『墨子』節葬下 |
周朝諸侯国一覧 |
義渠(ぎきょ)は、中国の春秋戦国時代にオルドス地方に存在した遊牧国家。
義渠は、岐山・梁山・涇水・漆水の北に居住していた[1]とされる。また涇北に義渠の戎があった[2]とされる。
紀元前471年(厲共公6年)、義渠が贈り物をたずさえて秦に来朝した[3]。
紀元前444年(厲共公33年)、秦が義渠を攻撃し、その王を捕らえた[4]。
紀元前430年(躁公13年)、義渠が秦に侵攻し、渭水の南に達した[4]。
紀元前331年(恵文君7年)、義渠で内乱が発生し、秦の庶長操が出兵してこれを平定した[3]。
紀元前327年(恵文君11年)、秦が義渠を県とした。義渠君は秦の臣となった[4]。
後に義渠君は魏に朝事するようになった。魏の公孫衍(犀首)は「秦は中国に事のないときには貴国を思うまま焼き払い、中国に事があると重い贈り物をたずさえて平身低頭してきます」と義渠君に吹き込んだ。紀元前318年(恵文王7年)、楚・魏・斉・韓・趙の5カ国連合軍が秦を攻撃すると、陳軫は義渠に賄賂を送って手なづけるよう秦の恵文王に勧めた。恵文王がその言に従って綾絹1000純と婦女100人を義渠君に贈った。義渠君は公孫衍の言っていたことはこのことだったかと思い、兵を出動させて秦の李帛(現在の甘粛省天水市の東)を攻めたが敗れた[5](函谷関の戦い)。
紀元前315年(恵文王10年)、秦が義渠を攻撃し、25城を奪った[4]。
秦の昭襄王のとき、義渠戎王は秦の宣太后と乱倫してふたりの子をもうけた。宣太后は義渠戎王を甘泉に誘い出して殺害した。その後、秦軍が出動して義渠を攻め滅ぼした[1]。秦は義渠の故地に北地郡を置き[6]、長城を築いて北方民族の侵入を阻んだ[1]。