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「アントニオ・ヴェッリオ」の版間の差分

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[[ナポリ王国]]の[[レッチェ]]で生まれた。自らの記述によれば、[[ヴェネツィア]]で学び、[[ナポリ]]やフランスの[[トゥールーズ]]で働いた後、1671年か1672年にイギリスに移ってきたとしている。イギリスで、壁画、天井画の画家として評価を高め、1676年頃か国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の注文で、[[ホワイトホール宮殿]]や、[[ウィンザー城]]の一部の建物に装飾画を描いた。
[[ナポリ王国]]の[[レッチェ]]で生まれた。自らの記述によれば、[[ヴェネツィア]]で学び、[[ナポリ]]やフランスの[[トゥールーズ]]で働いた後、1671年か1672年にイギリスに移ってきたとしている。イギリスで、壁画、天井画の画家として評価を高め、1676年頃か国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の注文で、[[ホワイトホール宮殿]]や、[[ウィンザー城]]の一部の建物に装飾画を描いた。


1684年にチャールズ2世によって、[[ジョン・ライリー]]の後任として[[主席宮廷画家 (イギリス)|主席宮廷画家]]に任じられた。1685年に王位を継いだ[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]はヴェッリオを重用せず、王室の庭師職で働かなければならなかった<ref>{{Internetquelle| url=http://www.hrp.org.uk/HamptonCourtPalace/AntonioVerrio| titel=Historic Royal Palaces: Antonio Verrio, Artist| zugriff=2014-01-06| offline=ja| archiv-url=https://web.archive.org/web/20140314041200/http://www.hrp.org.uk/HamptonCourtPalace/AntonioVerrio| archiv-datum=2014-03-14| archiv-bot=2018-08-26 05:11:24 InternetArchiveBot}}</ref>。1688年に[[名誉革命]]で[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]が国王になっても、用いられず、主席宮廷画家の職には[[ゴドフリー・ネラー]]が就任した。ヴェッリオは1890年から[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代デヴォンシャー公爵)|デヴォンシャー公爵]]の住宅[[チャッツワース・ハウス]]の装飾画を描いた。
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1694年から1697年の間は、[[ジョン・セシル (第5代エクセター伯爵)|エクセター伯爵]]のバーリー・ハウス(Burghley House)の装飾画を描き、1699年になって国王のために、ウィンザー城や[[ハンプトン・コート宮殿]]の仕事をした。1705年に眼病を患い引退した。
1694年から1697年の間は、[[ジョン・セシル (第5代エクセター伯爵)|エクセター伯爵]]のバーリー・ハウス(Burghley House)の装飾画を描き、1699年になって国王のために、ウィンザー城や[[ハンプトン・コート宮殿]]の仕事をした。1705年に眼病を患い引退した。

2021年4月15日 (木) 22:21時点における版

アントニオ・ヴェッリオ
Antonio Verrio
自画像
誕生日 1636年ごろ
出生地 ナポリ王国,レッチェ
死没年 1707年6月15日
死没地 イギリス,ロンドン
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アントニオ・ヴェッリオ(Antonio Verrio、1636年ごろ - 1707年6月15日)は17世紀にイタリアで生まれた画家で、イギリスで宮廷画家として働き、多くの建物の装飾壁画を描いた。

生涯

ナポリ王国レッチェで生まれた。自らの記述によれば、ヴェネツィアで学び、ナポリやフランスのトゥールーズで働いた後、1671年か1672年にイギリスに移ってきたとしている。イギリスで、壁画、天井画の画家として評価を高め、1676年頃か国王チャールズ2世の注文で、ホワイトホール宮殿や、ウィンザー城の一部の建物に装飾画を描いた。

1684年にチャールズ2世によって、ジョン・ライリーの後任として主席宮廷画家に任じられた。1685年に王位を継いだジェームズ2世はヴェッリオを重用せず、王室の庭師職で働かなければならなかった[1]。1688年に名誉革命ウィリアム3世が国王になっても、用いられず、主席宮廷画家の職にはゴドフリー・ネラーが就任した。ヴェッリオは1890年からデヴォンシャー公爵の住宅チャッツワース・ハウスの装飾画を描いた。

1694年から1697年の間は、エクセター伯爵のバーリー・ハウス(Burghley House)の装飾画を描き、1699年になって国王のために、ウィンザー城やハンプトン・コート宮殿の仕事をした。1705年に眼病を患い引退した。

作品

脚注

  1. ^ "Historic Royal Palaces: Antonio Verrio, Artist". 2014年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月6日閲覧 {{cite web}}: 引数|url-status=jaは不正です。 (説明)

参考文献

  • Ellis Kirkham Waterhouse: Painting in Britain, 1530 to 1790. Yale University press, New Haven 1994. ISBN 0-300-05832-2, S. 125–126
  • The Oxford Dictionary of Art and Artists. Oxford University Press, Oxford 2009. ISBN 978-0-19-953294-0, S. 656
  • Raffaele De Giorgi, "Couleur, couleur!". Antonio Verrio: un pittore in Europa tra Seicento e Settecento. Edifir, Firenze 2009, ISBN 978-88-7970-449-6