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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 前半生 ===
=== 前半生 ===
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その後、ナザレチャンは1924年から[[1927年]]6月9日まで[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国|ザカフカース連邦共和国]]{{仮リンク|ラブクリン|label= 労農監査|en|Rabkrin}}人民委員に、[[1928年]]1月10日まで党[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国|ザカフカース地方]]委第二書記に、1924年5月から1927年6月まで党ザカフカース地方統制委議長に就いた<ref name="know"/>。ザカフカース地方委第二書記としてナザレチャンは、第一書記[[マミヤ・オラヘラシュヴィリ]]とともに、早急な農業集団化に対して強硬に反対姿勢を取った<ref name="NK"/>。1924年5月31日からは{{仮リンク|ソビエト連邦共産党中央統制委員会|label= 党中央統制委|ru|Центральная контрольная комиссия КПСС}}メンバーとなり、6月2日から翌[[1925年]]12月18日まではその幹部会メンバー候補、[[1926年]]1月1日から[[1934年]]1月26日までは幹部会メンバーであった<ref name="know"/>。[[1928年]]1月から[[1930年]]5月までは再度ザカフカース地方統制委議長(18日まで)およびザカフカース連邦共和国労農監査人民委員に就き<ref name="know"/>、[[1929年]]から1930年までは人民委員会議副議長に就いた<ref name="VVR">{{lang|ru|{{книга|заглавие = Высылка вместо расстрела. Депортация интеллигенции в документах ВЧК - ГПУ. 1921-1923|место = {{М.}}|издательство = Русский путь|год = 2005|ответственный= сост. {{nobr|В. Г. Макаров}}, {{nobr|В. С. Христофоров}}|страницы = 470—471|страниц = 504|isbn = 5-85887-175-5|серия= |тираж= 3000|ref= }}}}</ref>。同年5月から翌[[1931年]]11月まで党{{仮リンク|ウラル州|ru|Уральская область (РСФСР)}}統制委議長、同月から1934年2月まで[[ソビエト連邦]]労農監査人民委員部参議会メンバー<ref name="know"/>、1931年から1934年まで労農監査中央統制委軽工業グループ長でもあった<ref name="VVR"/>。
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ナザレチャンはオルジョニキゼと[[セルゲイ・キーロフ]]の友人でもあった<ref name="NK"/>。また、スターリンの元側近{{仮リンク|ボリス・バジャーノフ|ru|Бажанов, Борис Георгиевич}}によれば、ナザレチャンは[[クリメント・ヴォロシーロフ]]、オルジョニキゼと並んで、スターリンを古い党名で「コバ」と呼ぶことができる3人のうちの一人であり、ナザレチャンが党統制委に送られたのは、スターリンが最早この呼び名を好ましく思わなくなったからであるという<ref name="NK"/>。

2021年4月15日 (木) 23:37時点における版

アマヤク・マルカロヴィチ・ナザレチャン
Амаяк Маркарович Назаретян
Հմայակ Մարգարի Նազարեթյան
1924年のナザレチャン
生年月日 (1889-11-29) 1889年11月29日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国チフリス県ロシア語版チフリス郡チフリス
没年月日 (1937-10-30) 1937年10月30日(47歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
出身校 サンクトペテルブルク大学法学部ロシア語版(中退)
所属政党 ボリシェヴィキ
配偶者 クラヴディヤ
子女 3男1女[1]

在任期間 1924年 - 1928年1月10日

在任期間 1929年 - 1930年

ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
労農監査人民委員
在任期間 1924年 - 1927年6月9日
1928年1月 - 1930年5月

テレク・ソビエト共和国
人民委員会議副議長・労働人民委員
在任期間 1918年6月 - 1919年2月

ロシア共産党(ボ)中央委員会
カフカース局責任書記
在任期間 1921年11月3日 - 1922年2月18日

その他の職歴
ロシア共産党(ボ)中央委員会
書記局
局長

(1922年3月 - 1923年12月)
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アマヤク・マルカロヴィチ・ナザレチャンロシア語: Амаяк Маркарович Назаретян1889年11月29日 - 1937年10月30日)、民族名ハマヤク・マルガリ・ナザレティアンアルメニア語: Հմայակ Մարգարի Նազարեթյան)は、アルメニア人のボリシェヴィキ。

生涯

前半生

1889年11月29日(ユリウス暦17日)[2]ロシア帝国チフリス県ロシア語版チフリスの商家に生まれたアルメニア人[3]1905年ボリシェヴィキに入党し[4]1909年からサンクトペテルブルク大学法学部ロシア語版で学んだが、1911年に逮捕され、故郷チフリスへの11年間の追放刑を受けた[5]。その後、チフリスの党組織の助けを借りて[5]ジュネーヴへ脱出し、現地の党組織で活動した[6]

1913年にロシアへ帰還し、1917年から翌1918年までは党チフリス委員会およびカフカース地方委員会のメンバーを務め、同年6月から翌1919年2月まではセルゴ・オルジョニキゼに引き立てられて[5]テレク・ソビエト共和国の労働人民委員および人民委員会議副議長に就いた[2]。1918年10月から北カフカース防衛会議テレク州動員委メンバー、1919年からは党カフカース地方委書記でもあった[2]。同年秋にはグルジア民主共和国でのボリシェヴィキ蜂起を指導したが[4]、翌1920年に逮捕され、グルジアからも追放された[5]。同年5月25日から翌1921年3月21日まではロシア共産党中央委カフカース局 (en)、1920年8月3日からはその幹部会に属し、1921年にはグルジア革命委法務労働書記、財務人民委員およびグルジア共産党英語版中央委書記でもあった[2]

『プラウダ』とザカフカースでの活動

同年8月22日からは再度カフカース局に属し、11月3日からはその責任書記を翌1922年2月18日まで務めた[2]。1921年7月にカフカース局で設けられたナゴルノ・カラバフ帰属決定交渉については、アルメニア人でありながらナゴルノ・カラバフのアルメニア社会主義ソビエト共和国への帰属に反対している[3]。3月から翌1923年12月までロシア共産党中央委書記局局長、同月から翌1924年までヨシフ・スターリンに推挙されて[3]プラウダ』編集局党部部長も務めた[2]。『プラウダ』においてナザレチャンは、スターリンの指示によって党議の投票結果をスターリン一派に有利な形に歪めて掲載していた[3]。これが発覚しスキャンダルとなった際、スターリンはナザレチャンの個人的犯行として事件を処理し、ナザレチャンを『プラウダ』編集局から除名した[3]

その後、ナザレチャンは1924年から1927年6月9日までザカフカース連邦共和国労農監査英語版人民委員に、1928年1月10日まで党ザカフカース地方委第二書記に、1924年5月から1927年6月まで党ザカフカース地方統制委議長に就いた[2]。ザカフカース地方委第二書記としてナザレチャンは、第一書記マミヤ・オラヘラシュヴィリとともに、早急な農業集団化に対して強硬に反対姿勢を取った[3]。1924年5月31日からは党中央統制委ロシア語版メンバーとなり、6月2日から翌1925年12月18日まではその幹部会メンバー候補、1926年1月1日から1934年1月26日までは幹部会メンバーであった[2]1928年1月から1930年5月までは再度ザカフカース地方統制委議長(18日まで)およびザカフカース連邦共和国労農監査人民委員に就き[2]1929年から1930年までは人民委員会議副議長に就いた[6]。同年5月から翌1931年11月まで党ウラル州ロシア語版統制委議長、同月から1934年2月までソビエト連邦労農監査人民委員部参議会メンバー[2]、1931年から1934年まで労農監査中央統制委軽工業グループ長でもあった[6]

ナザレチャンはオルジョニキゼとセルゲイ・キーロフの友人でもあった[3]。また、スターリンの元側近ボリス・バジャーノフロシア語版によれば、ナザレチャンはクリメント・ヴォロシーロフ、オルジョニキゼと並んで、スターリンを古い党名で「コバ」と呼ぶことができる3人のうちの一人であり、ナザレチャンが党統制委に送られたのは、スターリンが最早この呼び名を好ましく思わなくなったからであるという[3]

粛清

ナザレチャンは連邦党大会に第11回ロシア語版から第17回ロシア語版まで(第12回ロシア語版第16回ロシア語版を除く)に[3]、そしてコミンテルン第2回大会英語版に出席し[5]、1934年2月からは連邦人民委員会議附属ソビエト統制委 (ru) 行政グループ長および同委局員を務めていた[2]。だが、在職中の1937年6月27日に逮捕され[2]、10月29日に連邦最高裁軍事参議会ロシア語版によって反革命的テロ組織への参加を理由に死刑判決を下され、翌日銃殺された(ナザレチャンの尋問記録には、「この雌犬の息子が!」というラヴレンチー・ベリヤの書き込みがある)[3]。その後、ナザレチャンは新ドン墓地ロシア語版に葬られていたが、1956年2月に名誉回復ロシア語版がなされた[3]

党中央委書記局に勤務していた妻クラヴディヤも、生後5か月の息子とともに1937年7月27日に逮捕された[3]。クラヴディヤの逮捕について、親交のあったアンナ・レーデンス(ru, スターリンの義姉)らがスターリンに抗議し、クラヴディヤは8月1日に釈放されたが、12月7日に再逮捕された[3]。その後、母子はモルドヴィア自治共和国コミ自治共和国ウフタの収容所で17年を過ごした[3]

脚注

  1. ^ Назаретян А., Назаретян К. (2006年11月). “Клавдия Дмитриевна НАЗАРЕТЯН (1906-1987)”. Музей «Дом на Набережной». 2018年4月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Назаретян Амаяк Маркарович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月18日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n Мирзоян М., Мирзоян Г. (август 2017). "АРМЯНЕ ДОМА НА НАБЕРЕЖНОЙ" (газета) (8 (295)) (Ноев Ковчег ed.). М. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明); |year=|date=の日付が不正です。 (説明)
  4. ^ a b Залесский К. А. (2002). Империя Сталина: Биографический энциклопедический словарь. М.: Вече. ISBN 5-7838-0716-8
  5. ^ a b c d e Լ. Առաքեչյան (1982). "ՆԱՁԱՐԵԹՅԱՆ". Հայկական Սովետական Հանրագիտարանロシア語版. Vol. 8. Երևան: Հայ սովետական հանրագիտարան հրատարակչություն. Վիկտոր Համբարձումյան. pp. 141–142. {{cite book}}: |chapter-url=の38文字目にC1制御文字が入力されています。 (説明)
  6. ^ a b c Высылка вместо расстрела. Депортация интеллигенции в документах ВЧК - ГПУ. 1921-1923 (3000 экз ed.). М.: Русский путь. сост. В. Г. Макаров, В. С. Христофоров. 2005. pp. 470–471. ISBN 5-85887-175-5
党職
先代
ラヴレンチー・カルトヴェリシュヴィリ
ロシア共産党(ボ)ザカフカース地方委員会第二書記
1925年12月から全連邦共産党
1924年 - 1928年1月10日
次代
ルーベン・ルベノフ
先代
N・I・スミルノフ
ロシア共産党(ボ)中央委員会書記局局長
1922年3月 - 1923年12月
次代
レフ・メフリス
先代
なし
ロシア共産党(ボ)ザカフカース地方統制委員会議長
1925年12月から全連邦共産党
1924年5月 - 1927年6月
次代
セルゲイ・ルカシン
先代
セルゲイ・ルカシン
全連邦共産党(ボ)ザカフカース地方統制委員会議長
1928年1月 - 1930年5月18日
次代
アレクサンドル・ヤコヴレフ
先代
アレクサンドル・ヤコヴレフ
全連邦共産党(ボ)ウラル州統制委員会議長
1930年5月 - 1931年11月
次代
フリッツ・マルクス
公職
先代
?
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国労農監査人民委員
1924年 - 1927年6月9日
次代
セルゲイ・ルカシン
先代
セルゲイ・ルカシン
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国労農監査人民委員
1928年1月 - 1930年5月
次代
アレクサンドル・ヤコヴレフ