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「ロシア民主連邦共和国」の版間の差分

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== 経緯 ==
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憲法制定委員会は、アレクサンドル・ボゴレポフ ([[:ru:Боголепов, Александр Александрович|ru]])、{{仮リンク|マクシム・ヴィナヴェル|ru|Винавер, Максим Моисеевич}}、ウラジーミル・ゲッセン ([[:ru:Гессен, Владимир Матвеевич|ru]])、{{仮リンク|ウラジーミル・デリュジンスキー|ru|Дерюжинский, Владимир Фёдорович}}、セルゲイ・コトリャレフスキー ([[:ru:Котляревский, Сергей Андреевич|ru]])、[[ウラジーミル・ナボコフ (政治家)|ウラジーミル・ナボコフ]]、ボリス・ノリデ ([[:ru:Нольде, Борис Эммануилович|ru]]) など30人の[[カデット]]の法律家によって構成され、{{仮リンク|ニコライ・ラザレフスキー|ru|Лазаревский, Николай Иванович}}が委員長を務めた<ref name="UIU">{{lang|ru|{{статья |автор= {{nobr|Смыкалин А. С.}}|заглавие= Конституция Российской демократической Федеративной республики 1917 года|оригинал= |ссылка= http://chinovnik.uapa.ru/ru/issue/2002/02/08/|автор издания= |издание= Чиновникъ|тип= журнал|место= [[エカテリンブルク|Екатеринбург]]|издательство= {{仮リンク|ウラル経営研究所|label= УИУ РАНХиГС|ru|Уральский институт управления}}|год= 2002|номер= 2(18)|страницы= |issn= |doi= |ref= }}}}</ref>。制憲委員会は10月14日から開かれたが、直後に[[十月革命]]が発生したため中断を余儀なくされ、最終的に憲法が完成を見たのは[[1919年]]の[[パリ]]においてであった<ref name="UIU"/>。
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国家の形態については([[フィンランド]]を含めた)ロシア国家の単一性・不可分性が強調され、その枠内において[[連邦制]]に基づく法的・宗教的自治が保障されていた<ref name="UIU"/>。
国家の形態については([[フィンランド]]を含めた)ロシア国家の単一性・不可分性が強調され、その枠内において[[連邦制]]に基づく法的・宗教的自治が保障されていた<ref name="UIU"/>。

2021年4月15日 (木) 23:48時点における最新版

ロシア民主連邦共和国(ロシアみんしゅれんぽうきょうわこく、ロシア語: Российская Демократическая Федеративная Республика)とは、1917年十月革命前後にロシア臨時政府が制定し、翌1918年1月19日(ユリウス暦1月6日)に公布した、ロシア史最初の憲法における国家の形態である[1]

経緯[編集]

憲法制定委員会は、アレクサンドル・ボゴレポフ (ru)、マクシム・ヴィナヴェルロシア語版、ウラジーミル・ゲッセン (ru)、ウラジーミル・デリュジンスキーロシア語版、セルゲイ・コトリャレフスキー (ru)、ウラジーミル・ナボコフ、ボリス・ノリデ (ru) など30人のカデットの法律家によって構成され、ニコライ・ラザレフスキーロシア語版が委員長を務めた[2]。制憲委員会は10月14日から開かれたが、直後に十月革命が発生したため中断を余儀なくされ、最終的に憲法が完成を見たのは1919年パリにおいてであった[2]

制憲委員会で作成されたこの憲法は1918年1月6日の憲法制定議会英語版召集に合わせて公布されたが、憲法制定議会は翌7日にボリシェヴィキ全ロシア中央執行委員会ロシア語版によって解体された[1]

内容[編集]

国家元首たる大統領は、議会により選出され任期は1年間で、閣僚会議の監督と補佐を受けて行政権を行使するものとされていた[2](ただし、公式には1月6日までは臨時政府は君主制を廃止していない[1])。しかし同時に大統領には幅広い権能が与えられ、過去にロシア皇帝が手にしていたような軍事と外交に関する最高権力、閣僚の任免権も認められていた[2]。議会は帝政時代の国家評議会ドゥーマと同様の二院制とされた(しかし、制憲委員会においても二院制支持者が11人、一院制支持者が7人と、その見解は分かれていた)[2]

選挙権は満20歳以上の男女に与えられた[2]。この年齢制限は帝政時代よりも5年引き下げられたもので[2]、21歳や25歳を選挙人とする欧米諸国よりも低かった(臨時政府内のボリシェヴィキは18歳から選挙人とするよう提案していたが、これは退けられた)[1]。また、婦人参政権も欧米諸国に先立つものであった[1]。そして、世界で初めて軍人に対する議決権が認められた[1]政教分離世俗主義も宣言されていた[2]

国家の形態については(フィンランドを含めた)ロシア国家の単一性・不可分性が強調され、その枠内において連邦制に基づく法的・宗教的自治が保障されていた[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f Гаранжа А. П. (2005). "Всероссийское Учредительное собрание о государственном устройстве страны" (журнал) (14–15) (Казанский федералист ed.). Казань: Казанский центр федерализма и публичной политики. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  2. ^ a b c d e f g h i Смыкалин А. С. (2002). "Конституция Российской демократической Федеративной республики 1917 года" (журнал) (2(18)) (Чиновникъ ed.). Екатеринбург: УИУ РАНХиГСロシア語版. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)