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* [[太陽にほえろ!]] 第140話「故郷の父」(1975年、NTV・東宝) - 多田節子
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* [[俺たちの朝]](1976年 - 1977年、NTV・東宝) - 田口貴代
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* [[古谷一行の金田一耕助シリーズ#横溝正史シリーズI・II|横溝正史シリーズ]]「[[悪魔の手毬唄]]」(1977年、MBS) - 井筒屋の女将
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* [[土曜ワイド劇場]]([[テレビ朝日|ANB]])
* [[土曜ワイド劇場]]([[テレビ朝日|ANB]])
** 「人それを情死と呼ぶ」(1977年)
** 「人それを情死と呼ぶ」(1977年)

2021年4月18日 (日) 09:09時点における版

ひいろ ともえ
日色 ともゑ
本名 中園 ともゑ
生年月日 (1941-06-04) 1941年6月4日(83歳)
出生地 日本の旗 日本東京都
職業 女優声優
活動期間 1962年 -
配偶者 中園正樹
事務所 劇団民藝
主な作品
テレビドラマ
旅路
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日色 ともゑ(ひいろ ともえ、1941年6月4日 - )は劇団民藝所属の女優。本名は中園ともゑ。東京都出身。父親は東京新聞社社員で、将棋観戦記者・演芸評論家であった日色恵。1969年に結婚した夫は建築家の中園正樹(株式会社松田平田設計 代表取締役社長)。

略歴

人物

小学生の時に観た映画『原爆の子』(新藤兼人監督作)に心を打たれたことが役者を目指す原点となる。自身も戦争で祖母と叔父、叔母を亡くしており、近年も平和の尊さを訴える朗読劇に積極的に参加している。

大草原の小さな家』の吹き替えの依頼が来た当初は声優の経験がほとんど無かったことから自信が持てなかったので、1クール(22話分)だけのつもりで引き受けたという。しかし番組は好評で十年を越す長寿番組になり、共演した子役たちからは現在も「お母さん」と慕われ、交流が続いているという。

公演で新潟県を訪れた際とても好評だったことがきっかけで、近年は農業教室も開いており、自ら栽培し収穫した米は「ともゑ米」の銘柄にもなっている。

エピソード

  • 1968年(昭和43年)、同10月21日から31日まで開催された「第1回アジア・アフリカ映画祭」に出席のため、旧ソビエト連邦ウズベク共和国(現・ウズベキスタン)の首都タシケントを訪れている。
  • 父親が将棋の観戦記者だったこともあり、幼少の頃から父親に付いて対局場などに出入りする機会が多く、大内延介米長邦雄といった同世代の棋士とは、彼らの修業時代から数えて五十年来の付き合いという。米長がかつて、『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した際も、日色からの紹介であった。
  • 6枚落ちのハンデをもらった対局で大山康晴に勝利した。
  • 60歳で終活を始めており、現在も進めている。数年前から自分が眠るためのを用意している。
  • 『大草原の小さな家』でカレン・グラッスルの吹き替えを担当することになったきっかけは監督に「カレン・グラッスルと顎の骨格が似ているので声も似ているだろう」と判断されたことである。
  • カレン・グラッスルがカントリーマアムのCMに出演した際当初は別の役者が吹き替えを担当していたが、当時の不二家の社長夫人が「日色ともゑの声でないと違和感がある」と社員に伝えたことがきっかけで、急遽CMでも日色が吹き替えを担当することになった。当時日色は劇団での地方巡業中だったため、大阪までスタッフが赴き収録した。

出演

映画

テレビドラマ

テレビアニメ

OVA

吹き替え

バラエティ

その他

著書

  • 宇野重吉一座・最後の旅日記(小学館文庫)

外部リンク