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[[キリスト教]]世界では、[[審判の日]]に復活するためには、神に向かって体が上昇していけるよう東向きに埋葬されている必要があると考えられている<ref>{{Cite book|title=The conversion of Britain : religion, politics and society in Britain c.600-800|url=https://www.worldcat.org/oclc/70129207|publisher=Pearson/Longman|date=2006|location=Harlow, England|isbn=0-582-77292-3|oclc=70129207|last=Yorke, Barbara, 1951-|year=|pages=215}}</ref><ref>{{Cite book|title=From Hogarth to Rowlandson : medicine in art in eighteenth-century Britain|url=https://www.worldcat.org/oclc/36635034|location=Liverpool|isbn=978-0-85323-630-6|oclc=36635034|last=Haslam, Fiona.|date=|year=1996|publisher=Liverpool University Press|pages=280}}</ref><ref>''"''From Hogarth to Rowlandson : medicine in art in eighteenth-century Britain"内の内容は[[トマス・ローランドソン]]の"The Resurrection or an Internal View of the Museum in W-D M-LL street on the last day"(2009年4月26日の[[ウェイバックマシン]]の[https://web.archive.org/web/20090426070953/http://www.huntsearch.gla.ac.uk/cgi-bin/foxweb/huntsearch/LargeImage.fwx?collection=hunter&catno=40609&mdaCode=GLAHA&filename=40609.jpg&browseMode=on アーカイブ]参照)から</ref>。したがって、損傷のない遺体を切断し、復活の可能性を奪う剖棺斬屍は刑罰として有効な方法の一つであったと言える<ref>{{Cite web|title=Resurrection of the Body|url=https://web.archive.org/web/20081023202216/http://www.catholic.com/library/Resurrection_of_the_Body.asp|website=web.archive.org|date=2008-10-23|accessdate=2020-10-23}}</ref><ref>{{Cite book|title=Life cycles in England, 1560-1720 : cradle to grave|url=https://www.worldcat.org/oclc/32969742|publisher=Routledge|date=1996|location=London|isbn=0-415-10842-X|oclc=32969742|last=Abbott, Mary, 1942-|year=|pages=33}}</ref>。 |
[[キリスト教]]世界では、[[審判の日]]に復活するためには、神に向かって体が上昇していけるよう東向きに埋葬されている必要があると考えられている<ref>{{Cite book|title=The conversion of Britain : religion, politics and society in Britain c.600-800|url=https://www.worldcat.org/oclc/70129207|publisher=Pearson/Longman|date=2006|location=Harlow, England|isbn=0-582-77292-3|oclc=70129207|last=Yorke, Barbara, 1951-|year=|pages=215}}</ref><ref>{{Cite book|title=From Hogarth to Rowlandson : medicine in art in eighteenth-century Britain|url=https://www.worldcat.org/oclc/36635034|location=Liverpool|isbn=978-0-85323-630-6|oclc=36635034|last=Haslam, Fiona.|date=|year=1996|publisher=Liverpool University Press|pages=280}}</ref><ref>''"''From Hogarth to Rowlandson : medicine in art in eighteenth-century Britain"内の内容は[[トマス・ローランドソン]]の"The Resurrection or an Internal View of the Museum in W-D M-LL street on the last day"(2009年4月26日の[[ウェイバックマシン]]の[https://web.archive.org/web/20090426070953/http://www.huntsearch.gla.ac.uk/cgi-bin/foxweb/huntsearch/LargeImage.fwx?collection=hunter&catno=40609&mdaCode=GLAHA&filename=40609.jpg&browseMode=on アーカイブ]参照)から</ref>。したがって、損傷のない遺体を切断し、復活の可能性を奪う剖棺斬屍は刑罰として有効な方法の一つであったと言える<ref>{{Cite web|title=Resurrection of the Body|url=https://web.archive.org/web/20081023202216/http://www.catholic.com/library/Resurrection_of_the_Body.asp|website=web.archive.org|date=2008-10-23|accessdate=2020-10-23}}</ref><ref>{{Cite book|title=Life cycles in England, 1560-1720 : cradle to grave|url=https://www.worldcat.org/oclc/32969742|publisher=Routledge|date=1996|location=London|isbn=0-415-10842-X|oclc=32969742|last=Abbott, Mary, 1942-|year=|pages=33}}</ref>。 |
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* ローマ教皇[[フォルモスス (ローマ教皇)|フォルモスス]]の遺体は死後に[[ステファヌス6世 (ローマ教皇)|ステファヌス6世]]によって掘り起こされ、897年に[[死体裁判]]にかけられた。有罪判決ののちに遺体は指を3本切断され、[[テヴェレ川]]に投げ込まれた。 |
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* イングランド王[[ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルド1世]]は1040年に死亡したのち、腹違いの兄弟である[[ハーデクヌーズ]]に墓から掘り起こされ、沼に投げ込まれた<ref>『[[アングロサクソン年代記]]』より</ref>。 |
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* 中世イングランドの[[シモン・ド・モンフォール|シモン=ド=モンフォール]]は1265年に[[イーヴシャムの戦い]]で戦死したが、その遺体は[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]によって[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]に処された<ref>{{Cite web|title=Hanging, Drawing and Quartering: the Anatomy of an Execution|url=https://web.archive.org/web/20110712230617/http://www.hughdespenser.com/everydaylife/hanging_drawing_quartering.html|website=web.archive.org|date=2011-07-12|accessdate=2020-10-23}}</ref>。 |
* 中世イングランドの[[シモン・ド・モンフォール|シモン=ド=モンフォール]]は1265年に[[イーヴシャムの戦い]]で戦死したが、その遺体は[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]によって[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]に処された<ref>{{Cite web|title=Hanging, Drawing and Quartering: the Anatomy of an Execution|url=https://web.archive.org/web/20110712230617/http://www.hughdespenser.com/everydaylife/hanging_drawing_quartering.html|website=web.archive.org|date=2011-07-12|accessdate=2020-10-23}}</ref>。 |
2021年4月30日 (金) 21:58時点における版
剖棺斬屍(ぼうかんざんし、英語: Posthumous execution、朝鮮語: 부관참시)は刑罰の一種として既に死んだ人間の罪を問い、墓を暴いて屍を斬り刻むというものである[1]。時に刑罰を超えた私的な復讐感情によって行われ、またある視点からは尊ばれている人物についても、後に剖棺斬屍される場合もある。
世界各地の執行例
ヨーロッパ・ユーラシア
キリスト教世界では、審判の日に復活するためには、神に向かって体が上昇していけるよう東向きに埋葬されている必要があると考えられている[2][3][4]。したがって、損傷のない遺体を切断し、復活の可能性を奪う剖棺斬屍は刑罰として有効な方法の一つであったと言える[5][6]。
- ローマ教皇フォルモススの遺体は死後にステファヌス6世によって掘り起こされ、897年に死体裁判にかけられた。有罪判決ののちに遺体は指を3本切断され、テヴェレ川に投げ込まれた。
- イングランド王ハロルド1世は1040年に死亡したのち、腹違いの兄弟であるハーデクヌーズに墓から掘り起こされ、沼に投げ込まれた[7]。
- 中世イングランドのシモン=ド=モンフォールは1265年にイーヴシャムの戦いで戦死したが、その遺体はヘンリー3世によって首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された[8]。
- イングランドの神学者ジョン・ウィクリフは死後45年たってから異端の罪で墓を暴かれ、火刑に処されて遺体が川に投じられた。
- ワラキア公ヴラド・ツェペシュは戦死したのちにオスマン帝国軍によって斬首された。
- イングランドで宗教改革を行ったマルチン・ブツァーはメアリー1世の命令で墓を暴かれ、ケンブリッジのマーケット・スクエアで火刑に処された。
- ガウリー伯ジョン・ルースベンと弟のアレキサンダー・ルースベンはガウリー陰謀事件の失敗によって絞首刑及び四つ裂きの刑に処されたが[9]、その首はエディンバラで串刺しにされ、また手足はパースの各所に晒された[10]。
- ピューリタン革命後、24人のレジサイド(イングランド王チャールズ1世の処刑に関わったもの)たちはチャールズ2世による王政復古の前に死亡していたが、議会は免責・大赦法の例外であり大逆罪にあたるとして、主要なレジサイドだった裁判長ジョン・ブラッドショー、護国卿オリバー・クロムウェル、ヘンリー・アイアトン、トマス・プライドの4人に剖棺斬屍の刑を言い渡した[11]。遺体は掘り起こされ、過度に腐敗していたトマス・プライドを除く3人の遺体はタイバーンの刑場に吊るされて、のちに斬首された。体は近くの穴に捨てられたが、斬り落とされた首は最終的にウェストミンスター宮殿の端に晒された。結局クロムウェルの首(英語版)が埋葬されたのは1960年のことであった。
- イギリスの海賊エドワード・ティーチ(黒髭)はイギリス海軍第一大尉ロバート・メイナードの手下に殺され、検死ののちに斬り取られた首をバージニアへと戻るメイナードの船のマストに括り付けられた。メイナードがハンプトンに移るにあたって、ティーチの首はハンプトン川の河口に他の海賊の見せしめのために晒された[12]。
- アメリカ独立戦争時の軍人で医者のジョセフ・ウォーレンはバンカーヒルの戦いで戦死したのち、服を引きちぎられ、見分けがつかなくなるまで銃剣で突き刺されたのちに浅い溝にねじ込まれた。数日後、イギリスの大尉ジェームズ・ドリューはウォーレンの遺体を掘り起こした。その際、目撃者の証言によれば、遺体は踏みにじられ、殴打され、斬首されるなどといった辱めを受けたという[13][14]。
- 帝政ロシアの聖職者グリゴリー・ラスプーチンの遺体は1917年に暴徒によって掘り起こされ、ガソリンで焼却された。
- ロシアの軍人ラーヴル・コルニーロフの遺体は1918年にボルシェビキの暴徒によって掘り起こされて、殴打され、踏みにじられた後に焼却された。
- プロイセン王国の軍人ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの遺体は1945年に彼のマウソレウムに乱入したソビエト軍によって掘り起こされ、伝えられるところによれば、彼の頭蓋骨でフットボールが行われたという。1989年に冒涜された遺体は司祭によってポーランド南西部の教会のカタコンベに埋葬された[15]。
アジア
朝鮮
- 朝鮮にも李氏朝鮮の頃から剖棺斬屍の文化がある。これは死者の名誉を重要視する儒教文化の影響と考えられ、死刑の次に重い刑罰と考えられている[1][16]。実際北朝鮮においては軍需工場で発覚した問題を発生当時の責任者だった故人を剖棺斬屍に処すことで解決しており[17]、また2020年に韓国の金元雄光復会会長が親日派の改葬(破墓)論を唱えたこともある種の剖棺斬屍であると見る向きもある[18][19]。
- 2019年6月6日の顕忠日に、国立大田顕忠院の将軍墓域にて、民族問題研究所、平和在郷軍人会など親与党系団体のメンバー数十人が行った。
中国
一般的に中国では死後に罪が明らかになったとしても、捜査されないことになっていた。そのことが『水滸伝』や『東周列国志』では「已死勿論」と表されている[20][21]。しかし、反逆のような重大な罪であり、かつ罪人が発覚時に死亡している場合は当局は法律に従って遺体に拷問刑を課すことができた。また死刑囚が処刑前に死亡した場合も、罪の重さに応じて剖棺斬屍を課すか否かを決定することができた。
明代の1588年(万暦16年)になると剖棺斬屍は主に父母及び祖父母を殺した者(尊属殺)にのみ適用されるようになる。清代にはそれに従った上で、適用範囲を明確に強盗や山賊に広げていった。しかし剖棺斬屍は1905年の刑法改革で廃止された。
- 『史記』巻6「秦始皇本紀」によれば、秦の始皇帝の弟成蟜は反乱(成蟜の乱)に失敗して屯留で死亡したが、死後その遺体は辱められたという[22]。
- 『遼史』列伝第四十「姦臣上」によれば、登場する3人(耶律乙辛、張孝傑、蕭十三)は生前の罪によって、死後遺体を辱められた[23]。
- 『明史』によれば、明の宦官魏忠賢は自殺した後に遺体を磔にされ、首を晒された[24]。
- 清代には文字の獄の期間に剖棺斬屍が多く行われた。『清史稿』本紀九によると雍正帝の頃には思想家の呂留良が長男の呂葆中、弟子の嚴鴻逵とともに剖棺斬屍に処された[25]。
日本
日本でも江戸時代には、重大犯罪を犯して死亡した者は、罪状の吟味が終わるまで死体を桶に入れて塩漬けにして仮埋葬を行った。吟味が終わり刑が確定すると、死体を掘り起こして刑を実行した。具体例としては大塩平八郎の乱の首謀者19名のうち、18名が刑の確定前に死亡し、刑の確定後に塩漬け死体を飛田刑場で磔に処している。
ラテンアメリカ
- ハイチのデュヴァリエ独裁政権への軍事クーデターに際して、1986年に暴徒によって既に故人となっていたフランソワ・デュヴァリエの墓が暴かれたが遺体を見つけることはできなかった。そのために政権を支えた将軍グラシア・ジャックの遺体が代わりに掘り起こされ、道路に投げ捨てられて、蹂躙された[28]。
脚注
- ^ a b 小川隆章 (2020-02-15). “H・ハメル『朝鮮幽囚記』に見られる朝鮮社会の4つの特徴” (日本語). 環太平洋大学研究紀要 (環太平洋大学) 15. ISSN 1882-479X.
- ^ Yorke, Barbara, 1951- (2006). The conversion of Britain : religion, politics and society in Britain c.600-800. Harlow, England: Pearson/Longman. pp. 215. ISBN 0-582-77292-3. OCLC 70129207
- ^ Haslam, Fiona. (1996). From Hogarth to Rowlandson : medicine in art in eighteenth-century Britain. Liverpool: Liverpool University Press. pp. 280. ISBN 978-0-85323-630-6. OCLC 36635034
- ^ "From Hogarth to Rowlandson : medicine in art in eighteenth-century Britain"内の内容はトマス・ローランドソンの"The Resurrection or an Internal View of the Museum in W-D M-LL street on the last day"(2009年4月26日のウェイバックマシンのアーカイブ参照)から
- ^ “Resurrection of the Body”. web.archive.org (2008年10月23日). 2020年10月23日閲覧。
- ^ Abbott, Mary, 1942- (1996). Life cycles in England, 1560-1720 : cradle to grave. London: Routledge. pp. 33. ISBN 0-415-10842-X. OCLC 32969742
- ^ 『アングロサクソン年代記』より
- ^ “Hanging, Drawing and Quartering: the Anatomy of an Execution”. web.archive.org (2011年7月12日). 2020年10月23日閲覧。
- ^ Henderson, Thomas Finlayson (1897).『英国人名事典』における「Ruthven, John」の項目
- ^ Juhala, Amy L. (2004).『オックスフォード英国人名事典』における「Ruthven, John, third earl of Gowrie (1577/8–1600)」の項目
- ^ “House of Commons Journal Volume 8: 15 May 1660 | British History Online”. www.british-history.ac.uk. 2020年10月23日閲覧。
- ^ Lee, Robert E. (Robert Earl), 1906-1997. ([1974]). Blackbeard the pirate : a reappraisal of his life and times. Winston-Salem, N.C.: J.F. Blair. ISBN 0-910244-77-4. OCLC 1210705
- ^ “Founders Online: To John Adams from Benjamin Hichborn, 25 November 1775” (英語). founders.archives.gov. 2020年10月23日閲覧。
- ^ Tourtellot, Arthur Bernon. ([2000, ©1959]). Lexington and Concord : the beginning of the War of the American Revolution. New York: W.W. Norton. ISBN 0-393-32056-1. OCLC 45157933
- ^ “Krobielowice, Detale mauzoleum - Dolny.Śląsk.org.pl”. web.archive.org (2012年2月5日). 2020年10月23日閲覧。
- ^ 崔鍾庫 (1997-12-26). “報告1 韓国における儒教と法”. 北大法学論集 48 (4): 912-913.
- ^ “「亡くなった人」に罪をなすりつけ再び銃殺、北の独特な人命尊重”. ライブドアニュース. 2020年10月23日閲覧。
- ^ “光復会長「親日派破墓」主張に…李洛淵氏「同意」・金富謙氏「時期尚早」”. 中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします. 2020年10月23日閲覧。
- ^ “韓国の「破墓法」が新たな反日カードに?李氏朝鮮時代に先祖返り”. ライブドアニュース. 2020年10月23日閲覧。
- ^ 『水滸伝』第二十六回:「姦夫淫婦雖該重罪,已死勿論」
- ^ 『東周列国志』第十九回:「祭足已死勿論」
- ^ 『史記』秦始皇本紀
- ^ 『遼史』列伝第四十
- ^ 『明史』卷三百五「(天啟七年)十一月,遂安置忠賢於鳳陽,尋命逮治。忠賢行至阜城,聞之,與李朝欽偕縊死。詔磔其屍。懸首河間。」
- ^ 『清史稿』本紀九「乙丑,治呂留良罪,與呂葆中、嚴鴻逵俱戮屍」
- ^ Becker, Jasper. (2008). City of heavenly tranquility : Beijing in the history of China. Oxford: Oxford University Press. pp. 77-79. ISBN 978-0-19-530997-3. OCLC 191758450
- ^ “China's Reluctant Emperor (Published 2011)” (英語). The New York Times. (2011年9月7日). ISSN 0362-4331 2020年10月23日閲覧。
- ^ Brooke, James; Times, Special To the New York (1986年2月9日). “HAITIANS TAKE OUT 28 YEARS OF ANGER ON CRYPT (Published 1986)” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331 2020年10月23日閲覧。