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「オーストリアの歴史」の版間の差分

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オストマルク東方辺境伯家が衰退すると、[[976年]]、[[バンベルク]]を支配した[[バーベンベルク家]]([[フランス]]の[[ロベール家]]の支流)の[[リウトポルト]]が、オストマルク東方辺境伯を改めてオーストリア辺境伯となった。996年、神聖ローマ皇帝[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]の文書で、「オスタルリキ(Ostarrîchi)」という表現が用いられている。これが「エスターライヒ(Österreich)」という語につながったと考えられる。バーベンベルク家のもとで、辺境伯領の版図は[[ライタ川]]付近まで伸張したが、領内にはバイエルン司教などの所領が広がっており、伯による一元的な支配を打ちたてることは難しかった。
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ローマ教皇と[[ザーリアー朝]]の皇帝による[[叙任権闘争]]は、オーストリア辺境伯領にも影響を与えた。「[[カノッサの屈辱]]」など教皇と皇帝の対立が顕在化してくるなかで、辺境伯[[レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト2世]]は、1078年に教皇を支持する姿勢をとった。そのため、皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]はオーストリア支配をボヘミアの[[ヴラチスラフ2世]]に認め、ボヘミアと武力衝突が起こった。しかし、結局バーベンベルク家はほぼ版図を維持し、次代の[[レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト3世]]は皇帝[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]と姻戚関係を結び、家門の権威を高めることに成功した。一方でカトリック教会との結びつきも強め、[[ハイリゲンクロイツ (ニーダーエスターライヒ州)|ハイリゲンクロイツ]]に修道院を設けた。
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=== オーストリア公国とオーストリア大公国 ===
=== オーストリア公国とオーストリア大公国 ===

2021年5月19日 (水) 21:20時点における版

オーストリアの歴史
オーストリアの国章
この記事はシリーズの一部です。
先史時代から中世前半
ハルシュタット文化
属州ノリクム
マルコマンニ
サモ王国
カランタニア公国
オーストリア辺境伯領
バーベンベルク家ザルツブルク大司教領ケルンテン公国シュタイアーマルク公国
小特許状
ハプスブルク時代
ハプスブルク家
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ハプスブルク君主国
オーストリア帝国
ドイツ連邦
オーストリア=ハンガリー帝国
第一次世界大戦
サラエヴォ事件
第一次世界大戦
両大戦間期
オーストリア革命
ドイツ・オーストリア共和国
第一共和国
オーストロファシズム
アンシュルス
第二次世界大戦
ナチズム期
第二次世界大戦
戦後
連合軍軍政期
オーストリア共和国
関連項目
ドイツの歴史
リヒテンシュタインの歴史
ハンガリーの歴史

オーストリア ポータル

オーストリアの歴史(オーストリアのれきし)について詳述する。政治文化・人物誌などを含んだ総合的な年表を付記する。

歴史

オストマルク東方辺境伯領

799年カロリング朝フランク王国カール大帝が、オーストリアの前身であるオストマルク東方辺境伯の爵位を、自らの臣下であるヴィルヘルム家に与えたことから始まり、領土範囲は現在のオーバーエスターライヒ州ニーダーエスターライヒ州あたりである(de)。828年に東方からスラヴ族が侵入してきたので、オストマルク東方辺境伯領はフランク王国によって東方からの異民族の侵入を防ぐために特別区として指定された。907年に、ハンガリー大公のアールパード家アールパードが率いるマジャル人がオーストリアに侵入した。マジャル人に撃破されたオストマルク東方辺境伯家はフランス王国に援軍を要請して、スイスでようやくアールパード率いるマジャル人は大破され撤退した。

オーストリアの地形。

オーストリア辺境伯領

オストマルク東方辺境伯家が衰退すると、976年バンベルクを支配したバーベンベルク家フランスロベール家の支流)のリウトポルトが、オストマルク東方辺境伯を改めてオーストリア辺境伯となった。996年、神聖ローマ皇帝オットー3世の文書で、「オスタルリキ(Ostarrîchi)」という表現が用いられている。これが「エスターライヒ(Österreich)」という語につながったと考えられる。バーベンベルク家のもとで、辺境伯領の版図はライタ川付近まで伸張したが、領内にはバイエルン司教などの所領が広がっており、伯による一元的な支配を打ちたてることは難しかった。

ローマ教皇とザーリアー朝の皇帝による叙任権闘争は、オーストリア辺境伯領にも影響を与えた。「カノッサの屈辱」など教皇と皇帝の対立が顕在化してくるなかで、辺境伯レオポルト2世は、1078年に教皇を支持する姿勢をとった。そのため、皇帝ハインリヒ4世はオーストリア支配をボヘミアのヴラチスラフ2世に認め、ボヘミアと武力衝突が起こった。しかし、結局バーベンベルク家はほぼ版図を維持し、次代のレオポルト3世は皇帝ハインリヒ5世と姻戚関係を結び、家門の権威を高めることに成功した。一方でカトリック教会との結びつきも強め、ハイリゲンクロイツに修道院を設けた。

オーストリア公国とオーストリア大公国

東フランク王国では、ハインリヒ5世の死によってザーリアー朝が断絶し、かわってコンラート3世ホーエンシュタウフェン朝を創始した。コンラート3世は、対立していたヴェルフ家ハインリヒ傲岸公からバイエルンを奪い、これを自分の異父弟に当たる辺境伯レオポルト4世に与えた。しかし、その後シュタウフェン家がヴェルフ家と関係改善をはかったことから、皇帝はヴェルフ家にバイエルン支配を認めることになった。こうして、この地域をめぐりオーストリア辺境伯とヴェルフ家の対立が生じることになった。

1156年、レーゲンスブルクの議会で「Privilegium Minus」と称される調停案がまとめられた。これにより、レオポルト4世の兄で辺境伯ハインリヒ2世はバイエルンを放棄するが、一方でオーストリア(エスタライヒ)を大公領として、公位継承や裁判権などに対する諸特権が認められることになった。次代のレオポルト5世レオポルト6世オーストリア公国の発展に努め、統治下のウィーンなどが発展していった。

1249年にバーベンベルク家が断絶するとオーストリアはドイツ諸侯の争奪の場となったが、マルヒフェルトの戦いボヘミアオタカル2世に勝利したハプスブルク家ルドルフ1世が領有し、以後ハプスブルク家の支配が続く。ハプスブルク家が本拠にしてからのウィーンは政治、経済、学芸の中心として繁栄していくことになる。ルドルフ4世1359年に「オーストリア大公」を称して以降は、オーストリア大公国となった。

ハプスブルク家と神聖ローマ帝国

詳細は神聖ローマ帝国を参照

カール5世の肖像。ティツィアーノ

1438年以降、神聖ローマ皇帝はオーストリア大公・ハプスブルク家が世襲するようになり、15世紀にはマクシミリアン1世は結婚政策でブルゴーニュフランドルスペインにも家領を持つようになる。

マクシミリアンの孫のカールはスペイン王カルロス1世となり、フランスフランソワ1世と熾烈な皇帝位争いをへて神聖ローマ皇帝カール5世となった。スペインは大航海時代の成果として新大陸に植民地を有しており、ハプスブルク家は「太陽の沈まない帝国」となった。

しかし、ドイツではマルティン・ルター宗教改革がはじまり、神聖ローマ帝国は動揺した。弟のフェルディナントモハーチの戦いで敗死したラヨシュ2世からハンガリー・ボヘミア王の位を継承し、ハンガリーボヘミアもハプスブルク家の支配下におかれた。これによってハプスブルク帝国は多民族化が進むと同時に第一次ウィーン包囲以来オスマン帝国と勢力圏が接するようになった。1556年カール5世が退位すると、息子のフェリペ2世がスペイン王位を継承し、フェルディナントがオーストリアと皇帝位を継承した。フェルディナント1世は1555年アウクスブルクの和議で兄皇帝に代わりプロテスタントに一定の譲歩を示す形で和解したが、以後の皇帝たちはカトリック重視の政策をとりプロテスタント諸侯との対立を強めた。

カトリック強硬派のフェルディナント2世が即位すると1618年プラハ窓外投擲事件が起き、三十年戦争が始まった。フェルディナント2世は神聖ローマ帝国を「カトリック帝国」にすべく戦争を推し進めるが、それにプロテスタント諸侯が反発し、さらにデンマークスウェーデンが介入した。さらにハプスブルク家の強大化を怖れたフランスもカトリック国にもかかわらず介入した。1648年ヴェストファーレン条約では信仰の自由と諸侯の自由が認められ、事実上神聖ローマ帝国の実態は失われ、ハプスブルク家によるドイツ統一は不可能となった。

以降、ハプスブルク家はオーストリアとボヘミア、ハンガリーなどの「家領」の支配を強化し絶対君主制の基礎を固めて行った。1683年にはオスマン帝国による第二次ウィーン包囲に遭うが守り抜き、攻勢に転じ、1699年カルロヴィッツ条約を結んだ。その結果、ハンガリー全域とクロアチアを獲得した。スペイン継承戦争ではブルボン家の王位継承を認めたが、南ネーデルラントミラノ公国ナポリ王国を獲得した。

この頃に即位したカール6世には男子がいなかったため、家領不可分と長子相続を条件に定めた国事勅書をだし、娘のマリア・テレジアを後継者とした。しかし、マリア・テレジアが即位すると、諸侯は異議を唱え、プロイセン王国フリードリヒ大王シレジアに侵攻した。1740年にはオーストリア継承戦争が起こり、その結果、マリア・テレジアの継承は承認されたがシレジアは回復できなかった。

マリア・テレジアは皇女マリア・アントニアをフランス王太子(後のルイ16世)と婚約させ、200年来の敵対関係を終結させ(外交革命)、対プロイセン包囲網を結成した。1756年からの七年戦争ではロシア帝国とともにプロイセンを窮地に追い込むものの、最終的な勝利には至らずシレジアの回復にも失敗した。その後、ポーランド分割に参加した。晩年のマリア・テレジアは息子のヨーゼフ2世と共同統治を行い、彼女が没するとヨーゼフ2世が親政を開始した。

ヨーゼフ2世は啓蒙主義の影響を受けて、農奴制廃止などの近代化政策をとったが、広範な支持を得られず、失意のなかで没した。1789年フランス革命が勃発するとピルニッツ宣言をプロイセン王とともに出し、ルイ16世が処刑されると革命に介入する。さらに第一次対仏大同盟にも参加した事でフランス革命戦争へと巻込まれていった。フランスでナポレオン・ボナパルトが皇帝に即位するとアウステルリッツの戦いを戦い。その後バイエルンの離反、ライン同盟の結成などドイツ諸侯が帝国議会から脱退したため、フランツ2世1806年に神聖ローマ皇帝を退位、オーストリア皇帝フランツ1世と称した。

オーストリア帝国 とオーストリア・ハンガリー帝国

詳細はオーストリア帝国オーストリア・ハンガリー帝国を参照

ウィーン会議

メッテルニヒ

オーストリア帝国が成立したのちの1809年クレメンス・フォン・メッテルニヒ(肖像)が外相に就任した。オーストリアは皇女マリー・ルイーズをナポレオン1世にと政略結婚させるなど、現実的政策を進める。ナポレオンが1812年のロシア遠征に失敗し、ライプツィヒの戦いで敗北しエルバ島に流されると、メッテルニヒは1814年ウィーン会議を開き、ナポレオン戦争後の新秩序構築を主導した。会議では各国の利害が入り乱れ紛糾し、さらにはナポレオンの復活でワーテルローの戦いが勃発するなど混乱したが、主催者のメッテルニヒは、フランス外相タレーランの唱える正統主義を基調にフランス革命以前の体制に戻す「復古体制」を「新秩序」にすることで取りまとめた。結局、神聖ローマ帝国の復活はできずドイツ連邦が成立するにとどまったが、オーストリアは、南ネーデルラントをオランダ王国に譲る代わりにヴェネツィアを含む北イタリアとチロルダルマチアを獲得した。さらに「ウィーン体制」維持のために神聖同盟に参加した。

しかし、ドイツではドイツ統一運動が始まり、スペインではラテンアメリカの独立が進み、1820年にはリエゴ革命1830年にはフランスで7月革命がおきるなど「ウィーン体制」は早くも動揺をはじめた。また1834年にはドイツ関税同盟プロイセン王国の主導で結成され、オーストリアの影響力は低下し始める。

1848年にフランスで2月革命が勃発すると、ウィーンブダペストミラノなど帝国各地で暴動が発生し、メッテルニヒは英国に亡命。「ウィーン体制」は崩壊した。この年にはフランクフルトドイツ国民議会が開かれ、小ドイツ主義ドイツ統一の基調となる。一方でフランツ・ヨーゼフ1世が新皇帝に即位し欽定憲法を発布し、各地の革命運動を鎮圧し、大ドイツ主義を標榜する。

その後は、1859年イタリア統一戦争に敗北し、さらにドイツ統一などをめぐりプロイセンとオーストリアは対立し、1866年普墺戦争でオーストリアが敗北した結果、プロイセン主導でオーストリアを排除した「小ドイツ主義によるドイツ統一」が促進されることになり、オーストリアは孤立することになるのである。

オーストリア・ハンガリー二重帝国

詳細はオーストリア・ハンガリー二重帝国を参照

1914年当時のオーストリア・ハンガリー二重帝国とヨーロッパ

1867年3月15日、ハンガリー議会がオーストリアとの合体を定めた「アウスグライヒ(和協)法案」を可決。オーストリア・ハンガリー二重帝国体制の道筋がついた。これは、フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝とハンガリー王を兼ね、両国は外交、軍事、財政は共通にするものの、憲法と議会、政府は独自のものを置く同君連合体制である。ハンガリー議会の「和協法」可決から3か月後の6月8日にはフランツ・ヨーゼフ帝がハンガリー王に戴冠し、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が名実ともに成立した。この体制によって、ドイツから疎外されたオーストリアは中央ヨーロッパ大国の地位を維持することに成功、帝都ウィーンには世紀末美術の花が咲くなど繁栄を得た。一方ハンガリーは首都ブダペストの近代化などに成功し、空前の繁栄を謳歌する。

しかし、この体制はドイツ系マジャル人の多数派が少数のチェコ人ポーランド人など他のスラブ系諸民族を抑圧することで維持される性格を持つゆえに、成立直後から民族主義を叫ぶ諸民族の揺さぶりを受けることになった。この結果、フランツ・ヨーゼフ1世は、ドイツ帝国とよりを戻し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の掲げた「汎ゲルマン主義」に同調していく事となる。

サラエヴォ事件

1908年オスマン帝国青年トルコ人革命がおきると、30年前から支配下においていたボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した。これによってこの地域にあるセルビア王国との団結を叫ぶ汎スラブ主義の芽を摘む対策にでた。汎スラヴ主義を掲げるロシア帝国との合意も得、オスマン帝国には5,200万クローネの代償を支払うなど周到な、根回しをした合併であった。しかし、この地域の民族主義者たちの反発は買い、「民族防衛団」、「ボスニア青年党」などの結社を生み出すことになる。

ハプスブルク家ではこの頃皇太子ルドルフが自殺し、フランツ・ヨーゼフ帝の甥のフランツ・フェルディナント大公が皇位継承者となっていた。大公は帝国が民族主義の揺さぶりを受けていることを危惧し、「二重帝国」をさらに「三重帝国」へと再編する道も模索していた。

1914年6月28日、フランツ・フェルディナント大公が妃とともにボスニアのサラエヴォ訪問の際、ガブリロ・プリンチプによって射殺される事件が起こった(サラエヴォ事件)。帝国政府は、実行犯が「大セルビア主義」標榜するセルビア人青年だったことから、セルビアの関与を指摘した。真相は藪の中のまま、帝国内での強硬派はセルビアとの戦争を主張し、ドイツ帝国に支援を取り付けた上で7月23日にはセルビアに最後通牒を突きつけた。しかし、セルビアはロシアの強い後ろ盾を恃み、これを拒否したため、7月25日には国交を断絶した。28日にはオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、人類史上空前の規模となる世界大戦が始まることになった。

第一次世界大戦

詳細は第一次世界大戦を参照

戦間期

敗戦・オーストリア革命とサン・ジェルマン条約

1918年10月、オーストリア革命によってオーストリア臨時国民議会が発足し、暫定憲法が定められた。新政府の中心は社会民主党が担った。11月には皇帝が「国事不関与」を宣言して実質的に退位し、共産党も成立したが、政府から弾圧され勢力を伸ばすことはなかった。かつての多民族国家オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した以上、ドイツ人地域のみでオーストリアが自立していくことには、否定的な考えが強かった。そのため、政府はドイツへの合併を望んでいた。

しかし、パリ講和会議では、ドイツの強大化を懸念するフランスなどによって、ドイツとオーストリアの合併は禁止された。1919年10月、政府はサン=ジェルマン条約を批准した。

世界恐慌

1929年アメリカ合衆国で起こった世界恐慌の波は、オーストリアにも押し寄せた。とりわけ、1931年にクレディート・アンシュタルト(オーストリア最大の銀行)が破綻したことは、オーストリアのみならず、ヨーロッパ経済全体に深刻な打撃を与え、オーストリアの右翼勢力を台頭させることになった。しかし、それは直ちにドイツのナチスとの連携を意味したわけではない。1932年に成立したエンゲルベルト・ドルフース政権は、社会民主党や共産党と対立する一方で、オーストリア・ナチスに対しても対立姿勢をとり、1933年にはドイツのナチス政権成立で勢いづく同党の活動を禁止させた。

ナチス・ドイツ

合邦時点におけるナチス・ドイツの旗 ドイツ国(薄い赤色)とオーストリアの旗 オーストリア(濃い赤色)の国土
1938年3月13日

1938年から1945年の間はナチス・ドイツと併合した。

第二次世界大戦後

1945年4月のウィーン攻勢でオーストリアがドイツから切り離されると、連合国の占領下でオーストリア人臨時政府(オーストリア臨時政府)を樹立し、併合前のオーストリア政府が回復したと言う立場を取った。その直後、ドイツ降伏英語版により、オーストリアは1955年までの10年間、イギリスアメリカフランスソ連の4カ国による分割占領統治を受けた。しかし、中央政府(フレンスブルク政府)を喪失したドイツと異なり、オーストリアは連合国から臨時政府の政府承認を受けることが出来たため、国家としての統一性は保つことができた。この臨時政府を母体として発足した体制を第二共和国と呼ぶ。

1955年にオーストリアは冷戦の東西緩衝帯として永世中立国宣言を行い、またドイツとの合邦を永久に禁じられることを条件に、独立を回復した。この時から現在に至るオーストリア共和国となっている。

年表

古代からフランク王国

神聖ローマ帝国(オーストリア公国)時代

神聖ローマ帝国(オーストリア大公国)時代

オーストリア帝国時代

オーストリア・ハンガリー二重帝国時代

大戦間期;共和政時代

戦後

参考文献

脚注

  1. ^ 『オーストリア外交官の明治維新―世界周遊記日本篇』アレクサンダー・F.V. ヒューブナー、新人物往来社 (1988/07)
  2. ^ 『明治日本印象記―オーストリア人の見た百年前の日本』アドルフ・フィッシャー(講談社学術文庫、2001/12)
  3. ^ 『オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録』フランツ・フェルディナント(講談社学術文庫、2005年9月)