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クルト・シュシュニック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シュシュニクから転送)
クルト・シュシュニック
Kurt Schuschnigg
1936年撮影
生年月日 1897年12月14日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国トレントリーヴァ・デル・ガルダ
没年月日 (1977-11-18) 1977年11月18日(79歳没)
死没地  オーストリアインスブルック
前職 弁護士
所属政党キリスト教社会党→)
祖国戦線
配偶者 ヘルマ・マゼーラ(1926年 - 1935年)
ヴェラ・フォン・バーベンハウゼン(1938年 - 1959年)

オーストリアの旗 第15代首相
在任期間 1934年7月29日 - 1938年3月11日
大統領 ヴィルヘルム・ミクラス
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クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニックドイツ語: Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg1897年12月14日 - 1977年11月18日)は、オーストリアの政治家。1938年オーストリア第一共和国ナチス・ドイツ併合されると、逮捕・拘束された。

一般にはフォン・シュシュニック (von Schuschnigg) の姓で知られるが、オーストリアでは1919年に貴族制度を「フォン」の名乗りに至るまで廃止したため、現在では "von" は付けずに呼ぶのが通例である。

来歴

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政治家

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ブレシュ内閣(後列左から2人目がシュシュニック)

シュシュニックはオーストリア=ハンガリー帝国トレント近郊リーヴァ・デル・ガルダ南チロル、第一次大戦後はイタリア領)で生まれ、フェルトキルヒステラマテュティナドイツ語版フライブルク大学インスブルック大学で法学を学ぶ。第一次世界大戦ではオーストリア=ハンガリー帝国軍に従軍し、戦後の1924年インスブルック弁護士事務所を開業した。

1919年以来、シュシュニックはキリスト教保守団体に所属し、政治活動を行った。1926年にヘルマ・マゼーラと結婚し、同年に息子クルトをもうけるが、1935年に自動車事故でヘルマと死別する。1927年キリスト教社会党から出馬し国民議会議員に選出され、1930年には護国団への懐疑的立場から独自の武装組織を設立する。

1932年カール・ブレシュドイツ語版内閣の法務大臣として入閣する。エンゲルベルト・ドルフース内閣でも引き続き法相を務め、1933年には教育大臣を兼任する。11月10日に戒厳令が布告されたことに伴い、翌11日に廃止されていた死刑制度を復活させた[1]1934年2月内乱が発生すると、シュシュニックは減刑を求める意見を無視して敵対者の死刑を執行したため、ドルフースと共に「労働者の殺人者」と呼ばれるようになった[2]

オーストロファシズム

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左からシュミット、チャーノ、シュシュニック(1936年11月12日)

1934年7月25日、ドルフースがオーストリア・ナチスに暗殺されると、シュシュニックは7月29日に後任として首相に就任し、オーストロファシズムと呼ばれる独裁体制を構築した[3]。ドルフースが実施した国民議会の停止や社会主義者への弾圧を継続し、9月までの間に1万3,338人の政治犯を逮捕し、さらには経済統制を実施した[4]。また、1935年には「オーストリアの評判の保護のための連邦法」を制定して海外メディアの報道を統制し[5]1936年10月には護国団を解散した。

シュシュニックはドルフースと同様にナチスを嫌悪しており、カトリック保守的なイタリアベニート・ムッソリーニに依存していたが、第二次エチオピア戦争でイタリアが国際的に孤立すると、ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーの圧力が増してきた。そのため、1936年7月11日にドイツとの間で7月合意ドイツ語版を締結し、ドイツからオーストリアの主権を認めさせたが、見返りとしてオーストリア・ナチスの政治参加を承認し、ドイツ寄りのエドムント・グライズ=ホルシュテナウドイツ語版グイド・シュミットドイツ語版無任所大臣、外務大臣として入閣させた。これにより、オーストロファシズムは崩壊を始め、シュシュニック政権は危機感を募らせていく。

アンシュルス

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国民投票を呼び掛けるシュシュニックと祖国戦線(1938年3月10日)

1938年2月12日、ベルヒテスガーデンでシュシュニックと会談したヒトラーは、オーストリア・ナチス指導者アルトゥル・ザイス=インクヴァルトを入閣させるよう強制して、シュシュニックも一旦はこれを受け入れた。一方で、2月24日にシュシュニックはオーストリアの独立維持を呼びかける演説を行い[6]、24歳以上の国民によるドイツとの併合の賛否を問う国民投票を企図した。オーストリアのナチ支持者はほとんど10代か20代前半の若者だったので、その層を投票から排除すれば、併合案は否決されるとシュシュニックは踏んでいた。さらに、ドルフースが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉して国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束した。また、ムッソリーニにこの案の支持を求めたが、ドイツとの関係悪化を恐れるムッソリーニからは賛同は得られなかった[7]

3月9日、シュシュニックは13日に「ドイツとの合併」か「自主独立」かを選択させる国民投票を実施することを表明し、開票作業には祖国戦線を動員した[8]。ヒトラーはシュシュニックの国民投票案に激怒し、3月10日に国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテルにオーストリア侵攻計画「オットー計画」の発動を命令した[9]。同日、ドイツの侵攻作戦の情報が伝わると、シュシュニックは国民投票の中止を余儀なくされた。

3月11日午前2時頃にドイツ国防軍が国境に出動。オーストリア政府はヒトラーやヘルマン・ゲーリングから国民投票の延期、シュシュニックの首相辞任、ザイス=インクヴァルトの首相就任、ドイツに秩序維持の援助を求めることを要求された。大統領ヴィルヘルム・ミクラスは拒絶するように命じたが、シュシュニックはドイツとオーストリアに住むドイツ人同士が戦うことは道義的にも実際的(軍事力の差)にも無理があると考えてドイツ政府の要求を呑むことを決めた。同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、ミクラスは後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した[9]。シュシュニックの辞任前の最後の演説は次の通りであった[10]

ドイツ政府は今日(1938年3月11日)、ミクラス大統領に最後通牒を手渡し、時間の制限を付けて、ドイツ政府によって指定された人物(ザイス=インクヴァルト)を首相に任命するように命じました…そうしないと、ドイツ軍がオーストリアに侵入するというのであります。

労働者による暴動が起こり、血の河が流れ、オーストリア政府の手では制御出来ない事態が生じたという、ドイツで伝播された報道は一から十まで虚偽である事を、私は世界に向かって言明します。ミクラス大統領は、我々は力に屈服した、我々はこの恐ろしい時期に際してすら血を流す用意がなかったからだ、ということをオーストリア国民に告げるように私に求めました。我々は軍隊に対して抵抗しないように命じることを決定しました。

そういうわけで、私は心の心底から出るドイツ語の告別の言葉をもって、オーストリア国民にお別れを告げます。
          神よ、オーストリアを守り給え!
シュシュニック(1936年)

首相となったザイス=インクヴァルトはただちに、ゲーリングからの指示でドイツ軍にオーストリア進駐を要請した。3月12日午前8時からフェードア・フォン・ボック指揮下のドイツ軍がオーストリアへ無血進駐を開始した。夜には首都ウィーンにドイツ軍が入った。市民はドイツ軍を熱狂的に歓迎した[11]。3月13日にザイス=インクヴァルトは合併法(第1条で「オーストリアはドイツ国の一州である」と定める)を発布しようとしたが、大統領ミクラスが署名を拒否したため、ザイス=インクヴァルトの署名だけで合併法が発布された[11]。4月10日にはドイツのオーストリア併合について賛否を問う国民投票(選挙権20歳以上)が実施され、ドイツで99.08%、オーストリアで99.75%の支持票があった[12]

シュシュニックはハプスブルク家復活による独墺合邦(アンシュルス)を望んでいたとも言われており、ナチスそのものに対しては嫌悪感を抱いていたが、ドイツとオーストリアは将来的には統一されるべきだという信念を抱いていた(これは当時のオーストリアの左右両派に見られた発想であり、決して彼特有のものではない)。このため、ナチス・ドイツに対する強硬策を打ち出すことには躊躇する傾向があったとも言われている。また、オーストリアを自国の衛星国と見ていたムッソリーニが、一転してドイツとの連携強化のためにドイツのオーストリア併合を容認する姿勢に方向転換したことも誤算であった。

収容所生活

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シュシュニックはウィーンを占領したドイツ軍によって拘束された(ただし、実際にはミクラス大統領は最後まで最後通牒を拒否したため、ドイツ政府の指示を受けたザイス=インクヴァルトにより職権を剥奪されている)。シュシュニックはしばらく自宅軟禁された後にウィーンのゲシュタポ本部ホテル・メトロポールドイツ語版に収容される。この間、レオポルト・フッガー・フォン・バーベンハウゼンドイツ語版の元妻で収容者のヴェラと再婚し、後に娘エリーザベトをもうけた[13]

シュシュニックはベルリンに移送され尋問を受けた後、ダッハウ強制収容所に収容され、1941年ザクセンハウゼン強制収容所に移された。ザクセンハウゼン強制収容所では高位の収容者として比較的優遇され、収容所には自宅の家具が持ち込まれ、食事の際には毎日ワインが用意された。また、ヴェラは収容所から外出する際には他の収容者を同行させることを許可され、息子クルトは収容所から近くの学校に通学していた[14]

1945年4月24日、シュシュニックは家族やマルティン・ニーメラーら高位収容者と共にザクセンハウゼン強制収容所から避難させられた。4月30日にニーダードルフに到着し、他の収容者と共に親衛隊に処刑されそうになるが、陸軍大尉ヴィヒャルト・フォン・アルフェンスレーベンドイツ語版によって助け出され、5月4日にアメリカ軍に引き渡された[15]。シュシュニックは他の収容者と共にカプリ島に移送されるが、ヒトラーと対立して収容生活を送っていたシュシュニックは戦犯として訴追されず、そこで解放されている。

晩年

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戦後はアメリカ合衆国に移住して市民権を取得し、1948年から1967年までセントルイス大学で政治学の教授を務めた。この間の1959年に妻ヴェラと死別している。シュシュニックは終始反省の念を持たず、自身の行為とオーストロファシズムを正当化していた。

1968年にオーストリアに帰国、以降は政界に復帰することはなくチロルに隠棲し、1977年インスブルックで死去した。

参考文献

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  • 阿部良男著、『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』、2001年、柏書房、ISBN 978-4760120581
  • Walter Goldinger: Kurt Schuschnigg. In: Friedrich Weissensteiner, Erika Weinzierl (Hrsg.): Die österreichischen Bundeskanzler. Leben und Werk. Österreichischer Bundesverlag, Wien 1983, ISBN 3-215-04669-5.
  • Anton Hopfgartner: Kurt Schuschnigg. Ein Mann gegen Hitler. Styria, Graz/Wien 1989, ISBN 3-222-11911-2.
  • Lucian O. Meysels: Der Austrofaschismus – Das Ende der ersten Republik und ihr letzter Kanzler. Amalthea, Wien-München 1992, ISBN 978-3-85002-320-7.
  • Kurt von Schuschnigg: Der lange Weg nach Hause. Der Sohn des Bundeskanzlers erinnert sich. Aufgezeichnet von Janet von Schuschnigg. Verlag Amalthea, Wien 2008, ISBN 978-3-85002-638-3.
  • Michael Gehler: Schuschnigg, Kurt. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 23, Duncker & Humblot, Berlin 2007, ISBN 978-3-428-11204-3, S. 766 f. (電子テキスト版).

出典

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  1. ^ Wolfgang Neugebauer: Repressionsapparat – und Maßnahmen. In: Emmerich Tálos (Hrsg.): Austrofaschismus. Politik – Ökonomie – Kultur 1933–1938. Verlag Lit, Wien 2005, ISBN 978-3-8258-7712-5, S. 298–321, hier: S. 301.
  2. ^ Arnold Suppan: Jugoslawien und Österreich 1918–1938. Bilaterale Außenpolitik im europäischen Umfeld. Verlag für Geschichte u. Politik, Wien 1996, ISBN 3-486-56166-9, S. 89; und Ludwig Jedlicka (Hrsg.): Vom Justizpalast zum Heldenplatz. Studien und Dokumentationen 1927 bis 1938. Österreichische Staatsdruckerei, Wien 1975, S. 201.
  3. ^ Arnold Suppan: Jugoslawien und Österreich 1918–1938. Bilaterale Außenpolitik im europäischen Umfeld. Verlag für Geschichte und Politik, Wien 1996, ISBN 3-486-56166-9, S. 94.
  4. ^ Wolfgang Neugebauer: Repressionsapparat – und Maßnahmen. In: Emmerich Tálos (Hrsg.): Austrofaschismus. Politik – Ökonomie – Kultur 1933–1938. Verlag Lit, Wien 2005, ISBN 978-3-8258-7712-5, S. 298–321, hier: S. 314.
  5. ^ B.G.Bl. Nr. 214 (1935), "Bundesgesetz zum Schutze des Ansehens Österreichs"; verbotene Druckwerke jeweils im amtl. Teil der Wiener Zeitung veröffentlicht.
  6. ^ Georg Christoph Berger Waldenegg: Hitler, Göring, Mussolini und der „Anschluß“ Österreichs an das Deutsche Reich. In: Vierteljahrshefte zur Zeitgeschichte 51, H. 2 (2003), S. 162 (PDF; 7,98 MB, Zugriff am 21. Juli 2014).
  7. ^ 阿部良男、356頁
  8. ^ Georg Christoph Berger Waldenegg: Hitler, Göring, Mussolini und der „Anschluß“ Österreichs an das Deutsche Reich. In: Vierteljahrshefte zur Zeitgeschichte 51, H. 2 (2003), S. 162.
  9. ^ a b 阿部良男、357頁
  10. ^ "Letzte Rundfunkansprache des österreichischen Bundeskanzlers Schuschnigg" (Audio, 2:51 Minuten). Österreich „am Wort“. Österreichische Mediathek. 11 March 1938. 2013年5月6日閲覧
  11. ^ a b 阿部良男、358頁
  12. ^ 阿部良男、363頁
  13. ^ New York Times, 4. Juni 1938.
  14. ^ Dieter A. Binder (Hrsg.): Sofort vernichten. Die vertraulichen Briefe Kurt und Vera von Schuschnigg 1938–1945. Verlag Amalthea, Wien 1997, ISBN 3-85002-393-1.
  15. ^ Peter Koblank: Die Befreiung der Sonder- und Sippenhäftlinge in Südtirol. Online-Edition Mythos Elser, 2006.

関連項目

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公職
先代
エンゲルベルト・ドルフース
オーストリア首相
第15代:1934年 - 1938年
次代
アルトゥル・ザイス=インクヴァルト