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「ハインリヒ6世 (ケルンテン公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
ボヘミアと[[ポーランド王国|ポーランド]]の王[[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]の娘[[アンナ・プシェミスロヴナ|アンナ]]を妻としていたことから、1306年にアンナの兄[[ヴァーツラフ3世]]が暗殺されると、ハインリヒはボヘミア王に選出された(名目上のポーランド王位も得ている)。しかし、義兄のアルブレヒト1世は息子の[[オーストリア公]][[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ3世]](ハインリヒ6世の甥で、ヴァーツラフ3世の母方の従兄でもある)をヴァーツラフ2世の後妻[[リクサ・エルジュビェタ]]と結婚させた上で[[プラハ]]を占領し、ボヘミア王即位を宣言した(ボヘミア王としてはルドルフ1世)。ボヘミア諸侯にはハインリヒ6世を支持する者もおり、ルドルフと争った。
ボヘミアと[[ポーランド王国|ポーランド]]の王[[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]の娘[[アンナ・プシェミスロヴナ|アンナ]]を妻としていたことから、1306年にアンナの兄[[ヴァーツラフ3世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ3世]]が暗殺されると、ハインリヒはボヘミア王に選出された(名目上のポーランド王位も得ている)。しかし、義兄のアルブレヒト1世は息子の[[オーストリア公]][[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ3世]](ハインリヒ6世の甥で、ヴァーツラフ3世の母方の従兄でもある)をヴァーツラフ2世の後妻[[リクサ・エルジュビェタ]]と結婚させた上で[[プラハ]]を占領し、ボヘミア王即位を宣言した(ボヘミア王としてはルドルフ1世)。ボヘミア諸侯にはハインリヒ6世を支持する者もおり、ルドルフと争った。


ルドルフは翌1307年に戦病死したため、ハインリヒは王位を回復するが、1310年に今度は妃アンナの妹[[エリシュカ・プシェミスロヴナ|エリシュカ]](エルジュビェタ)と結婚した[[ルクセンブルク家]]の[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]](ヤン)がボヘミア王に選ばれ、ハインリヒは廃位されてアンナと共にケルンテンへ逃れた。
ルドルフは翌1307年に戦病死したため、ハインリヒは王位を回復するが、1310年に今度は妃アンナの妹[[エリシュカ・プシェミスロヴナ|エリシュカ]](エルジュビェタ)と結婚した[[ルクセンブルク家]]の[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]](ヤン)がボヘミア王に選ばれ、ハインリヒは廃位されてアンナと共にケルンテンへ逃れた。
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2021年5月19日 (水) 21:46時点における版

インジフ・コルタンスキー
Jindřich Korutanský
ボヘミア王
ケルンテン公ハインリヒ6世の紋章
在位 1306年1307年 - 1310年
別号 ケルンテン公

出生 1265年
死去 1335年4月2日
チロルチロル城
埋葬 チロル、シュタムス修道院
配偶者 アンナ・プシェミスロヴナ
  アーデルハイト・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
  ベアトリクス・ディ・サヴォイア
子女 アーデルハイト
マルガレーテ
家名 ゲルツ家
父親 ケルンテン公マインハルト2世
母親 エリーザベト・フォン・バイエルン
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ハインリヒ6世(Heinrich VI. von Kärnten, 1265年頃 - 1335年4月2日)は、チロル伯、ケルンテン公(在位:1295年 - 1335年)、クライン (en辺境伯ボヘミア王(チェコ名インジフ・コルタンスキー(Jindřich Korutanský)、在位:1306年1307年 - 1310年)。ゲルツ家のチロル伯兼ケルンテン公マインハルト2世と、バイエルン公ライン宮中伯オットー2世[1]の娘エリーザベトの四男。アルブレヒト、ルートヴィヒオットー3世の兄3人が順に死去したため、家督を相続した。姉エリーザベトハプスブルク家ドイツ王アルブレヒト1世に嫁いでいる。

生涯

ボヘミアとポーランドの王ヴァーツラフ2世の娘アンナを妻としていたことから、1306年にアンナの兄ヴァーツラフ3世が暗殺されると、ハインリヒはボヘミア王に選出された(名目上のポーランド王位も得ている)。しかし、義兄のアルブレヒト1世は息子のオーストリア公ルドルフ3世(ハインリヒ6世の甥で、ヴァーツラフ3世の母方の従兄でもある)をヴァーツラフ2世の後妻リクサ・エルジュビェタと結婚させた上でプラハを占領し、ボヘミア王即位を宣言した(ボヘミア王としてはルドルフ1世)。ボヘミア諸侯にはハインリヒ6世を支持する者もおり、ルドルフと争った。

ルドルフは翌1307年に戦病死したため、ハインリヒは王位を回復するが、1310年に今度は妃アンナの妹エリシュカ(エルジュビェタ)と結婚したルクセンブルク家ヨハン(ヤン)がボヘミア王に選ばれ、ハインリヒは廃位されてアンナと共にケルンテンへ逃れた。

チロル系ゲルツ家の男系男子はハインリヒで断絶し、娘の「マウルタッシュ」(醜女)ことマルガレーテが唯一の相続人となった。遺領をルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ハプスブルク家が争うが、ケルンテンはいち早くハプスブルク家のアルブレヒト2世(ルドルフ3世の弟)が獲得した。チロルは3家が三つ巴になって争うが、最終的にアルブレヒト2世の子ルドルフ4世が奪取し、以後ハプスブルク家の家領となった。

子女

1306年ボヘミアポーランドの王ヴァーツラフ2世の娘アンナ(1290年 - 1313年)と結婚したが1313年に死別した。子供はいない。

1313年ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ1世の娘アーデルハイト(1285年 - 1320年)と再婚、2人の子を儲けた。

  1. アーデルハイト(1317年 - 1325年)
  2. マルガレーテ(1318年 - 1369年) - 1330年、ボヘミア王ヨハンの次男ヨハン・ハインリヒと結婚したが1341年に離婚、1342年ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ2世と再婚。

1327年サヴォイア伯アメデーオ5世の娘ベアトリクス(1310年 - 1331年)と再婚した。子供はいない。

脚注

  1. ^ オットー2世の母ルドミラはボヘミア公ベドジフの娘である。
先代
ヴァーツラフ3世
ボヘミア王
1306年
次代
ルドルフ1世
先代
ルドルフ1世
ボヘミア王
(復位)1307年 - 1310年
次代
ヤン
先代
マインハルト
ケルンテン公
1295年 - 1335年
次代
アルブレヒト2世
オットー4世
先代
マインハルト2世
チロル伯
1295年 - 1335年
次代
マルガレーテ
ヨハン・ハインリヒ