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「コンラート1世 (バイエルン公)」の版間の差分

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コンラートはズトフェン領主ルドルフとマティルデ([[コンラディン家]]のズトフェン伯オットー・フォン・ハンマーシュタインの娘)との間に生まれた。父ルドルフは[[シュヴァーベン公]][[オットー2世 (シュヴァーベン大公)|オットー2世]]の長兄で、皇帝[[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]の外孫にあたる。皇帝[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]は、バイエルンと地縁的つながりのないコンラートにバイエルン公位を与えたが、コンラートはバイエルン在地貴族にほとんど受け入れられなかった。これは、コンラートが独立した権力を築くのを防ぎ、バイエルン公領をより帝国に結び付けようとする皇帝の意図であったとみられる。コンラートはおそらくバイエルン公となったのちに、[[シュヴァーベン大公]][[オットー3世 (シュヴァーベン大公)|オットー3世]]の娘ユーディト・フォン・シュヴァインフルトと結婚し、バイエルンにおける権力を拡大させた。
コンラートはズトフェン領主ルドルフとマティルデ([[コンラディン家]]のズトフェン伯オットー・フォン・ハンマーシュタインの娘)との間に生まれた。父ルドルフは[[シュヴァーベン公]][[オットー2世 (シュヴァーベン大公)|オットー2世]]の長兄で、皇帝[[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]の外孫にあたる。皇帝[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]は、バイエルンと地縁的つながりのないコンラートにバイエルン公位を与えたが、コンラートはバイエルン在地貴族にほとんど受け入れられなかった。これは、コンラートが独立した権力を築くのを防ぎ、バイエルン公領をより帝国に結び付けようとする皇帝の意図であったとみられる。コンラートはおそらくバイエルン公となったのちに、[[シュヴァーベン大公]][[オットー3世 (シュヴァーベン大公)|オットー3世]]の娘ユーディト・フォン・シュヴァインフルトと結婚し、バイエルンにおける権力を拡大させた。


1053年、コンラートはバイエルン公位を剥奪され、公位は皇帝ハインリヒ3世の子ハインリヒ(後の皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]])に与えられた。コンラートはこの決定を受け入れず、[[ハンガリー王]][[アンドラーシュ1世]]のもとへ逃亡し、アンドラーシュ1世はコンラートをかくまった。やがてハンガリーから戻り、ケルンテン公領やオーストリア辺境伯領で略奪を行った。
1053年、コンラートはバイエルン公位を剥奪され、公位は皇帝ハインリヒ3世の子ハインリヒ(後の皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]])に与えられた。コンラートはこの決定を受け入れず、[[ハンガリー王]][[アンドラーシュ1世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ1世]]のもとへ逃亡し、アンドラーシュ1世はコンラートをかくまった。やがてハンガリーから戻り、ケルンテン公領やオーストリア辺境伯領で略奪を行った。


1055年、コンラートが中心となり、皇帝ハインリヒ3世に対する陰謀を企てた。この陰謀には[[ケルンテン公]][[ヴェルフ3世]]やアリボ家が参加していた。しかし、同年、この陰謀が実行される前にコンラートとヴェルフ3世が急死し、陰謀は潰えた。
1055年、コンラートが中心となり、皇帝ハインリヒ3世に対する陰謀を企てた。この陰謀には[[ケルンテン公]][[ヴェルフ3世]]やアリボ家が参加していた。しかし、同年、この陰謀が実行される前にコンラートとヴェルフ3世が急死し、陰謀は潰えた。

2021年5月24日 (月) 20:51時点における版

コンラート1世
Konrad I.
バイエルン公
在位 1049年 - 1053年

出生 1020年ごろ
死去 1055年12月5日
配偶者 ユーディト・フォン・シュヴァインフルト
家名 エッツォ家
父親 ズトフェン領主ルドルフ
母親 マティルデ・フォン・ズトフェン
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コンラート1世(Konrad I. or Kuno, 1020年ごろ - 1055年12月5日)は、エッツォ家出身のバイエルン公(在位:1049年 - 1053年)、ズトフェン領主。

生涯

コンラートはズトフェン領主ルドルフとマティルデ(コンラディン家のズトフェン伯オットー・フォン・ハンマーシュタインの娘)との間に生まれた。父ルドルフはシュヴァーベン公オットー2世の長兄で、皇帝オットー2世の外孫にあたる。皇帝ハインリヒ3世は、バイエルンと地縁的つながりのないコンラートにバイエルン公位を与えたが、コンラートはバイエルン在地貴族にほとんど受け入れられなかった。これは、コンラートが独立した権力を築くのを防ぎ、バイエルン公領をより帝国に結び付けようとする皇帝の意図であったとみられる。コンラートはおそらくバイエルン公となったのちに、シュヴァーベン大公オットー3世の娘ユーディト・フォン・シュヴァインフルトと結婚し、バイエルンにおける権力を拡大させた。

1053年、コンラートはバイエルン公位を剥奪され、公位は皇帝ハインリヒ3世の子ハインリヒ(後の皇帝ハインリヒ4世)に与えられた。コンラートはこの決定を受け入れず、ハンガリー王アンドラーシュ1世のもとへ逃亡し、アンドラーシュ1世はコンラートをかくまった。やがてハンガリーから戻り、ケルンテン公領やオーストリア辺境伯領で略奪を行った。

1055年、コンラートが中心となり、皇帝ハインリヒ3世に対する陰謀を企てた。この陰謀にはケルンテン公ヴェルフ3世やアリボ家が参加していた。しかし、同年、この陰謀が実行される前にコンラートとヴェルフ3世が急死し、陰謀は潰えた。

参考文献

先代
ハインリヒ1世
ズトフェン伯
1033年 - 1042年
次代
ゴツェロ1世
先代
ハインリヒ6世
バイエルン公
1049年 - 1053年
次代
ハインリヒ8世