「ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ」の版間の差分
m編集の要約なし |
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (ラースロー1世 (ハンガリー王)) - log |
||
18行目: | 18行目: | ||
| 埋葬日 = |
| 埋葬日 = |
||
| 埋葬地 = |
| 埋葬地 = |
||
| 配偶者1 = [[ハンガリー王]][[ラースロー1世]]の娘 |
| 配偶者1 = [[ハンガリー王]][[ラースロー1世 (ハンガリー王)|ラースロー1世]]の娘 |
||
| 配偶者2 = [[ポーランド君主一覧|ポーランド公]][[ヴワディスワフ1世ヘルマン|ヴワディスワフ1世]]の娘 |
| 配偶者2 = [[ポーランド君主一覧|ポーランド公]][[ヴワディスワフ1世ヘルマン|ヴワディスワフ1世]]の娘 |
||
| 配偶者3 = ログネダ・ムスチスラヴナ |
| 配偶者3 = ログネダ・ムスチスラヴナ |
||
43行目: | 43行目: | ||
==妻子== |
==妻子== |
||
'''妻''' |
'''妻''' |
||
*一人目の妻:[[ハンガリー王]][[ラースロー1世]]の娘。[[1091年]]婚。 |
*一人目の妻:[[ハンガリー王]][[ラースロー1世 (ハンガリー王)|ラースロー1世]]の娘。[[1091年]]婚。 |
||
*二人目の妻(ユディタ? マリヤ?):[[ポーランド君主一覧|ポーランド公]][[ヴワディスワフ1世ヘルマン|ヴワディスワフ1世]]の娘。[[1106年]]婚。 |
*二人目の妻(ユディタ? マリヤ?):[[ポーランド君主一覧|ポーランド公]][[ヴワディスワフ1世ヘルマン|ヴワディスワフ1世]]の娘。[[1106年]]婚。 |
||
*三人目の妻:キエフ大公ムスチスラフ1世(結婚当時はノヴゴロド公)の娘ログネダ。1112年婚。1117年 - 1118年のうちに離婚。 |
*三人目の妻:キエフ大公ムスチスラフ1世(結婚当時はノヴゴロド公)の娘ログネダ。1112年婚。1117年 - 1118年のうちに離婚。 |
2021年5月24日 (月) 20:58時点における版
ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ Ярослав Святополкович | |
---|---|
ヴォルィーニ公 | |
在位 | 1100年 - 1118年 |
出生 |
1072年頃 |
死去 |
1123年 ウラジーミル・ヴォリンスキー近郊 |
配偶者 | ハンガリー王ラースロー1世の娘 |
ポーランド公ヴワディスワフ1世の娘 | |
ログネダ・ムスチスラヴナ | |
子女 |
ヴャチェスラフ ユーリー ソフィヤ プリブィスラヴァ |
父親 | キエフ大公スヴャトポルク2世 |
ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ(スヴャトポルチチ)(ロシア語: Ярослав Святополкович(Святополчич)、ウクライナ語: Ярослав Святополкович。1072年頃 - 1123年)は、キエフ大公スヴャトポルク2世の側室の子である。ヴォルィーニ公(在位:1100年 - 1118年)。
生涯
1100年、ヴィティチフ諸公会議(ru)で、ヴォルィーニ公ダヴィドの領土の剥奪[注 1]が決まった後に、キエフ大公である父・スヴャトポルクの代官(ナメストニク)として、ヴォルィーニに赴任した。
1102年に、ヤロスラフがノヴゴロド公へ移り、ウラジーミル・モノマフの長男のムスチスラフ(当時ノヴゴロド公)をヴォルィーニ公とするという協定を、ウラジーミル・モノマフと結んだ。しかしノヴゴロドの人々が、これに難色を示したため、ヤロスラフがノヴゴロド公となることはなかった。
1112年、ウラジーミル・モノマフの長男・ムスチスラフの娘と結婚した。また1113年、父スヴャトポルクが死に、モノマフがキエフ大公となったことによって、ヤロスラフは引き続き4年間、ヴォルィーニを統治した。しかし1117年にモノマフが、ムスチスラフをキエフ近郊のベルゴロドへと移すと、ヤロスラフは妻をムスチスラフの元へ送り返し、戦いの準備を始めた。歴史家はこれを、ヤロスラフが、自分のキエフ大公位継承権がおびやかされているとみなしたからだと推測している。1118年、モノマフはロスチスラフ一門(ru)と連携し、ヤロスラフをウラジーミル・ヴォリンスキー(ヴォルィーニ公国の首都)から追放した。ヴォルィーニ公にはモノマフの子のロマンが置かれた。1119年にロマンが死去すると、モノマフの別の子のアンドレイが継いだ。
ヤロスラフは、ハンガリー王国・ポーランド王国軍の援助を得て、ヴォルィーニの所有権の奪還を試みたが、ロスチスラフ一門に破れ、失敗に終わった。1123年、ウラジーミル・ヴォリンスキーの近郊で死去した。
妻子
妻
- 一人目の妻:ハンガリー王ラースロー1世の娘。1091年婚。
- 二人目の妻(ユディタ? マリヤ?):ポーランド公ヴワディスワフ1世の娘。1106年婚。
- 三人目の妻:キエフ大公ムスチスラフ1世(結婚当時はノヴゴロド公)の娘ログネダ。1112年婚。1117年 - 1118年のうちに離婚。
子
- ヴャチェスラフ(ru) - クレツク公。
- ユーリー - トゥーロフ公。
- ソフィヤ - ミンスク公ロスチスラフと結婚。
- プリブィスラヴァ(ru)[注 2] - 1136年頃、ポメラニア公ラティボル1世(pl)と結婚。
(公座の置かれた都市についてはクレツク・トゥーロフ・ミンスクを参照。)
脚注
注釈
出典
- ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』282-283頁
参考文献
國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。
外部リンク
|
|
|