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「ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ」の版間の差分

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| 配偶者2 = [[ポーランド君主一覧|ポーランド公]][[ヴワディスワフ1世ヘルマン|ヴワディスワフ1世]]の娘
| 配偶者2 = [[ポーランド君主一覧|ポーランド公]][[ヴワディスワフ1世ヘルマン|ヴワディスワフ1世]]の娘
| 配偶者3 = ログネダ・ムスチスラヴナ
| 配偶者3 = ログネダ・ムスチスラヴナ
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==妻子==
==妻子==
'''妻'''
'''妻'''
*一人目の妻:[[ハンガリー王]][[ラースロー1世]]の娘。[[1091年]]婚。
*一人目の妻:[[ハンガリー王]][[ラースロー1世 (ハンガリー王)|ラースロー1世]]の娘。[[1091年]]婚。
*二人目の妻(ユディタ? マリヤ?):[[ポーランド君主一覧|ポーランド公]][[ヴワディスワフ1世ヘルマン|ヴワディスワフ1世]]の娘。[[1106年]]婚。
*二人目の妻(ユディタ? マリヤ?):[[ポーランド君主一覧|ポーランド公]][[ヴワディスワフ1世ヘルマン|ヴワディスワフ1世]]の娘。[[1106年]]婚。
*三人目の妻:キエフ大公ムスチスラフ1世(結婚当時はノヴゴロド公)の娘ログネダ。1112年婚。1117年 - 1118年のうちに離婚。
*三人目の妻:キエフ大公ムスチスラフ1世(結婚当時はノヴゴロド公)の娘ログネダ。1112年婚。1117年 - 1118年のうちに離婚。

2021年5月24日 (月) 20:58時点における版

ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ
Ярослав Святополкович
ヴォルィーニ公
在位 1100年 - 1118年

出生 1072年
死去 1123年
ウラジーミル・ヴォリンスキー近郊
配偶者 ハンガリー王ラースロー1世の娘
  ポーランド公ヴワディスワフ1世の娘
  ログネダ・ムスチスラヴナ
子女 ヴャチェスラフ
ユーリー
ソフィヤ
プリブィスラヴァ
父親 キエフ大公スヴャトポルク2世
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ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ(スヴャトポルチチ)ロシア語: Ярослав Святополкович(Святополчич)ウクライナ語: Ярослав Святополкович。1072年頃 - 1123年)は、キエフ大公スヴャトポルク2世の側室の子である。ヴォルィーニ公(在位:1100年 - 1118年)。

生涯

1100年、ヴィティチフ諸公会議(ru)で、ヴォルィーニ公ダヴィドの領土の剥奪[注 1]が決まった後に、キエフ大公である父・スヴャトポルクの代官(ナメストニク)として、ヴォルィーニに赴任した。

1102年に、ヤロスラフがノヴゴロド公へ移り、ウラジーミル・モノマフの長男のムスチスラフ(当時ノヴゴロド公)をヴォルィーニ公とするという協定を、ウラジーミル・モノマフと結んだ。しかしノヴゴロドの人々が、これに難色を示したため、ヤロスラフがノヴゴロド公となることはなかった。

1112年、ウラジーミル・モノマフの長男・ムスチスラフの娘と結婚した。また1113年、父スヴャトポルクが死に、モノマフがキエフ大公となったことによって、ヤロスラフは引き続き4年間、ヴォルィーニを統治した。しかし1117年にモノマフが、ムスチスラフをキエフ近郊のベルゴロドへと移すと、ヤロスラフは妻をムスチスラフの元へ送り返し、戦いの準備を始めた。歴史家はこれを、ヤロスラフが、自分のキエフ大公位継承権がおびやかされているとみなしたからだと推測している。1118年、モノマフはロスチスラフ一門(ru)と連携し、ヤロスラフをウラジーミル・ヴォリンスキーヴォルィーニ公国の首都)から追放した。ヴォルィーニ公にはモノマフの子のロマンが置かれた。1119年にロマンが死去すると、モノマフの別の子のアンドレイが継いだ。

ヤロスラフは、ハンガリー王国ポーランド王国軍の援助を得て、ヴォルィーニの所有権の奪還を試みたが、ロスチスラフ一門に破れ、失敗に終わった。1123年、ウラジーミル・ヴォリンスキーの近郊で死去した。

妻子

(公座の置かれた都市についてはクレツクトゥーロフミンスクを参照。)

脚注

注釈

  1. ^ ダヴィドは政敵のヴァシリコを捕らえて両目を抉っていた[1]。剥奪はこの行為に対する制裁による。
  2. ^ 一説には、キエフ大公ヤロスラフ2世の娘とされる。

出典

  1. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』282-283頁

参考文献

國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。

外部リンク

先代
ダヴィド
ヴォルィーニ公
1100年 - 1118年
次代
ロマン