コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユーリー・ヤロスラヴィチ
Юрий Ярославич
トゥーロフ・ピンスク公
在位 1157年 - 1167年以降

出生 1112年以前
死去 1168年
配偶者 アンナ・フセヴォロドヴナ
子女 一覧参照
家名 リューリク家
父親 ヴォルィーニ公ヤロスラフ
テンプレートを表示

ユーリー・ヤロスラヴィチロシア語: Юрий Ярославич1112年以前 - 1168年頃)は、キエフ大公スヴャトポルク2世の孫、ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチの子にあたる人物である。ピンスク公(在位:1142年頃 - 1148年1154年 - 1157年)。トゥーロフ公(在位:1148/9年 - 1150年1151年 - 1154年、1157年 - 1168年)(トゥーロフ・ピンスク公:1157年 - 1167年以降)。

生涯

[編集]

1157年、キエフ大公ユーリー1世(ユーリー・ドルゴルーキー)が、トゥーロフ公位にあった自分の子のボリスに変えて、ユーリーにトゥーロフ公国を任せた。ユーリー1世はこの年のうちに死去し、翌年、新たなキエフ大公のイジャスラフ3世が、トゥーロフからユーリーを追い出そうと画策した。しかしこの試みは失敗に終わり、イジャスラフは策の再考を余儀なくされた。1160年、イジャスラフはムスチスラフと連携して、トゥーロフを包囲した。しかし都市を落とせず、今回もユーリーを放逐することはできなかった。1162年、ユーリーは次のキエフ大公となったロスチスラフ1世と講和を結んだ。

年代記における、ユーリーに関する最後の記録は1167年の記述である。また、ユーリーは、トゥーロフ・ピンスク公家の祖となった。

妻子

[編集]

妻はグロドノ公フセヴォロドの娘アンナ。また、子には以下の人物がいる。

出典

[編集]
  1. ^ Анна (имя жен и дочерей русских князей и государей) // Малый энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона: В 4 томах. — СПб., 1907—1909.

参考文献

[編集]
  • Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001. — Т. 2. — 816 с.
先代
ボリス
トゥーロフ公
1157年 - 1167年
次代
イヴァン