ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)
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ユーリー・ヤロスラヴィチ Юрий Ярославич | |
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トゥーロフ・ピンスク公 | |
在位 | 1157年 - 1167年以降 |
出生 |
1112年以前 |
死去 |
1168年頃 |
配偶者 | アンナ・フセヴォロドヴナ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | リューリク家 |
父親 | ヴォルィーニ公ヤロスラフ |
ユーリー・ヤロスラヴィチ(ロシア語: Юрий Ярославич、1112年以前 - 1168年頃)は、キエフ大公スヴャトポルク2世の孫、ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチの子にあたる人物である。ピンスク公(在位:1142年頃 - 1148年、1154年 - 1157年)。トゥーロフ公(在位:1148/9年 - 1150年、1151年 - 1154年、1157年 - 1168年)(トゥーロフ・ピンスク公:1157年 - 1167年以降)。
生涯
[編集]1157年、キエフ大公ユーリー1世(ユーリー・ドルゴルーキー)が、トゥーロフ公位にあった自分の子のボリスに変えて、ユーリーにトゥーロフ公国を任せた。ユーリー1世はこの年のうちに死去し、翌年、新たなキエフ大公のイジャスラフ3世が、トゥーロフからユーリーを追い出そうと画策した。しかしこの試みは失敗に終わり、イジャスラフは策の再考を余儀なくされた。1160年、イジャスラフはムスチスラフと連携して、トゥーロフを包囲した。しかし都市を落とせず、今回もユーリーを放逐することはできなかった。1162年、ユーリーは次のキエフ大公となったロスチスラフ1世と講和を結んだ。
年代記における、ユーリーに関する最後の記録は1167年の記述である。また、ユーリーは、トゥーロフ・ピンスク公家の祖となった。
妻子
[編集]妻はグロドノ公フセヴォロドの娘アンナ。また、子には以下の人物がいる。
- イヴァン - トゥーロフ公。
- スヴャトポルク - ピンスク公(1168年 - ?)、トゥーロフ公(1170年以降 - ?)。
- ヤロスラフ - クレツク公(1168年 - ?)、ピンスク公(1183年)。
- グレプ(ミハイル) - ドゥブロヴィツァ公(1168年 - 1190年)、トゥーロフ公(1190年 - 1195年)。
- ヤロポルク - グロドノ公(1168年 - ?)、ピンスク公(1190年)。
- アンナ(ru) - キエフ大公リューリク2世と結婚[1]。
- マルフリダ - ルーツク公フセヴォロドと結婚。
出典
[編集]- ^ Анна (имя жен и дочерей русских князей и государей) // Малый энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона: В 4 томах. — СПб., 1907—1909.
参考文献
[編集]- Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001. — Т. 2. — 816 с.
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