「ペドロ3世 (アラゴン王)」の版間の差分
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (ゲーザ2世 (ハンガリー王)) - log |
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (ベーラ3世 (ハンガリー王)) - log |
||
110行目: | 110行目: | ||
|10= 10. モンペリエ伯{{仮リンク|ウィリアム8世 (モンペリエ伯)|label=ウィリアム8世|en|William VIII of Montpellier}} |
|10= 10. モンペリエ伯{{仮リンク|ウィリアム8世 (モンペリエ伯)|label=ウィリアム8世|en|William VIII of Montpellier}} |
||
|11= 11. Eudokia Komnene |
|11= 11. Eudokia Komnene |
||
|12= 12. ハンガリー王[[ベーラ3世]] |
|12= 12. ハンガリー王[[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]] |
||
|13= 13. Agnes of Antioch |
|13= 13. Agnes of Antioch |
||
|14= 14. [[ピエール2世・ド・クルトネー]] |
|14= 14. [[ピエール2世・ド・クルトネー]] |
2021年5月24日 (月) 21:11時点における版
ペドロ3世 Pedro III el Grande | |
---|---|
アラゴン王 バレンシア王 シチリア王(ピエトロ1世) | |
| |
在位 |
アラゴン王:1276年7月27日 - 1285年11月11日 シチリア王:1282年 - 1285年 |
戴冠式 | 1276年11月(サラゴサ) |
全名 |
スペイン語: Pedro III el Grande アラゴン語: Pero lo Gran カタルーニャ語: Pere el Gran |
出生 |
1239年頃 バレンシア王国、バレンシア |
死去 |
1285年11月11日 カタルーニャ君主国、ビラフランカ・ダル・パナデス |
埋葬 | カタルーニャ君主国、アイグアムルシア、サンテス・クレウス修道院 |
配偶者 | コンスタンサ・デ・シシリア |
子女 |
アルフォンソ3世 ハイメ2世 イサベル フェデリーコ2世 ビオランテ |
家名 | バルセロナ家 |
王朝 | バルセロナ(アラゴン)朝 |
父親 | ハイメ1世 |
母親 | ビオランテ・デ・ウングリア |
ペドロ3世(スペイン語: Pedro III、1239年 - 1285年11月11日[1])は、アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯(在位:1276年 - 1285年)。シチリア王(在位:1282年 - 1285年)。
ペドロ3世とはスペイン語の呼び名であり、アラゴン王としてはペーロ3世(アラゴン語: Pero III、バレンシア王としてはペーラ3世(カタルーニャ語: Pere III、バルセロナ伯としてはペーラ2世、シチリア王としてはピエトロ1世(イタリア語: Pietro I)。大王(アラゴン語: lo Gran、カタルーニャ語: el Gran、イタリア語: il Grande、スペイン語: el Grande)と呼ばれる。ハイメ1世(征服王)と2番目の王妃であるハンガリー王アンドラーシュ2世の王女ヨラーン(ビオランテ)の息子。アラゴン王国最大の君主のひとりである。
経歴
青年期と王位継承
ペドロはアラゴン王ハイメ1世(征服王)と2番目の妻ビオランテ・デ・ウングリアの長男である。弟にハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)がおり、姉妹にビオランテ(後のカスティーリャ王妃)やイサベル(後のフランス王妃)がいる。
1260年またはそれ以前に、ペドロはニカイア帝国の皇帝テオドロス2世ラスカリスの末娘エウドクシア・ラスカリスと婚約した。しかし1261年にはエウドクシアの兄弟が皇帝位を失ったため婚約は解消され、エウドクシアはペドロではなくテンダ伯と結婚している。1262年6月13日、ペドロはシチリア王マンフレーディの娘でありシチリア王国の相続人であるコンスタンサと結婚した。青年期には父ハイメ1世がムーア人に対するレコンキスタの過程で行った数々の戦争で多くの軍事経験を得た[2]。
1276年に父王ハイメ1世が死去すると、アラゴン=カタルーニャ連合王国の領土はアラゴンとカタルーニャに分割された。長男であるペドロにはアラゴンやバレンシア、カタルーニャの大部分が与えられた。一方で次男のハイメには、バレアレス諸島(やがてマヨルカ王国)、北カタルーニャ(ルシヨン郡、コンフラン郡、カジール、モンペリエ伯領のラングドック地方)が与えられている。1276年11月、ペドロとコンスタンスはアラゴン連合王国の首都であるサラゴサで戴冠した。この式典でペドロは祖父のペドロ2世がローマ教皇に対して負っていたあらゆる封建的義務を放棄した。
国内での戦争
ウルジェイ郡では土地継承に関する問題が起こっていた。1268年にウルジェイ伯アルバロが死去した際、彼の2人の妻の出身家(ベアルン伯ペドロ・ムンカーダ、フォア伯ルジェ=ベルナルド2世)が相続に対する長い戦いを開始した。ウルジェイ郡のかなりの土地は父王ハイメ1世が差し押さえており、1276年の戴冠時にペドロに継承されている。1278年にはウルジェイ伯アルバロの長男であるアルマンゴル10世がペドロ3世と協定を結び、失っていた土地のほとんどを回復し、その対価としてアルマンゴル10世はペドロ3世を領主として認識した[2]。
ペドロ3世のアラゴン王としての初任務は、父王の生前から続けられていたバレンシア領土の鎮圧だった。しかし、カルドナ子爵が主導した反乱がカタルーニャでも起こり、フォア伯ルジェ=ベルナルド3世、パリャルス・スビラー伯アルノルド・ルジェ1世、ウルジェイ伯アルマンゴル10世がこの反乱を扇動した[2]。父王は彼らとの商取引を盛んに行ったが、ペドロ3世は彼らの特権を承認しなかったため、抵抗勢力はペドロ3世への憎しみを募らせていき、彼らは「議会」を招集しないことでペドロ3世に反抗していた。1280年にはバラゲールを1か月間包囲し、ルジェ=ベルナルド3世が率いる反乱軍を破った。反乱の指導者の大半は1281年までリェイダで投獄されたが、ルジェ=ベルナルド3世は1284年まで投獄されている。
国外での戦争
ハイメ1世の治世にアラゴン連合王国の傘下に入っていたチュニジアのハフス朝は、1277年に第2代君主のアブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィルが死去すると、アラゴン連合王国の宗主権のくびきを投げた[3]。ペドロ3世はチュニジアの宗主権を再取得するために、1280年にクンラッド・ダ・リャンサが率いる最初の遠征隊をチュニスに送った[2]。1281年にはコンスタンティーヌの統治者の代わりにチュニジアを侵略するために、ペドロ3世自身が140隻の艦隊と15,000人の兵士を引き連れてチュニジアに向けて出港し[4]、艦隊は1282年にコロから上陸した。
1282年3月30日にイタリアのシチリア王国でシチリアの晩祷事件が起こると、アラゴン連合王国の軍隊はシチリア大使から、フランス王家の傍系であるアンジュー家のシチリア王カルロ1世(アンジュー伯シャルル1世)の王座を奪うことを要請された。ペドロ3世自身もプッリャ公ロベルト・イル・グイスカルドの娘マファルダの血を引く相続人であった。1127年のプッリャ公グリエルモ2世の死去でプッリャ公爵家が途絶えると、一見するとマファルダの相続人がロベルト・イル・グイスカルドとその妻シジェルガイタの「正当な」相続人となった。このようにペドロ3世は南イタリアのオートヴィル朝(ノルマン朝)の潜在的な王位請求者であった。より直接的には、ペドロ3世の王妃コンスタンサ・デ・シシリアがシチリア王マンフレーディの王女であり、そのためにペドロ3世はマンフレーディの相続人であった。以後の500年間、アラゴン王家とその相続人は、シチリア王国とその後継王国に対して執拗に王位継承の追及を行った。
シチリアではペドロ3世の代わりにイタリア人医師ジョヴァンニ・ダ・プローチダが行動した。1268年、カルロ1世がタグリアコッツォの戦いでマンフレーディの甥コッラディーノに勝利すると、ジョヴァンニはいったんイタリアからアラゴンに逃げたが、再度シチリアまで旅し、ミカエル8世パレオロゴスの支援を得るためコンスタンティノープルを訪れた[5]。ミカエル8世はローマ教皇の承認のないアラゴン王国の救済を拒否したため、ジョヴァンニはローマまで航海して、南イタリア(メッツォジョルノ)でのカルロ1世の勢力拡大を恐れていた教皇ニコラウス3世の同意を得た。その後ジョヴァンニはイベリア半島のバルセロナに引き返したが、その間にニコラウス3世が死去してマルティヌス4世に代替わりした。マルティヌス4世はフランス人であり、カルロ1世の忠実な同盟者だったため、紛争の発生を予感させた。
アルコイルでパレルモの住民からの使節を受けると、ペドロ3世は1282年8月30日にトラーパニからシチリア島に上陸し[5]、9月4日にはパレルモでこの地の王を宣言した。カルロ1世はメッシーナ海峡を渡ってイタリア本土に逃げることを余儀なくされ、そこでナポリ王国を建てた。カルロ1世と親密な教皇マルティヌス4世はペドロ3世を破門し、さらにはペドロ3世に60,000枚の金貨を提供して11月18日にシチリア島を侵略した東ローマ皇帝ミカエル8世をも破門した[6]。
シチリア島を奪っただけではなく、1283年2月時点でペドロ3世はイタリア半島最南部のカラブリアの海岸線の大半を奪っていた。絶望的な状況だったカルロ1世はペドロ3世に手紙を送り、両者が個人的な決闘を行って紛争を解決することを求めた。ペドロ3世はこれを受け入れ、カルロ1世はフランスに戻って決闘を準備した。両国王はそれぞれ6人の騎士を選び、6月1日にボルドーで決闘を行うことを決めた。それぞれの側には100人の騎士が付き、教皇の忠告によってイングランド王エドワード1世が判定役に推挙されたが、エドワード1世は決闘への参加を拒否した。ペドロ3世はフランス人の待ち伏せを避けるために変装してフランスに入った。言うまでもないことではあるが、ペドロ3世とカルロ1世との決闘は行われず、ペドロ3世は非常な混乱状態にあったアラゴンに引き返した[7]。ペドロ3世がイベリア半島に戻った一方で、ルッジェーロ・ディ・ラウリーア将軍が地中海地域の大混乱を制圧する役割を果たした。ルッジェーロ将軍は何度も艦隊を率いてカルロ1世を攻め、アラゴン連合王国のためにマルタ島を征服した。
国内情勢不安
フランスがアラゴン侵略を準備していた時、アラゴン連合王国の国内情勢は不安定だった。ペドロ3世は反抗的な貴族のフアン・ヌニェス・ダ・ララからアルバラシンを奪い、カスティーリャ王サンチョ4世と同盟を結び直した。フランス軍の正面からのアラゴン連合王国侵入を妨げようと、フランス王フィリップ3世(大胆王)の息子のナバラ王フェリペ1世(端麗王)が統治するナバラ王国のトゥデラを攻撃した。1283年にはタラゴナとサラゴサで議会を開催したが、反王党派のアラゴン連合に「一般特権」を与えることを余儀なくされた[7]。
1283年には弟のマヨルカ王ジャウメ2世がフランス王国に寝返り、モンペリエの宗主権が認められた。ジャウメ2世はフランス軍に対してルシヨン地方を通じてのカタルーニャへの自由な通行権を認め、さらにはバレアレス諸島への通行も認めた。10月、ペドロ3世はフランス軍の侵略に備えたカタルーニャ防御の準備を開始した。1284年、教皇マルティヌス4世はアラゴン連合王国をヴァロワ伯シャルル(フランス王子でカルロ1世の大甥)に与え、教皇はシャルルの代わりにアラゴンを征服するための戦争を認可した。
アラゴン十字軍
1284年、フランス王フィリップ3世とヴァロワ伯シャルルが率いるフランス軍が初めてルシヨン地方に進軍した(アラゴン十字軍)。この軍隊は16,000の騎兵、17,000の石弓兵、10万の歩兵からなっており、南フランスの港に100隻の船が停泊していた[8]。フランス軍はマヨルカ王ジャウメ2世の支援を受けていたものの、マヨルカ王国の地元住民はフランス軍に反発した。エルヌの町はルシヨン伯ヌーニョ・サンチェスの私生児を中心として勇敢にも守りを固めたが、結局はフランス王室の力が勝って大聖堂を焼いた。
1285年6月以降、フィリップ3世はジローナに入城する前に町を包囲した。激しい抵抗に遭ったものの、ジローナもフランス軍の前に陥落した。実際には王冠がなかったものの、シャルルはジローナでヴァロワ伯の戴冠式を行っている。9月4日にはフランス軍とシチリア王国・アラゴン王国連合軍の間でフルミゲスの戦いが行われたが、ルッジェーロ・ディ・ラウリーア将軍が率いる連合軍がフランス軍に勝利した。これに加えて、フランス軍の野営地は赤痢の流行にも苦しめられ、フィリップ3世自身も赤痢にかかった。ナバラ王フェリペ1世はフランス王国の相続人であり、アラゴン王家が自国領やピレネー山脈を通って自由に通行できることを見返りに、ナバラ王国を攻撃しないようペドロ3世と交渉した。9月30日から10月1日にはパニサルス峠の戦いでアラゴン軍がフランス軍に勝利した。フィリップ1世は10月5日、マヨルカ王国のイベリア半島領土の首都であるペルピニャンで病死し、ナルボンヌに埋葬された。ジャウメ2世自身はペドロ3世に対する恐れから降伏し、兄であるペドロ3世に仕えると宣言した。
死去
1285年11月11日、ペドロ3世はビラフランカ・ダル・パナデスで病死した[1]。死因は不明である[1]。宿敵フランス王フィリップ3世が10月5日に死去してからわずか1か月後のことであり、同年にはシチリア王/ナポリ王カルロ1世や教皇マルティヌス4世も死去している。ペドロ3世はアイグアムルシアのサンテス・クレウス修道院に埋葬された[9]。ペドロ3世の死後、アラゴン王位は長男アルフォンソ3世が、シチリア王位は次男ハイメ(イタリア語名ジャコモ)が継いだ。また三男フェデリーコは後にシチリア摂政を経て、アラゴン王位についたハイメに代わってシチリア王となった。
文化活動
ペドロ3世は父ハイメ1世と同じく芸術や文学の庇護者であったが、彼は父親が愛した散文ではなく韻文を好んだ。ペドロ3世自身がトルバドゥール(叙情詩歌人)であり、2つのシルヴェンテスを書き遺している。
ダンテ・アリギエーリの『神曲』には、ダンテが煉獄の門の外でペドロ3世とシャルル1世が声を揃えて歌っているところを見る場面がある。
子女
王妃コンスタンサ・デ・シシリアとの間に4男2女が生まれた。父ハイメ1世と同様に、ペドロ3世の死後には王国が息子たちに分割された。長男アルフォンソ(後のアラゴン王アルフォンソ3世)にはアラゴン=カタルーニャ連合王国を、次男ハイメ(後のアラゴン王ハイメ2世/シチリア王ジャコモ1世)にはシチリア王国を与えた。三男フェデリーコ(後のフェデリーコ2世)はシチリア王国の摂政となり、やがて兄ハイメの後を継いでシチリア王となっている。末子であり非嫡出児であるペドロには領土を与えなかった。ペドロはポルトガルのサンタレンの統治者であるソエイロ・メンデス・ペティテの娘コンスタンサ・メンデス・ダ・シルヴァと結婚した。
ペドロ3世には2人の娘がいた。アルフォンソやハイメの同母妹、ペドロの異母姉であるイサベルは、ポルトガル王ディニス1世と結婚した。同じくアルフォンソやハイメの同母妹であるビオランテ(ヨランダ)はナポリ王ロベルト1世と結婚した。
- アルフォンソ3世(1265年 - 1291年) - アラゴン王
- ハイメ2世(1267年 - 1327年) - シチリア王、後にアラゴン王
- イサベル(1271年 - 1336年) - ポルトガル王ディニス1世と結婚
- フェデリーコ2世(1272年 - 1337年) - シチリア摂政、後にシチリア王
- ビオランテ(1273年 - 1302年) - ナポリ王ロベルトと結婚
- ペドロ(1275年 - 1296年)
家系図
ペドロ3世 (アラゴン王)の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
脚注
- ^ a b c Cabrera Sánchez 2011, pp. 112–113.
- ^ a b c d Chaytor 1933, p. 97.
- ^ Chaytor 1933, p. 101.
- ^ Chaytor 1933, p. 102.
- ^ a b Chaytor 1933, p. 103.
- ^ Harris 2003, p. 180.
- ^ a b Harris 2003, p. 104.
- ^ Harris 2003, p. 106.
- ^ El País, news on discovery of mummy of Peter III at Monastery of Santes Creus
文献
- Cabrera Sánchez, Margarita (2011年). “La muerte de los miembros de la realeza hispánica medieval a través de los testimonios historiográficos” (スペイン語). En la España medieval (Madrid: Universidad Complutense) (34): pp. 97–132. ISSN 0214-3038
- Chaytor, H.J. (1933). A History of Aragón and Catalonia. London: Methuen. ISBN 9780404014797
- Harris, Jonathan (2003). Byzantium and the Crusades. London: Hambledon. ISBN 9781852852986
- Runciman, Steven (1958). The Sicilian Vespers; a history of the Mediterranean world in the later thirteenth century. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-43774-1
|
|