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2021年5月24日 (月) 21:19時点における版

ドイツ騎士団
14世紀の紋章
活動期間 c. 1190 – 現在
忠誠 神聖ローマ皇帝(1190-1806)、教皇
兵科 カトリック修道会
(1192–1929騎士修道会)
本部 アッコ(現イスラエル北部)(1192–1291)
ヴェネツィア(1291–1309)
マルボルク (1309–1466)
ケーニヒスベルク(1466–1525)
バート・メルゲントハイム(1525–1809)
ウィーン(1809–現在)
渾名 Teutonic Knights, German Order
服飾 白いマントに黒い十字架
指揮
初代 総長 ハインリヒ・ワルポット・バッセンハイム
総長 Bruno Platter[1]
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ドイツ騎士団(ドイツきしだん、: Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会: Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorumドイツ語: Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。

12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者を護衛し病院を設立する目的で設立された。メンバーは、一般的にはチュートン騎士として知られ、自発的に報酬を目当てに、中世には聖地やバルト海地域で十字軍騎士修道会として活動した。プロイセンなどを統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。

歴史

年表

騎士団国家の地図(1260年)
騎士団国家の地図(1410年)
騎士団国家の地図(1466年)

ドイツ騎士団の成り立ち

バート・メルゲントハイムのドイツ騎士団城

1143年、教皇ケレスティヌス2世ホスピタル騎士団にイェルサレムのドイツ人病院の運営を引き受けさせた[2]。この病院は、年代記作家Jean d’Ypresによれば、現地語もラテン語も話せない(patriæ linguam ignorantibus atque Latinam)数え切れないほどのドイツ人巡礼者と十字軍兵士を世話していたという。しかしながら公的にはホスピタル騎士団の設立は、教皇がdomus Theutonicorum(ドイツ人たちの家)の院長と兄弟たちに常にドイツ人自身であれと命じた。そのためドイツ人の率いる宗教施設という伝統は12世紀にイェルサレム王国において発展することが出来た[3]

1187年のイェルサレム失陥後、リューベックブレーメンの商人たちが、1190年アッコの陥落英語版の時期に野戦病院を設立するというアイディアを思いついた。この野戦病院が騎士団の中核となった。ケレスティヌス2世は1192年にアウグスティヌスの戒則を聖職者たちに与えることで、この病院を承認した。しかし、テンプル騎士団をモデルとして、1198年、軍事的な修道会へと変化し、修道会のリーダーは総長(magister hospitalis)と呼ばれるようになった。そして、教皇より、イスラム教徒のサラセン人よりイェルサレムをキリスト教徒のもとに奪還、保持し、聖地を防衛するようにとの命令を受けた。ヘルマン・フォン・ザルツァ総長の時期(1209-1239)、修道会は巡礼者を保護する兄弟団から軍事的な騎士団へと変化した。

騎士修道会はアッコンで設立され、騎士たちはアッコン北東のMontfort(Starkenberg)を1120年に獲得した。この城は、イェルサレムと地中海の間のルートを守るもので、1229年に総長の所在地となった。1271年にMontfortがムスリムの手に落ちると、騎士団はアッコンに戻った。また騎士団は小アルメニアのAmoudaの城も保持していた。騎士団は寄進によって神聖ローマ帝国(特に現在のドイツやイタリア)、フランク人支配下のギリシア(フランコクラティア)、イェルサレム王国に土地を得た。

皇帝フリードリヒ2世は親しい友人であったヘルマン・フォン・ザルツァに帝国諸侯の位を与えた。これによって総長は自分よりも上位の諸侯たちと同等に交渉できるようになった。フリードリヒは1225年にイェルサレム王に戴冠したが、その際ドイツ騎士たちは聖墳墓教会において彼を護衛するという任に就いた。ザルツァはフランス語とドイツ語で皇帝の声明を読み上げた。とはいえ、ドイツ騎士たちはウトラメールでテンプル騎士団やホスピタル騎士団のような影響力を持つことはなかった。

古プロイセン

第一次世界大戦前のケーニヒスベルク城、東プロイセンの中心都市
マルボルクのドイツ騎士団の城

1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて[4]、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年クルシュヴィッツ条約に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認め騎士団はプロイセンの領有権を得た。

教皇とフリードリヒの両方から承認を得た騎士団は、1230年からプロイセンをキリスト教化するための長い軍事活動を開始する。

騎士団領プロイセンは20の大管区に分割されており、各地の修道院を拠点に管区長が選挙で選ばれた総長の指示に従って統治するという中央集権的で能率のよいシステムに基いて運営されていた。先住プロイセン人は同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かう。騎士団員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会し人材は豊富となり、フランケン地方からドイツ農民を入植させた。それらの収益を基にし14世紀には騎士団領は繁栄の頂点にあった。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルクハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。


1226年から16世紀初頭までプロイセンの異教徒改宗と植民活動に従事した。

異教徒の地

ドイツ騎士団を大きく飛躍させた四代目総長ヘルマン・フォン・ザルツァ


ハンガリーアンドラーシュ2世クマン人の襲撃に備えて、1211年にドイツ騎士団にトランシルヴァニアプルツェンラント英語版を所領として与える。騎士団は植民活動とクマン人との戦闘に従事したが、ハンガリー王の意図から外れて独立した領邦国家を形成し始める[5]。この事態に警戒感を募らせたハンガリー王によって、国外に追放されていたところを、ポーランドのマゾフシェ公コンラト1世によって、プロイセン人対策のため、ヘウムノ地方に招致される。

神聖ローマ帝国フリードリヒ2世と交渉して、1226年のリミニ金印勅書で騎士団にクールラントプロイセンラントの領邦主権者として法的地位を認められた。これは異教徒先住プロイセン人(独:Baltische Pruzzen, 英:Baltic Prussians)の土地を征服、領有する権利を保証するものである。

モンゴルのヨーロッパ侵攻英語版は全ヨーロッパを震撼させた。グレゴリウス9世教皇は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している[6]。後年プロイセンのドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。1241年にモンゴル軍が侵入し、ワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い)でポーランド・ドイツ騎士団連合軍を破ったことは、東欧史上の大事件であった。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。

騎士団は1237年には、ラトヴィアの征服事業を進めていたが、1236年にリトアニアのザウレ(シャウレイ)にてリトアニア軍に惨敗を喫し、弱体化したリヴォニア帯剣騎士団を吸収した。 エストニアの領有をめぐってデンマークと争い、騎士団は土着のエストニア人をキリスト教に改宗させ領主資族となった。 北方十字軍時代、正教国のノヴゴロド共和国プスコフ公国1242年チュード湖の氷上の戦い英語版で騎士団連合軍はアレクサンドル・ネフスキー率いる軍に破れる。

騎士団は1283年までの50年間、徐々に領土を広げ、原住民に異教の信仰をキリスト教に改宗した。騎士団国にはドイツ人農民が入植しドイツ式の農村が建設された。プロイセンの東隣、ラトヴィアの南隣のリトアニアではペイガニズムを奉じるリトアニア人の原リトアニアと東方正教会を奉じる東スラヴ人ルテニアの国家連合であるリトアニア大公国が出現し、ドイツ騎士団はこの異教徒の強国との間で恒常的な戦闘を続けることになる。

パイデ城、エストニア

1224年、騎士団は本拠地をマリーエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領として選挙君主制国家ないし宗教的共和国とも言える統治体制のドイツ騎士団国を築いた。騎士団国家は14世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西ヨーロッパに穀物を輸出し、経済的にハンザ同盟都市と深く結びついていた。

ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、エルビング(現エルブロンク)はドイツ騎士団の下で発展を遂げた貿易都市、トルンは騎士団が十三世紀から十五世紀にかけて大きく育てた町。いずれも大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えた。

対ポーランド・リトアニア

1225年マゾフシェ(マソヴィエン)公コンラート1世マゾヴィエツキに招かれ、バルト海南岸の異教徒からクールラントの防衛を担うよう要請された。

ポーランド北部地域(エルビングやダンツィヒ(現グダニスク))ではドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランドの庇護を望み騎士団と何世紀も抗争を繰り返した。騎士団に対抗するためリトアニア大公国の大公ヨガイラ(38歳)はキリスト教に改宗して、1386年12歳のポーランド女王と結婚する形で合同し(クレヴォの合同)、ヨガイラはウラディスラフ2世と称し、ヤギェウォ朝が成立した。

1410年、騎士団はタンネンベルクの戦いポーランド王国リトアニア大公国の連合軍に敗北、西プロイセンを失った。エルビングは公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、1440年にダンツィヒやエルビングなどの20都市と領地つき僧侶53人はダンツィヒを盟主としてプロイセン連合を組織した。1454-1466年の十三年戦争後、1466年第二次トルンの和約を経て、1569年は正式にポーランド王国に加盟し、王領プロシアにおける司祭の選定権をドイツ騎士団から剥奪したが、騎士団にはポーランド国会(セイム)で議席を提供し国政参政権を与えた。司祭の独自選定権の騎士団は拒否し、1467年司祭戦争英語版が勃発。1479年騎士団は敗戦した。7月15日ピョトルクフの講和英語: Treaty of Piotrków)がピョートルクフで、王国はニコラウス・フォン・チューンゲンをヴァルミア司教と認め、騎士団は服属となった。しかし、戦闘はその後も継続した(pl:Egzempcja Warmii)。

ヨーロッパのドイツ騎士団、1300年
ミンネザングのタンホイザー、チュートン騎士(マネッセ写本)

15世紀-19世紀

1407年、騎士団はプロイセンポメレリアジェマイティヤクールラントリヴォニアエストニアゴットランド島ヒーウマー島サーレマー島、Neumark(1402年にブランデンブルクが獲得)の領土を獲得した。

14世紀後半に入ると、騎士団の専権的支配に対抗した在地勢力や領主などがポーランド王国側となる。騎士団は神聖ローマ皇帝の権威をバックに、ポーランド北部クヤーヴィポモージェドブジュンマゾフシェに領土を拡大した。

15世紀、ドイツ騎士団は、ポーランド・リトアニア連合の抗戦に晒された。騎士団領の商業都市は騎士団からの独立自治権を得て、これらの自治都市の互助組織はプロイセン連合となった。1466年第二次トルニの和約により、首都マリーエンブルクの東部地域を失う。ケーニヒスベルク東プロイセンを失い、騎士団総長は封建関係を結ぶ臣下となった。プロイセン連合は解散した。

マテイコ画『プロイセンの臣従 』ジグムント1世に臣従の誓いを行うアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(アルブレヒト・ホーエンツォレルン)

1525年、ドイツ騎士団アルブレヒトと彼の兄弟たちが跪いて聖書に手をおき、ジグムント1世に臣従を誓う図。1882年の作品

1510年に総長に選ばれたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)は、ポーランド・ドイツ騎士団の戦争(1519–1521)英語版後の1523年ルター派に改宗した。アルブレヒトは1525年ポーランド王ジグムント1世に臣従の誓いをしてジグムントの臣下となり所領は失う、ホーエンツォレルン家を世襲の公とする世俗の領邦となりプロイセン公国となった。

プロイセン領土を失うが、神聖ローマ帝国とリヴォニアに領土はあった。

15世紀から20世紀初頭までの欧州でのオスマン帝国戦争英語版に従事中、ドイツ、オーストリアボヘミアからの騎士は、ハプスブルク君主国の傭兵を先導する戦場指揮となり戦った。1809年、ナポレオンは騎士団に解散を命じ、騎士団の軍事歴史は幕を閉じた。1810年までに、ティロルオーストリア以外の領土を失った。

現代のドイツ騎士団

ローマ・カトリックの修道会はナポレオンの関与できないオーストリアで継続した。1804年から1923年まではハプスブルク家の成員が総長となり、以後の総長はみな司祭が就任した。1929年、騎士団支部はローマ・カトリック修道会に改宗し、名も Deutscher Orden ("German Order") と変えた。1938年、アンシュルスの影響でドイツ国の圧力を受けたが、ローマ・カトリックの修道会はイタリアで救済され、1945年にドイツとオーストリアで再構成された。20世紀後半までにはチャリティー団体と医療施設になった。

現在カトリック支部は、約1000人のメンバー、ローマ・カトリック司祭が100人、200人の修道女と700人のアソシエイトがいる。オーストリア、チェコ、ドイツ、イタリア、スロバキア、スロベニアの6か所で構成されている。修道女は、主に病人と高齢者の世話をし、アソシエイトはオーストリア、ベルギー、チェコ、ドイツ、イタリアで活動している。

1350年頃のドイツ騎士団の管理構造

チュートン騎士団のマントに描かれた十字章(黒十字の原型)
 
 
 
 
 
 
Generalkapitel
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Ratsgebietiger
 
Hochmeister(騎士団総長)
 
Kanzlei des Hochmeisters
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Großkomtur (Magnus Commendator)
 
Ordensmarschall (Summus Marescalcus)
 
 
Großspittler (Summus Hospitalarius)
 
Ordenstressler (Summus Thesaurarius)
 
Ordenstrappier (Summus Trappearius)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Großschäffer (Marienburg)
 
 
Großschäffer (Königsberg)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Komtur (Preußen)
 
Komtur (Preußen)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Deutschmeister (Magister Germaniae)
 
 
 
 
 
 
 
Landmeister in Livland (Magister Livoniae)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Komtur (Livland)
 
Komtur (Livland)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Landkomtur
 
Landkomtur
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Komtur (in the Holy Empire)
 
Komtur (in the Holy Empire)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Hauskomtur
 
Pfleger
 
Vogt
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
KarwansherrTrappiererKellermeisterKüchenmeisterWachhauptmannGesindemeisterFischmeister

[7][8]

歴代ドイツ騎士団総長

騎士団総長の紋章
  1. ハインリヒ・ワルポット・バッセンハイム(1198年 - 1200年
  2. オットー・フォンケルペン(1200年 - 1209年
  3. ハインリヒ・バルト(1209年 - 1210年
  4. ヘルマン・フォン・ザルツァ1210年 - 1239年
  5. コンラート・フォン・テューリンゲン1239年 - 1240年
  6. ゲルハルト・フォン・マールベルク(1240年 - 1244年
  7. ハインリヒ・フォン・ホーエンローエ1244年 - 1249年
  8. グンター・フォン・テューリンゲン(1249年 - 1252年
  9. ボッホ・フォン・オステルナ(1252年 - 1256年
  10. アンノ・フォン・ザンガースハウゼン(1256年 - 1273年
  11. ハルトマン・フォン・ヘルドルンゲン(1273年 - 1283年
  12. ブルヒャルド・フォン・シュヴァンデン(1283年 - 1291年
  13. コンラート・フォン・フォイヒトヴァンゲン(1291年 - 1297年
  14. ゴットフリート・フォン・ホーエンローエ(1297年 - 1303年
  15. ジークフリート・フォン・フォイヒトヴァンゲン(1303年 - 1311年
  16. カール・フォン・トリアー(1311年 - 1324年
  17. ヴェルナー・フォン・オルセルン(1324年 - 1331年
  18. ルター・フォン・ブラウンシュヴァイク(1331年 - 1335年
  19. ディートリッヒ・フォン・アルテンブルク(1335年 - 1342年
  20. ルードルフ・ケーニヒ・フォン・ヴァイツァウ(1342年 - 1345年
  21. ハインリヒ・デューゼマー・フォン・アルフベルク(1345年 - 1352年
  22. ヴィンリッヒ・フォン・クニップローデ(1352年 - 1382年
  23. コンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタイン(1382年 - 1391年
  24. コンラート・フォン・ヴァレンロード(1391年 - 1393年
  25. コンラート・フォン・ユンギンゲン(1393年 - 1407年
  26. ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン(1407年 - 1410年
  27. ハインリヒ・フォン・プラウエン(1410年 - 1414年
  28. ミヒャエル・キュヒマイスター・フォン・シュテルンベルク(1414年 - 1422年
  29. パウル・フォン・ルスドルフ(1422年 - 1441年
  30. コンラート・フォン・エルリックスハウゼン(1441年 - 1450年
  31. ルートヴィッヒ・フォン・エルリックスハウゼン(1450年 - 1469年
  32. ハインリヒ・ロイス・フォン・プラウエン(1469年 - 1470年
  33. ハインリヒ・レフレ・フォン・リヒテンベルク(1470年 - 1477年
  34. マルチン・トルホゼス・フォン・ヴェッツハウゼン(1477年 - 1489年
  35. ヨーハン・フォン・ティーフェン(1489年 - 1498年
  36. フリードリヒ・レフレ・フォン・ザクセン(1498年 - 1511年
  37. アルプレヒト・フォン・ブランデンブルク1511年 - 1525年
    1. プロイセン公1525年 - 1568年
  38. ヴァルター・フォン・クロンベルク(1527年 - 1543年)
  39. ヴォルフガング・シュッツバール(1543年 - 1566年)
  40. ゲオルク・フント・フォン・ヴェンクハイム(1566年 - 1572年)
  41. ハインリヒ・フォン・ボーベンハウゼン(1572年 - 1590/95年)
  42. マクシミリアン・フォン・エスターライヒ(1590/95年 - 1618年)
  43. カール・フォン・エスターライヒ(1618年 - 1624年)
  44. ヨーハン・オイスタッハ・フォン・ヴェスターナッハ(1625年 - 1627年)
  45. ヨーハン・カスパール・フォン・シュターディオン(1627年 - 1641年)
  46. レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ(1641年 - 1662年)
  47. カール・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ(1662年 - 1664年)
  48. ヨーハン・カスパール・フォン・アンプリンゲン(1664年 - 1684年)
  49. ルートヴィヒ・アントン・フォン・デア・プファルツ(1684年 - 1694年)
  50. フランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツ(1694年 - 1732年)
  51. クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン(1732年 - 1761年)
  52. カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン(1761年 - 1780年)
  53. マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ(1780年 - 1801年)
  54. カール・フォン・エスターライヒ=テシェン(1801年 - 1804年)
  55. アントン・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ(1804年 - 1835年)
  56. マクシミリアン・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ=エステ(1835年 - 1863年)
  57. ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ(1863年 - 1894年)
  58. オイゲン・フォン・エスターライヒ(1894年 - 1923年)
  59. ノルベルト・クライン(1923年 - 1933年)
  60. パウル・ハイダー(1933年 - 1936年)
  61. ロベルト・シェルツキー(1936年 - 1948年)
  62. マリアン・トゥムラー(1948年 - 1970年)
  63. イルデフォンス・パウラー(1970年 - 1988年)
  64. アルノルト・オトマル・ヴィーラント(1988年 - 2000年)
  65. ブルーノ・プラッター(2000年 - 2018年 )
  66. フランク・ベイヤード(2018年 - )

参考文献

  • Jacques Ancel著、山本俊朗訳 『スラブとゲルマン・東欧民族抗争史』 弘文堂、1965年
  • 阿部謹也 『ドイツ中世後期の世界・ドイツ騎士修道会史の研究』 筑摩書房、2000年、ISBN 4-480-75160-2

脚注

  1. ^ The Grand Masters”. Teutonic Order, Order of the Teutonic Knights of St. Mary's Hospital in Jerusalem. 2011年1月30日閲覧。 “Abbot Dr. Bruno Platter 2000–”
  2. ^ Monumenta Germaniae Historica, SS Bd. 25, S. 796
  3. ^ Kurt Forstreuter. "Der Deutsche Orden am Mittelmeer". Quellen und Studien zur Geschichte des Deutschen Ordens, Bd II. Bonn 1967, S. 12f.
  4. ^ 東欧史、山川出版社, 1977 p183
  5. ^ 山内進『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社選書メチエ, 講談社, 1997年9月)、154-156頁
  6. ^ 伝統思想と民衆、 河原宏 成文堂, 1987. 174 ページ
  7. ^ Dieter Zimmerling: Der Deutsche Orden, S. 166 ff.
  8. ^ Der Deutschordensstaat

関連項目

外部リンク