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[[981年]]に、[[ウラジーミル1世|ヴラジーミル聖公]]によって[[キエフ大公国]]に編入された。[[1087年]]には、[[ハールィチ公国]]が置かれた。[[1200年]]には、[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]](ハールィチ・ヴォロドィームィル公国)領となった。[[11世紀]]には、[[ポーランド王国]]の影響力が及ぶようになった。 |
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キエフ大公国の崩壊後、[[ルーシ (地名)|ルーシ]]の地には[[リューリク朝]]の血縁関係による多くの[[公国]]が乱立し、覇権を争った。そうした中、ハールィチ・ヴォルィーニ公国は[[ドニエストル川]]沿いの都市[[ハールィチ]]を中心に繁栄した。その領土となった一帯を指す「ガリツィア」という地名は、[[ハンガリー]]王[[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|エンドレ2世]]によって使用され始めた[[ラテン語|ラテン名]]であるといわれる。[[13世紀]]当時、ハールィチ・ヴォルィーニ公国はハンガリーの影響下にあった。その後、中心都市はヘルム、[[リヴィウ]]へと移っていき、ハールィチは廃れていった。 |
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=== ポーランド・リトアニア時代 === |
=== ポーランド・リトアニア時代 === |
2021年5月24日 (月) 21:20時点における版
ガリツィア | |
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ヨーロッパ(濃い灰色)のガリツィア(緑色) の場所 | |
1914年のガリツィア・ロドメリア王国の地図, |
ガリツィア | ||
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ガリツィアの紋章 | ||
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ガリツィアの地図(20世紀)
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リヴィウの中心部 | ||
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ガリツィアの農村教会 | ||
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オレシコ城 |
ガリツィア(ウクライナ語: Галичина、ハルィチナー[1])は、現在のウクライナ南西部を中心とした地域である。18世紀末からポーランド最南部も含まれることもある。住民は主にウクライナ人で、西部にはポーランド人も住んでいる。紅ルーシとも呼ばれた。現代では、東欧に跨る地域となっている。
「ガリツィア」という名称は、ラテン語化されたウクライナ語の「ハルィチナー」という名前に由来する。「ハルィチナー」は「ハールィチの国」または「ハールィチの土地」といった意味[2]で、西ウクライナにあるハールィチという町名を起源としている。
概要
キエフ大公国時代
981年に、ヴラジーミル聖公によってキエフ大公国に編入された。1087年には、ハールィチ公国が置かれた。1200年には、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ハールィチ・ヴォロドィームィル公国)領となった。11世紀には、ポーランド王国の影響力が及ぶようになった。
キエフ大公国の崩壊後、ルーシの地にはリューリク朝の血縁関係による多くの公国が乱立し、覇権を争った。そうした中、ハールィチ・ヴォルィーニ公国はドニエストル川沿いの都市ハールィチを中心に繁栄した。その領土となった一帯を指す「ガリツィア」という地名は、ハンガリー王エンドレ2世によって使用され始めたラテン名であるといわれる。13世紀当時、ハールィチ・ヴォルィーニ公国はハンガリーの影響下にあった。その後、中心都市はヘルム、リヴィウへと移っていき、ハールィチは廃れていった。
ポーランド・リトアニア時代
ハールィチ・ヴォルィーニ公国は最盛期にはルテニア・ウクライナ随一の勢力を誇ったが、ヴラジーミル大公国やリトアニア大公国など他国との競合に敗れ滅亡した。1349年のハールィチ・ヴォルィーニ戦争では、カジミェシュ3世率いるポーランド王国にガリツィアとハールィチは共に編入され、リトアニアがヴォルィーニを獲得した。
その後、ポーランド・リトアニア共和国に領有されるようになった。これによりこの地域は政治情勢が安定、300年以上にわたる繁栄の時代を迎えた。
17世紀半ばに入ると、(主に気候変動による不作と推定される原因で)この地域の経済状態が悪化、農地の寡占化が進み、大地主と小地主の間に大規模な土地争いが始まる。1648年と1655年には、リヴィウがウクライナ・コサックのヘーチマン、ボフダン・フメリニツキーによって攻撃を受けた。その後、ポーランド・リトアニア連合の勢力は目に見えて衰え始めた。
オーストリア帝国時代
1772年には第1回ポーランド分割が行われ、ガリツィアはオーストリア帝国領ガリツィア・ロドメリア王国になった。1848年5月2日には、ガリツィアにおける最初のウクライナの政治組織ルーシ・ラーダが置かれた。1867年には、オーストリアはハンガリーと連合し、オーストリア・ハンガリー帝国となった。これ以降、かつてハンガリーの支配下に置かれた経緯のあるガリツィアに対し、ハンガリーは一定の影響力を行使するようになった。
第一次世界大戦
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、当初ロシア軍が侵攻してレンベルクなどを占領したが(ロシアの東ガリツィア占領 (1914年–1915年))、その後独墺軍が奪回した。1916年のブルシーロフ攻勢で再度ロシア軍が占領したが同盟側の攻勢で奪回、ロシアではロシア革命が勃発し、1918年のブレスト=リトフスク条約により東部戦線は終結した。
現代へ
第一次世界大戦後の1918年に西部は独立したポーランド共和国の領土とされた(タルノプジェク共和国)。一方、東部ではウクライナ人勢力により西ウクライナ人民共和国の独立が宣言された。ポーランドは同国に侵攻し、軍事力のもとに屈服させた。その後、赤軍勢力によるガリツィア・ソビエト社会主義共和国が建国されたが、赤軍はポーランド・ソビエト戦争に敗れ、1923年までにガリツィア全域がポーランド領となった。これにより、ポーランドはかつてのような大きな国土を領有するようになった。
第二次世界大戦前、ポーランドは分割され西ウクライナはハンガリー、ルーマニア、そしてソ連によって支配を受けるようになった。戦後は西ウクライナは一括してソ連領となり、ガリツィアもウクライナ・ソビエト社会主義共和国に編入された。ソ連の崩壊後は、独立したウクライナの領土となって今に至っている。
紋章
(1) は13世紀初頭の最も古いとされるガリツィアの地章である。古今のウクライナ語では「ハルィチナー」と「ハルカ」(ニシコクマルガラス)の発音が類似しているので、この鳥を地章のモチーフにしたといわれる。(2) はハールィチ・ヴォルィーニ大公国の国章である。14世紀にはガリツィアの首都はハールィチからリヴィヴに遷都された。ウクライナ語ではリヴィヴは「レーヴの町」(ライオンの町)という意味で、ガリツィアの地章はカラスからライオンに変わったと思われる。19世紀のガリツィアは「ガリツィア・ロドメリア(ハールィチ・ヴォルィーニ)の王国」としてオーストリア帝国の一部となり、(3) の新しい「王国章」をもらった。中世時代のハルィチナーの「カラス」と、ポーランドの最南部の地章、「三つの冠」をあわせて創った紋章である。現在ウクライナのリヴィウ州の (4) の州章は、若干変更された中世時代のハルィチナーの国章である。
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(1)
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(2)
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(3)
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(4)
主要河川
現代の主要都市
周辺の歴史的地域
ガリツィアに因むもの
- ハルィチナー - ナチス・ドイツ時代にウクライナ人によって組織された武装親衛隊である第14SS武装擲弾兵師団「第1ウクライナ」の別称。
- BG-55 ハルィチナー - ウクライナ国家国境庁の保有した海上警備艦。
- ハルィチナー - ウクライナ海軍のミサイル巡洋艦。
脚注
参考文献
- 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社〈新版世界各国史20〉、1998年。ISBN 9784634415003。
- 野村真理『ガリツィアのユダヤ人: ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、2008年。ISBN 9784409510605。
関連項目
- ウクライナの歴史
- ポーランドの歴史
- ハプスブルク君主国
- ユダヤ自治州
- 全ウクライナ連合「自由」(スヴァボーダ)