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「ホノリウス3世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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[[ローマ]]貴族の家系に生まれた。[[1188年]]に[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]の[[カノン (キリスト教)|律修司祭]]に就任、[[1193年]]に[[助祭枢機卿]]に任命された。[[1197年]]には[[シチリア王国|シチリア]]王フェデリーコ1世(後の[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]])の家庭教師も務めた。[[1200年]]、[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]によって[[司祭枢機卿]]に昇格、1216年のインノケンティウス3世の没後の[[コンクラーヴェ]]で教皇に選ばれた。
[[ローマ]]貴族の家系に生まれた。[[1188年]]に[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]の[[カノン (キリスト教)|律修司祭]]に就任、[[1193年]]に[[助祭枢機卿]]に任命された。[[1197年]]には[[シチリア王国|シチリア]]王フェデリーコ1世(後の[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]])の家庭教師も務めた。[[1200年]]、[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]によって[[司祭枢機卿]]に昇格、1216年のインノケンティウス3世の没後の[[コンクラーヴェ]]で教皇に選ばれた。


教皇就任後は[[十字軍]]の結成に力を尽くし、フリードリヒ2世に十字軍の参加を約束させたが、日付を先延ばしにして約束を守ろうとはしなかった。他の王侯貴族も同じく教皇の呼びかけに答えず、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[アンドラーシュ2世]]と[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]ら[[フランス王国|フランス]]・ドイツ諸侯が結成した[[第5回十字軍]]が[[1217年]]に出発、[[ダミエッタ]]を占領したが、後から参戦した教皇使節ペラギウスと諸侯との対立などで失敗に終わった。
教皇就任後は[[十字軍]]の結成に力を尽くし、フリードリヒ2世に十字軍の参加を約束させたが、日付を先延ばしにして約束を守ろうとはしなかった。他の王侯貴族も同じく教皇の呼びかけに答えず、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ2世]]と[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]ら[[フランス王国|フランス]]・ドイツ諸侯が結成した[[第5回十字軍]]が[[1217年]]に出発、[[ダミエッタ]]を占領したが、後から参戦した教皇使節ペラギウスと諸侯との対立などで失敗に終わった。


ホノリウス3世はフリードリヒ2世を次の十字軍に参加させるべく[[破門]]をちらつかせたため、[[1227年]]にフリードリヒ2世は[[第6回十字軍]]を率いることにしたが、ホノリウス3世は出発前の3月18日に死去。後継者の[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は強硬派であり、十字軍の遅延を理由にフリードリヒ2世を破門したため、皇帝と教皇の関係は悪化、[[イタリア政策]]を巡って両者は対立していくことになる。
ホノリウス3世はフリードリヒ2世を次の十字軍に参加させるべく[[破門]]をちらつかせたため、[[1227年]]にフリードリヒ2世は[[第6回十字軍]]を率いることにしたが、ホノリウス3世は出発前の3月18日に死去。後継者の[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は強硬派であり、十字軍の遅延を理由にフリードリヒ2世を破門したため、皇帝と教皇の関係は悪化、[[イタリア政策]]を巡って両者は対立していくことになる。

2021年5月24日 (月) 21:23時点における版

ホノリウス3世
第177代 ローマ教皇
教皇就任 1216年7月18日
教皇離任 1227年3月18日
先代 インノケンティウス3世
次代 グレゴリウス9世
個人情報
出生 1148年
教皇領ローマ
死去 1227年3月18日
教皇領、 ローマ
その他のホノリウス (曖昧さ回避)
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ホノリウス3世(Honorius III, 1148年 - 1227年3月18日)はローマ教皇(在位:1216年 - 1227年)。出生名チェンツィオ・サヴェッリ(Cencio Savelli)。

ローマ貴族の家系に生まれた。1188年サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂律修司祭に就任、1193年助祭枢機卿に任命された。1197年にはシチリア王フェデリーコ1世(後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)の家庭教師も務めた。1200年インノケンティウス3世によって司祭枢機卿に昇格、1216年のインノケンティウス3世の没後のコンクラーヴェで教皇に選ばれた。

教皇就任後は十字軍の結成に力を尽くし、フリードリヒ2世に十字軍の参加を約束させたが、日付を先延ばしにして約束を守ろうとはしなかった。他の王侯貴族も同じく教皇の呼びかけに答えず、ハンガリーアンドラーシュ2世ジャン・ド・ブリエンヌフランス・ドイツ諸侯が結成した第5回十字軍1217年に出発、ダミエッタを占領したが、後から参戦した教皇使節ペラギウスと諸侯との対立などで失敗に終わった。

ホノリウス3世はフリードリヒ2世を次の十字軍に参加させるべく破門をちらつかせたため、1227年にフリードリヒ2世は第6回十字軍を率いることにしたが、ホノリウス3世は出発前の3月18日に死去。後継者のグレゴリウス9世は強硬派であり、十字軍の遅延を理由にフリードリヒ2世を破門したため、皇帝と教皇の関係は悪化、イタリア政策を巡って両者は対立していくことになる。

また、キリスト教の布教のためドミニコ会カルメル会を承認、フランシスコ会の会則を認可し、セルビアステファン・ネマニッチに王冠を授け、セルビア王国の地位を認めた。

後世、「教皇ホノリウスの奥義書」(17世紀以降)という魔法書が出回り、実は魔術師だったのではないかとの噂が生じた。これについては、教会に迫害された魔術師たちが報復のために最も正統的な教皇に罪を着せたという説[1]や、後に異端として断罪されることになるテンプル騎士団を庇護したためではないかとする説[2]がある。

  1. ^ アルフレッド・モーリー『魔術と占星術』有田忠郎・浜文敏訳、白水社、1993年、p.141頁。 
  2. ^ Davies, Owen (2009). Grimoires - A History of Magic Books. Oxford University Press. pp. p.34