コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ロマン・イゴレヴィチ (ガーリチ公)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)) - log
2行目: 2行目:


==生涯==
==生涯==
1205年、Zawichostの戦い[[:ru:Битва при Завихосте|(ru)]]{{refnest|group="注"|Zawichostは現[[ポーランド]]・[[シフィェンティクシシュ県]]の市。詳しくは[[:en:Zawichost]]を参照されたし。}}においてガーリチ・ヴォルィーニ公[[ロマン・ムスティスラーヴィチ|ロマン]]が戦死すると、その幼い後継者であった[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダニール]]は、[[ハンガリー王]][[アンドラーシュ2世]]の支援の下しばらくは公位を維持したが、1206年にガーリチから追放された。ロマンは2人の兄弟と共に、[[ガーリチ・ヴォルィーニ公国]]の獲得に成功し、兄弟と共に公位を分割して即位した。すなわち、[[ウラジーミル・イーゴレヴィチ|ウラジーミル]]のガーリチ公、スヴャトスラフ[[:ru:Святослав Игоревич (князь волынский)|(ru)]]の[[ヴォルィーニ公]]、ロマンのズヴェニゴロド公である。
1205年、Zawichostの戦い[[:ru:Битва при Завихосте|(ru)]]{{refnest|group="注"|Zawichostは現[[ポーランド]]・[[シフィェンティクシシュ県]]の市。詳しくは[[:en:Zawichost]]を参照されたし。}}においてガーリチ・ヴォルィーニ公[[ロマン・ムスティスラーヴィチ|ロマン]]が戦死すると、その幼い後継者であった[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダニール]]は、[[ハンガリー王]][[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ2世]]の支援の下しばらくは公位を維持したが、1206年にガーリチから追放された。ロマンは2人の兄弟と共に、[[ガーリチ・ヴォルィーニ公国]]の獲得に成功し、兄弟と共に公位を分割して即位した。すなわち、[[ウラジーミル・イーゴレヴィチ|ウラジーミル]]のガーリチ公、スヴャトスラフ[[:ru:Святослав Игоревич (князь волынский)|(ru)]]の[[ヴォルィーニ公]]、ロマンのズヴェニゴロド公である。


しかし1208年にはロマンはハンガリー王国と結んでガーリチを攻め落とし、兄ウラジーミルを[[プティーウリ|プチヴリ]]へと追放した。ただし1210年にウラジーミルは帰還し、以降は共同統治を行った。ロマンら兄弟は、自身の権力を承認させるために、自分たちに不満を持つガーリチの貴族たち([[ボヤーレ]])に迫害を加えたが、最終的には公国内での支持を失った。1211年、ポーランド・ハンガリー連合軍によってウラジーミルは子と共に追放された。ロマンは[[ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州)|ズヴェニゴロド]]において、スヴャトスラフは[[プシェムィシル|ペレムィシュリ]]においてそれぞれ捕縛された。ガーリチ公位にはダニール(上記のダニール)が就き、ロマン、スヴャトスラフ(そしておそらく兄弟のロスチスラフも)は[[絞首刑]]に処された。
しかし1208年にはロマンはハンガリー王国と結んでガーリチを攻め落とし、兄ウラジーミルを[[プティーウリ|プチヴリ]]へと追放した。ただし1210年にウラジーミルは帰還し、以降は共同統治を行った。ロマンら兄弟は、自身の権力を承認させるために、自分たちに不満を持つガーリチの貴族たち([[ボヤーレ]])に迫害を加えたが、最終的には公国内での支持を失った。1211年、ポーランド・ハンガリー連合軍によってウラジーミルは子と共に追放された。ロマンは[[ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州)|ズヴェニゴロド]]において、スヴャトスラフは[[プシェムィシル|ペレムィシュリ]]においてそれぞれ捕縛された。ガーリチ公位にはダニール(上記のダニール)が就き、ロマン、スヴャトスラフ(そしておそらく兄弟のロスチスラフも)は[[絞首刑]]に処された。

2021年5月24日 (月) 21:24時点における版

ロマン・イゴレヴィチロシア語: Роман Игоревич、? - 1211年)はノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリの子(母はエフロシニヤ)の子である。ズヴェニゴロド公:1216年 - 1211年、ガーリチ公:1208年 - 1210年、1211年。

生涯

1205年、Zawichostの戦い(ru)[注 1]においてガーリチ・ヴォルィーニ公ロマンが戦死すると、その幼い後継者であったダニールは、ハンガリー王アンドラーシュ2世の支援の下しばらくは公位を維持したが、1206年にガーリチから追放された。ロマンは2人の兄弟と共に、ガーリチ・ヴォルィーニ公国の獲得に成功し、兄弟と共に公位を分割して即位した。すなわち、ウラジーミルのガーリチ公、スヴャトスラフ(ru)ヴォルィーニ公、ロマンのズヴェニゴロド公である。

しかし1208年にはロマンはハンガリー王国と結んでガーリチを攻め落とし、兄ウラジーミルをプチヴリへと追放した。ただし1210年にウラジーミルは帰還し、以降は共同統治を行った。ロマンら兄弟は、自身の権力を承認させるために、自分たちに不満を持つガーリチの貴族たち(ボヤーレ)に迫害を加えたが、最終的には公国内での支持を失った。1211年、ポーランド・ハンガリー連合軍によってウラジーミルは子と共に追放された。ロマンはズヴェニゴロドにおいて、スヴャトスラフはペレムィシュリにおいてそれぞれ捕縛された。ガーリチ公位にはダニール(上記のダニール)が就き、ロマン、スヴャトスラフ(そしておそらく兄弟のロスチスラフも)は絞首刑に処された。

注釈

  1. ^ Zawichostは現ポーランドシフィェンティクシシュ県の市。詳しくはen:Zawichostを参照されたし。

参考文献