「コチャン (ポロヴェツ族)」の版間の差分
m →子 |
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (ベーラ4世 (ハンガリー王)) - log |
||
6行目: | 6行目: | ||
[[1223年]]、[[モンゴル帝国]]軍がポロヴェツ族の地を侵略した後、コチャンは義理の息子でガーリチ公となっていたムスチスラフの元に行くと、ムスチスラフをはじめとするルーシ諸公に、モンゴル軍に対する援軍を求めた。ルーシの諸公は援軍を承諾し、ルーシ・ポロヴェツ連合軍は[[カルカ河畔の戦い]]へと臨んだが、結果は敗北に終わった。 |
[[1223年]]、[[モンゴル帝国]]軍がポロヴェツ族の地を侵略した後、コチャンは義理の息子でガーリチ公となっていたムスチスラフの元に行くと、ムスチスラフをはじめとするルーシ諸公に、モンゴル軍に対する援軍を求めた。ルーシの諸公は援軍を承諾し、ルーシ・ポロヴェツ連合軍は[[カルカ河畔の戦い]]へと臨んだが、結果は敗北に終わった。 |
||
[[1237年]]早春、モンゴル軍は再びポロヴェツ族に攻撃を加えた。[[ラシードゥッディーン]]の記述によれば、3度目となる[[1238年]]の攻撃は、ポロヴェツ族にとって決定的な敗戦となった。ポロヴェツ族のうち降伏した人々と土地は、後の[[ジョチ・ウルス]]に組み込まれた。コチャンは4万人の同族と共に[[ハンガリー王国]]へ逃亡すると、[[ハンガリー王]][[ベーラ4世]]は彼らを自国民とみなし、住む土地を与えた<ref>『ドナウ・ヨーロッパ史』p47</ref>。その代償として、コチャンと彼の率いる人々は、それまでの[[テングリ]]崇拝から[[キリスト教]]へと改宗し、ハンガリー王国の忠実な国民であることを求められた。歴史的史料から、コチャンは[[1239年]]に[[洗礼]]を受けたことが知られている。また、コチャンの娘の一人([[洗礼名]]エルジェーベト)は、後に[[イシュトヴァーン5世]]となる、ベーラ4世の子と結婚した<ref>『ハンガリー史 1』p95</ref>。 |
[[1237年]]早春、モンゴル軍は再びポロヴェツ族に攻撃を加えた。[[ラシードゥッディーン]]の記述によれば、3度目となる[[1238年]]の攻撃は、ポロヴェツ族にとって決定的な敗戦となった。ポロヴェツ族のうち降伏した人々と土地は、後の[[ジョチ・ウルス]]に組み込まれた。コチャンは4万人の同族と共に[[ハンガリー王国]]へ逃亡すると、[[ハンガリー王]][[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]]は彼らを自国民とみなし、住む土地を与えた<ref>『ドナウ・ヨーロッパ史』p47</ref>。その代償として、コチャンと彼の率いる人々は、それまでの[[テングリ]]崇拝から[[キリスト教]]へと改宗し、ハンガリー王国の忠実な国民であることを求められた。歴史的史料から、コチャンは[[1239年]]に[[洗礼]]を受けたことが知られている。また、コチャンの娘の一人([[洗礼名]]エルジェーベト)は、後に[[イシュトヴァーン5世]]となる、ベーラ4世の子と結婚した<ref>『ハンガリー史 1』p95</ref>。 |
||
その後でさえ、ハンガリーの貴族はポロヴェツ族に対して不信感を抱いていた。コチャンは[[モヒの戦い]]以前に、息子たちと共に[[ペシュト]]で殺された。敬愛する指導者の死の後、ポロヴェツ族は略奪を行い、キリスト教を捨てて[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]の[[カリマン1世]]の元へと去っていった。 |
その後でさえ、ハンガリーの貴族はポロヴェツ族に対して不信感を抱いていた。コチャンは[[モヒの戦い]]以前に、息子たちと共に[[ペシュト]]で殺された。敬愛する指導者の死の後、ポロヴェツ族は略奪を行い、キリスト教を捨てて[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]の[[カリマン1世]]の元へと去っていった。 |
2021年5月24日 (月) 21:32時点における版
コチャン(コチャン・ストエヴィチ、ロシア語: Котян (Котян Сутоевич))、またはケテニュ(ハンガリー語: Kötöny、? - 1240年頃)は、モンゴルのルーシ侵攻に際し、ルーシ・ポロヴェツ連合をなしたポロヴェツ族のハンである[注 1]。
生涯
コチャンは他のポロヴェツ族のハンと同様に、ルーシ諸公の闘争に干渉した。コチャンの娘の一人(聖名マリヤ)はルーシの公のムスチスラフ・ムスチスラヴィチに嫁いでいる。1205年、ガーリチ公ロマンの死後にガーリチ公国で戦ったが敗れ、かろうじて捕縛されるのを逃れた。
1223年、モンゴル帝国軍がポロヴェツ族の地を侵略した後、コチャンは義理の息子でガーリチ公となっていたムスチスラフの元に行くと、ムスチスラフをはじめとするルーシ諸公に、モンゴル軍に対する援軍を求めた。ルーシの諸公は援軍を承諾し、ルーシ・ポロヴェツ連合軍はカルカ河畔の戦いへと臨んだが、結果は敗北に終わった。
1237年早春、モンゴル軍は再びポロヴェツ族に攻撃を加えた。ラシードゥッディーンの記述によれば、3度目となる1238年の攻撃は、ポロヴェツ族にとって決定的な敗戦となった。ポロヴェツ族のうち降伏した人々と土地は、後のジョチ・ウルスに組み込まれた。コチャンは4万人の同族と共にハンガリー王国へ逃亡すると、ハンガリー王ベーラ4世は彼らを自国民とみなし、住む土地を与えた[1]。その代償として、コチャンと彼の率いる人々は、それまでのテングリ崇拝からキリスト教へと改宗し、ハンガリー王国の忠実な国民であることを求められた。歴史的史料から、コチャンは1239年に洗礼を受けたことが知られている。また、コチャンの娘の一人(洗礼名エルジェーベト)は、後にイシュトヴァーン5世となる、ベーラ4世の子と結婚した[2]。
その後でさえ、ハンガリーの貴族はポロヴェツ族に対して不信感を抱いていた。コチャンはモヒの戦い以前に、息子たちと共にペシュトで殺された。敬愛する指導者の死の後、ポロヴェツ族は略奪を行い、キリスト教を捨ててブルガリア帝国のカリマン1世の元へと去っていった。
子
コチャンの子には以下の人物がいる。
脚注
注釈
- ^ 「コチャン」・「ポロヴェツ族」はルーシの史料に拠る名称であり、ハンガリー史における名称は「ケテニュ」・「クマン族」等を用いるが、本頁では便宜上コチャンとポロヴェツ族で統一する。
- ^ 土地についてはfr:Bazarnes、人物についてはfr:Narjot de Toucy (mort en 1241)参照。
出典
参考文献
- Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона
- Rene Grousset, The Empire of the Steppes, 1970, Rutgers University Press
- Cumans and Tatars, Istvan Vasary, 2005, Cambridge University Press
- 南塚信吾編 『ドナウ・ヨーロッパ史』(新版 世界各国史19)、山川出版社、1999年。
- パムレーニ・エルヴィン編、田代文雄・鹿島正裕訳『ハンガリー史 1』(増補版)恒文社、1990年。