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「ブロドニキ」の版間の差分

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ルーシの史料では、ブロドニキは[[レートピシ]](ルーシの[[年代記]])上にしばしば言及されている。ブロドニキはルーシ諸公同士や、ルーシ諸公と[[ポロヴェツ族]]、あるいはルーシ諸公と[[タタール人]]との戦いに参加した。[[1223年]]の[[カルカ河畔の戦い]]では、プロスクィニャ[[:ru:Плоскыня|(ru)]]を長とするブロドニキの一軍が、ルーシ・ポロヴェツ連合から離反し、[[モンゴル帝国]]軍に付いている<ref name="Бродники" />。また、『[[イーゴリ軍記]]』中に言及される{{refnest|group="注"|「ハンガリー、リトアニア、[[ヤトヴャグ族|ヤトヴャギ]]、デレメーラ、[[ポロヴェツ]]は[[ヴォルィーニ公]][[ロマン・ムスティスラーヴィチ|ロマン]]、[[ペレソプニツァ公]][[ムスチスラフ・ヤロスラヴィチ|ムスチスラフ]]にひれ伏した」という主旨の文がある<ref>木村彰一『イーゴリ遠征物語』P84</ref>。}}「デレメーラ」(浅瀬の人々、を意味する[[テュルク語]]のdärmälに拠る)は、おそらくブロドニキを指している<ref>Энциклопедия «Слова о полку Игореве»: В 5 томах / Рос. акад. наук. Ин-т рус. лит. (Пушкин. дом); Ред. кол.: Л. А. Дмитриев, Д. С. Лихачев, С. А. Семячко, О. В. Творогов (отв. ред.). — СПб.: Дмитрий Буланин, 1995</ref>{{refnest|group="注"|東プロイセンのバルト族を指すという説もある<ref>木村彰一『イーゴリ遠征物語』P179</ref>。}}。
ルーシの史料では、ブロドニキは[[レートピシ]](ルーシの[[年代記]])上にしばしば言及されている。ブロドニキはルーシ諸公同士や、ルーシ諸公と[[ポロヴェツ族]]、あるいはルーシ諸公と[[タタール人]]との戦いに参加した。[[1223年]]の[[カルカ河畔の戦い]]では、プロスクィニャ[[:ru:Плоскыня|(ru)]]を長とするブロドニキの一軍が、ルーシ・ポロヴェツ連合から離反し、[[モンゴル帝国]]軍に付いている<ref name="Бродники" />。また、『[[イーゴリ軍記]]』中に言及される{{refnest|group="注"|「ハンガリー、リトアニア、[[ヤトヴャグ族|ヤトヴャギ]]、デレメーラ、[[ポロヴェツ]]は[[ヴォルィーニ公]][[ロマン・ムスティスラーヴィチ|ロマン]]、[[ペレソプニツァ公]][[ムスチスラフ・ヤロスラヴィチ|ムスチスラフ]]にひれ伏した」という主旨の文がある<ref>木村彰一『イーゴリ遠征物語』P84</ref>。}}「デレメーラ」(浅瀬の人々、を意味する[[テュルク語]]のdärmälに拠る)は、おそらくブロドニキを指している<ref>Энциклопедия «Слова о полку Игореве»: В 5 томах / Рос. акад. наук. Ин-т рус. лит. (Пушкин. дом); Ред. кол.: Л. А. Дмитриев, Д. С. Лихачев, С. А. Семячко, О. В. Творогов (отв. ред.). — СПб.: Дмитрий Буланин, 1995</ref>{{refnest|group="注"|東プロイセンのバルト族を指すという説もある<ref>木村彰一『イーゴリ遠征物語』P179</ref>。}}。


[[西ヨーロッパ|西欧]]の史料では、ブロドニキの居住地について、[[クマン|クマン人]]、[[ルーシ人]]、[[ブルガール人]]と国境を接していると述べている。たとえば、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]の[[1227年]]の書簡中には「in Cumania et Brodnic terra illae vicina, de cuius gentis conversione speratur, legationis officium tibi committere dignaremur…」{{refnest|group="注"|大意「[[キプチャク草原|クマニア]]およびその近隣なるブロドニクの地にては人民の改宗が期されており、かの地への使節の任を朕厳かに汝に委ねり」}}という文がある。また、[[ハンガリー王]][[ベーラ4世]]は[[1250年]]に、ローマ教皇に、タタール人がブロドニキを含むハンガリーの東の隣人を征服したということを伝えている。なお、同じくベーラ4世の[[1254年]]の書信では、西欧の史料で頻繁に、[[正教徒]]と異教徒(キリスト教から見た)を等しくそのように称することがあるように、ブロドニキとルーシの人々を異教徒[[:ru:Неверные|(ru)]]{{refnest|group="注"|「異教徒」は{{lang-ru|Неверные}}の直訳による<ref>井桁貞義『コンサイス露和辞典』p526</ref>。}}と呼んでいる<ref name="Бродники" />。<!--[[1217年]]、ブロドニキから成る軍隊が、国を追われて[[ガーリチ・ヴォルィーニ公国]]に逃れていた[[ブルガリア帝国]]の[[イヴァン・アセン2世|イヴァン・アセン]]のブルガリアへの帰還を支援した。(別記事ではハンガリー軍が支援。ハンガリーの傭兵か。出典ないのでとりあえず伏せ。)-->ブロドニキの居住地が現[[モルドバ]]の何処かの一部を占めていたことは明らかである。
[[西ヨーロッパ|西欧]]の史料では、ブロドニキの居住地について、[[クマン|クマン人]]、[[ルーシ人]]、[[ブルガール人]]と国境を接していると述べている。たとえば、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]の[[1227年]]の書簡中には「in Cumania et Brodnic terra illae vicina, de cuius gentis conversione speratur, legationis officium tibi committere dignaremur…」{{refnest|group="注"|大意「[[キプチャク草原|クマニア]]およびその近隣なるブロドニクの地にては人民の改宗が期されており、かの地への使節の任を朕厳かに汝に委ねり」}}という文がある。また、[[ハンガリー王]][[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]]は[[1250年]]に、ローマ教皇に、タタール人がブロドニキを含むハンガリーの東の隣人を征服したということを伝えている。なお、同じくベーラ4世の[[1254年]]の書信では、西欧の史料で頻繁に、[[正教徒]]と異教徒(キリスト教から見た)を等しくそのように称することがあるように、ブロドニキとルーシの人々を異教徒[[:ru:Неверные|(ru)]]{{refnest|group="注"|「異教徒」は{{lang-ru|Неверные}}の直訳による<ref>井桁貞義『コンサイス露和辞典』p526</ref>。}}と呼んでいる<ref name="Бродники" />。<!--[[1217年]]、ブロドニキから成る軍隊が、国を追われて[[ガーリチ・ヴォルィーニ公国]]に逃れていた[[ブルガリア帝国]]の[[イヴァン・アセン2世|イヴァン・アセン]]のブルガリアへの帰還を支援した。(別記事ではハンガリー軍が支援。ハンガリーの傭兵か。出典ないのでとりあえず伏せ。)-->ブロドニキの居住地が現[[モルドバ]]の何処かの一部を占めていたことは明らかである。


13世紀以降の史料からは、ブロドニキに関して読み取ることはできない。なお、ブロドニキはスラヴ人社会の中に融合しつつも、民族的組織を形成できずに、初期の[[コサック]]部隊に参加したという仮説がある<ref>[[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ]]</ref>。
13世紀以降の史料からは、ブロドニキに関して読み取ることはできない。なお、ブロドニキはスラヴ人社会の中に融合しつつも、民族的組織を形成できずに、初期の[[コサック]]部隊に参加したという仮説がある<ref>[[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ]]</ref>。

2021年5月24日 (月) 21:32時点における版

ブロドニキロシア語: Бродникиルーマニア語: Brodnici)とは、12世紀 - 13世紀のアゾフ海沿岸(ドン川下流、ドニエストル川下流)から現ルーマニア北西部にかけての一帯に住んでいた人々(民族的には雑多)を指す言葉である。

居住地と民族性

ブロドニキの一部は、南でヴラフ人に接する、後にモルダヴィア公国(ru)[注 1]が成立する地域(現モルドバを含む一帯)、現ウクライナブジャク地方の北西部、現ルーマニアヴランチャ県ガラツィ県南部等に居住していた。さらにはおそらく、ドニエストル川からドニエプル川間の海岸地帯にも居住していたと考えられる[2]

ブロドニキは自身に関する遺物や文字を遺しておらず、それがブロドニキの民族的認証を困難にさせているが、ブロドニキはテュルク系民族スラヴ系民族を起源とすることが確定的である[3]。また、ハザール人ブルガール人の後裔や、後世にはオグズ族もブロドニキに含まれていたと考えられる。なお、ビザンツ帝国の歴史家ニケタス・コニアテス1190年の著述の中では、ブロドニキはタウロイの一分枝であるとされている[4]

史料上の言及

ルーシの史料では、ブロドニキはレートピシ(ルーシの年代記)上にしばしば言及されている。ブロドニキはルーシ諸公同士や、ルーシ諸公とポロヴェツ族、あるいはルーシ諸公とタタール人との戦いに参加した。1223年カルカ河畔の戦いでは、プロスクィニャ(ru)を長とするブロドニキの一軍が、ルーシ・ポロヴェツ連合から離反し、モンゴル帝国軍に付いている[4]。また、『イーゴリ軍記』中に言及される[注 2]「デレメーラ」(浅瀬の人々、を意味するテュルク語のdärmälに拠る)は、おそらくブロドニキを指している[6][注 3]

西欧の史料では、ブロドニキの居住地について、クマン人ルーシ人ブルガール人と国境を接していると述べている。たとえば、ローマ教皇グレゴリウス9世1227年の書簡中には「in Cumania et Brodnic terra illae vicina, de cuius gentis conversione speratur, legationis officium tibi committere dignaremur…」[注 4]という文がある。また、ハンガリー王ベーラ4世1250年に、ローマ教皇に、タタール人がブロドニキを含むハンガリーの東の隣人を征服したということを伝えている。なお、同じくベーラ4世の1254年の書信では、西欧の史料で頻繁に、正教徒と異教徒(キリスト教から見た)を等しくそのように称することがあるように、ブロドニキとルーシの人々を異教徒(ru)[注 5]と呼んでいる[4]。ブロドニキの居住地が現モルドバの何処かの一部を占めていたことは明らかである。

13世紀以降の史料からは、ブロドニキに関して読み取ることはできない。なお、ブロドニキはスラヴ人社会の中に融合しつつも、民族的組織を形成できずに、初期のコサック部隊に参加したという仮説がある[9]

脚注

注釈

  1. ^ 「モルダヴィア公国」は在ウクライナ日本国大使館(2016年までモルドバ共和国兼轄)サイト内の表記に拠る[1]
  2. ^ 「ハンガリー、リトアニア、ヤトヴャギ、デレメーラ、ポロヴェツヴォルィーニ公ロマンペレソプニツァ公ムスチスラフにひれ伏した」という主旨の文がある[5]
  3. ^ 東プロイセンのバルト族を指すという説もある[7]
  4. ^ 大意「クマニアおよびその近隣なるブロドニクの地にては人民の改宗が期されており、かの地への使節の任を朕厳かに汝に委ねり」
  5. ^ 「異教徒」はロシア語: Неверныеの直訳による[8]

出典

  1. ^ モルドバ概観 (2011年10月現在) // 在ウクライナ日本国大使館
  2. ^ Victor Spinei Moldavia in the 11th—14th centuries. — Editura Academiei Republicii Socialiste România, 1986.
  3. ^ Lev Gumilev's opinion; e.g., in his «Discovery of Khazaria»
  4. ^ a b c Бродники
  5. ^ 木村彰一『イーゴリ遠征物語』P84
  6. ^ Энциклопедия «Слова о полку Игореве»: В 5 томах / Рос. акад. наук. Ин-т рус. лит. (Пушкин. дом); Ред. кол.: Л. А. Дмитриев, Д. С. Лихачев, С. А. Семячко, О. В. Творогов (отв. ред.). — СПб.: Дмитрий Буланин, 1995
  7. ^ 木村彰一『イーゴリ遠征物語』P179
  8. ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p526
  9. ^ ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ

参考文献

関連項目