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「カルロ2世 (ナポリ王)」の版間の差分

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[[1282年]]、父カルロ1世が[[シチリア晩祷戦争]]で[[シチリア島|シチリア]]を追われると、父と共に[[ナポリ]]に逃亡して[[アラゴン連合王国|アラゴン王]][[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]と戦う。しかし[[1284年]]、アラゴン海軍と戦って敗れて捕虜となった。
[[1282年]]、父カルロ1世が[[シチリア晩祷戦争]]で[[シチリア島|シチリア]]を追われると、父と共に[[ナポリ]]に逃亡して[[アラゴン連合王国|アラゴン王]][[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]と戦う。しかし[[1284年]]、アラゴン海軍と戦って敗れて捕虜となった。


[[1288年]]、シチリアを完全放棄するという条件で釈放され、既に没していた父の跡を継いでナポリ王として即位する。しかし父以来の宿願であるシチリア奪還を諦めず、[[1289年]]には巧みな政治工作で[[教皇|ローマ教皇]][[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]からシチリア王として戴冠を受けた。また、妃である[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[イシュトヴァーン5世]]の娘[[マリア・ドゥンゲリア|マーリア]]との間の長男[[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]]を[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]の娘クレメンツィアと結婚させた上、ハンガリー[[摂政]]を名乗らせて同国の王位継承争いに介入した(カルロ・マルテッロは[[1295年]]に23歳で死去したが、後にその息子のカルロ・ロベルトがハンガリー王[[カーロイ1世]]となる)。
[[1288年]]、シチリアを完全放棄するという条件で釈放され、既に没していた父の跡を継いでナポリ王として即位する。しかし父以来の宿願であるシチリア奪還を諦めず、[[1289年]]には巧みな政治工作で[[教皇|ローマ教皇]][[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]からシチリア王として戴冠を受けた。また、妃である[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[イシュトヴァーン5世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン5世]]の娘[[マリア・ドゥンゲリア|マーリア]]との間の長男[[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]]を[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]の娘クレメンツィアと結婚させた上、ハンガリー[[摂政]]を名乗らせて同国の王位継承争いに介入した(カルロ・マルテッロは[[1295年]]に23歳で死去したが、後にその息子のカルロ・ロベルトがハンガリー王[[カーロイ1世]]となる)。


こうした情勢を背景にして、ペドロ3世の三男のシチリア王[[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]]と戦ったが、シチリアを奪還することはできず、1295年に次女[[ブランカ・デ・ナポレス|ビアンカ]]をアラゴン王[[ハイメ2世 (アラゴン王)|ハイメ2世]](ペドロ3世の次男でフェデリーコ2世の兄、当時シチリア王を兼ねた)と、[[1297年]]に三男[[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト]]をフェデリーコ2世の妹[[ヨランダ・ダラゴナ|ビオランテ]]と、[[1302年]]に三女[[エレオノーラ・ダンジョ|エレオノーラ]]をフェデリーコ2世とそれぞれ結婚させ、[[バルセロナ家|アラゴン家]]との和平を図っている。
こうした情勢を背景にして、ペドロ3世の三男のシチリア王[[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]]と戦ったが、シチリアを奪還することはできず、1295年に次女[[ブランカ・デ・ナポレス|ビアンカ]]をアラゴン王[[ハイメ2世 (アラゴン王)|ハイメ2世]](ペドロ3世の次男でフェデリーコ2世の兄、当時シチリア王を兼ねた)と、[[1297年]]に三男[[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト]]をフェデリーコ2世の妹[[ヨランダ・ダラゴナ|ビオランテ]]と、[[1302年]]に三女[[エレオノーラ・ダンジョ|エレオノーラ]]をフェデリーコ2世とそれぞれ結婚させ、[[バルセロナ家|アラゴン家]]との和平を図っている。
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== 家族 ==
== 家族 ==
[[1270年]]に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[イシュトヴァーン5世]]の娘[[マリア・ドゥンゲリア|マーリア]](1257年頃 - 1323年)と結婚した。なお、マーリアの弟[[ラースロー4世]]がカルロ2世の妹[[エリザベッタ・ディ・シチリア (ハンガリー王妃)|イザベッラ]]と結婚している。マーリアとの間には14子が生まれた。
[[1270年]]に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[イシュトヴァーン5世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン5世]]の娘[[マリア・ドゥンゲリア|マーリア]](1257年頃 - 1323年)と結婚した。なお、マーリアの弟[[ラースロー4世]]がカルロ2世の妹[[エリザベッタ・ディ・シチリア (ハンガリー王妃)|イザベッラ]]と結婚している。マーリアとの間には14子が生まれた。
* [[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]](1271年 - 1295年) - [[ハンガリー・アンジュー朝|アンジュー=ハンガリー家]]の祖
* [[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]](1271年 - 1295年) - [[ハンガリー・アンジュー朝|アンジュー=ハンガリー家]]の祖
* [[マルグリット・ダンジュー|マルゲリータ]](マルグリット、1273年 - 1299年) - [[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]([[ヴァロワ家]]の祖)と結婚
* [[マルグリット・ダンジュー|マルゲリータ]](マルグリット、1273年 - 1299年) - [[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]([[ヴァロワ家]]の祖)と結婚

2021年5月24日 (月) 21:34時点における版

カルロ2世
Carlo II d'Angiò
ナポリ王
在位 1285年 - 1309年
別号 シチリア王(名目上)
プロヴァンス伯
アンジュー伯
アカイア公

出生 1248年/1254年
死去 1309年5月5日
ナポリ王国の旗 ナポリ王国ナポリ
埋葬 ナポリ王国の旗 ナポリ王国、サンタ・キアラ聖堂
配偶者 マリア・ドゥンゲリア
子女 一覧参照
家名 アンジュー=シチリア家
王朝 ナポリ・アンジュー朝
父親 シチリア王カルロ1世
母親 ベアトリス・ド・プロヴァンス
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カルロ2世の紋章

カルロ2世イタリア語: Carlo II d'Angiò, 1248年/1254年 - 1309年5月5日)は、ナポリ王(在位:1285年 - 1309年)。シチリアカルロ1世(シャルル・ダンジュー)と最初の妃ベアトリス・ド・プロヴァンスの子。

生涯

1282年、父カルロ1世がシチリア晩祷戦争シチリアを追われると、父と共にナポリに逃亡してアラゴン王ペドロ3世と戦う。しかし1284年、アラゴン海軍と戦って敗れて捕虜となった。

1288年、シチリアを完全放棄するという条件で釈放され、既に没していた父の跡を継いでナポリ王として即位する。しかし父以来の宿願であるシチリア奪還を諦めず、1289年には巧みな政治工作でローマ教皇ニコラウス4世からシチリア王として戴冠を受けた。また、妃であるハンガリーイシュトヴァーン5世の娘マーリアとの間の長男カルロ・マルテッロ神聖ローマ皇帝ルドルフ1世の娘クレメンツィアと結婚させた上、ハンガリー摂政を名乗らせて同国の王位継承争いに介入した(カルロ・マルテッロは1295年に23歳で死去したが、後にその息子のカルロ・ロベルトがハンガリー王カーロイ1世となる)。

こうした情勢を背景にして、ペドロ3世の三男のシチリア王フェデリーコ2世と戦ったが、シチリアを奪還することはできず、1295年に次女ビアンカをアラゴン王ハイメ2世(ペドロ3世の次男でフェデリーコ2世の兄、当時シチリア王を兼ねた)と、1297年に三男ロベルトをフェデリーコ2世の妹ビオランテと、1302年に三女エレオノーラをフェデリーコ2世とそれぞれ結婚させ、アラゴン家との和平を図っている。

カルロ2世は父からアカイア公国も継承したが、自身がシチリア王として戴冠した1289年に弟フィリッポ(1277年没)の未亡人であったイザベル・ド・ヴィルアルドゥアンラテン帝国継承者の近親フロラン・ド・エノーと再婚すると、これに譲った。しかしフロランの死後(1297年)、1301年にイザベルがフィリップ・ド・サヴォワと再々婚して共治に乗り出したことには難色を示し、これを廃して自身の四男ターラント公フィリッポを公位に就けた(1306年6月5日)。

1309年にナポリで死去し、三男ロベルトが王位を継承した。

家族

1270年ハンガリーイシュトヴァーン5世の娘マーリア(1257年頃 - 1323年)と結婚した。なお、マーリアの弟ラースロー4世がカルロ2世の妹イザベッラと結婚している。マーリアとの間には14子が生まれた。

関連項目

先代
カルロ1世
ナポリ王
プロヴァンス伯
1285年 - 1309年
次代
ロベルト
先代
シャルル1世
アンジュー伯
1285年 - 1290年
次代
シャルル3世
先代
シャルル1世
アカイア公
1285年 - 1289年
次代
イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン