「バルバラ・ツェリスカ」の版間の差分
m Botによる: {{Normdaten}}を追加 |
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (イシュトヴァーン5世 (ハンガリー王)) - log |
||
31行目: | 31行目: | ||
バルバラと同族の従姉[[アンナ・ツィレイスカ|アナ]]はともに、ツェリェ伯家の姻戚にあたる姉妹を先妻かつ共同君主としていた2人の君主の再婚相手となった。アナは女王[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]を亡くした[[ポーランド国王|ポーランド王]]兼[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]の[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]と1402年に、バルバラは女王[[マーリア (ハンガリー女王)|マーリア]]と死別した[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]と1405年に、それぞれ結婚したからである。[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]の女王姉妹マーリアとヤドヴィガの母[[エリザベタ・コトロマニッチ|エリザベタ]]と、バルバラおよびアナの父方の祖母カタリナは姉妹である。 |
バルバラと同族の従姉[[アンナ・ツィレイスカ|アナ]]はともに、ツェリェ伯家の姻戚にあたる姉妹を先妻かつ共同君主としていた2人の君主の再婚相手となった。アナは女王[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]を亡くした[[ポーランド国王|ポーランド王]]兼[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]の[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]と1402年に、バルバラは女王[[マーリア (ハンガリー女王)|マーリア]]と死別した[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]と1405年に、それぞれ結婚したからである。[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]の女王姉妹マーリアとヤドヴィガの母[[エリザベタ・コトロマニッチ|エリザベタ]]と、バルバラおよびアナの父方の祖母カタリナは姉妹である。 |
||
バルバラとの結婚には、妻の死によって脆弱になったジギスムントのハンガリー王位の正統性を補強する目的があった。バルバラは父方の血統を通じて[[スロヴェニア]]の支配者[[ツェリェ伯]]のみならず、[[ボスニア王国|ボスニア]]の[[コトロマニッチ家]]、[[セルビア王国 (中世)|セルビア]]の[[ネマニッチ家]]、さらにはハンガリー王[[イシュトヴァーン5世]]の血を引いていたからである。ジギスムントは1410年に[[ローマ王]]位、1419年に[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王位を獲得し、1433年には[[神聖ローマ皇帝]]として戴冠している。 |
バルバラとの結婚には、妻の死によって脆弱になったジギスムントのハンガリー王位の正統性を補強する目的があった。バルバラは父方の血統を通じて[[スロヴェニア]]の支配者[[ツェリェ伯]]のみならず、[[ボスニア王国|ボスニア]]の[[コトロマニッチ家]]、[[セルビア王国 (中世)|セルビア]]の[[ネマニッチ家]]、さらにはハンガリー王[[イシュトヴァーン5世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン5世]]の血を引いていたからである。ジギスムントは1410年に[[ローマ王]]位、1419年に[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王位を獲得し、1433年には[[神聖ローマ皇帝]]として戴冠している。 |
||
バルバラはジギスムントの子供としては唯一人生存した女子相続人[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク|エリーザベト]]の母となり、娘を[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア公]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト5世]](ローマ王、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]、ハンガリー王位を継承した)に嫁がせ、存命中に[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)|アンナ]]、[[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト]]、[[ラディスラウス・ポストゥムス|ラディスラウス]](オーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王位を継承した)の3人の孫の祖母となった。 |
バルバラはジギスムントの子供としては唯一人生存した女子相続人[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク|エリーザベト]]の母となり、娘を[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア公]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト5世]](ローマ王、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]、ハンガリー王位を継承した)に嫁がせ、存命中に[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)|アンナ]]、[[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト]]、[[ラディスラウス・ポストゥムス|ラディスラウス]](オーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王位を継承した)の3人の孫の祖母となった。 |
2021年5月24日 (月) 21:35時点における版
バルバラ Barbara | |
---|---|
ローマ皇后 ハンガリー王妃 ボヘミア王妃 | |
馬上のバルバラ | |
在位 |
ハンガリー王妃:1405年 - 1437年 ローマ皇后:1410年 - 1437年 |
出生 |
1390/95年 神聖ローマ帝国、ツェリェ伯領、ツェリェ |
死去 |
1451年7月11日 神聖ローマ帝国 ボヘミア王国、ムニェルニーク |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ボヘミア王国、プラハ、聖ヴィート大聖堂 |
結婚 | 1405年12月 |
配偶者 | 神聖ローマ皇帝ジギスムント |
子女 | エリーザベト |
家名 | ツェリェ家 |
父親 | ツェリェ伯ヘルマン2世 |
母親 | シャウンベルク女伯アンナ |
バルバラ・ツェリスカ(クロアチア語およびスロヴェニア語:Barbara Celjska;ハンガリー語:Cillei Borbála;ドイツ語:Barbara von Cilli, 1390年/95年 - 1451年7月11日)は、神聖ローマ皇帝およびハンガリーとボヘミアの王ジギスムントの2番目の妃。スロヴェニアのツェリェ伯ヘルマン2世の娘で、母はシャウンベルク女伯アンナ。「ドイツのメッサリーナ」の異名を持ち、ドラゴン騎士団の創設に深く関与した。
生涯
バルバラと同族の従姉アナはともに、ツェリェ伯家の姻戚にあたる姉妹を先妻かつ共同君主としていた2人の君主の再婚相手となった。アナは女王ヤドヴィガを亡くしたポーランド王兼リトアニア大公のヴワディスワフ2世と1402年に、バルバラは女王マーリアと死別したハンガリー王ジギスムントと1405年に、それぞれ結婚したからである。アンジュー家の女王姉妹マーリアとヤドヴィガの母エリザベタと、バルバラおよびアナの父方の祖母カタリナは姉妹である。
バルバラとの結婚には、妻の死によって脆弱になったジギスムントのハンガリー王位の正統性を補強する目的があった。バルバラは父方の血統を通じてスロヴェニアの支配者ツェリェ伯のみならず、ボスニアのコトロマニッチ家、セルビアのネマニッチ家、さらにはハンガリー王イシュトヴァーン5世の血を引いていたからである。ジギスムントは1410年にローマ王位、1419年にボヘミア王位を獲得し、1433年には神聖ローマ皇帝として戴冠している。
バルバラはジギスムントの子供としては唯一人生存した女子相続人エリーザベトの母となり、娘をハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト5世(ローマ王、ボヘミア王、ハンガリー王位を継承した)に嫁がせ、存命中にアンナ、エリーザベト、ラディスラウス(オーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王位を継承した)の3人の孫の祖母となった。
父ヘルマン2世は、反目しあうジギスムントとヴワディスワフ2世の「舅」として、1410年のタンネンベルクの戦いでは重要な役割を演じた。ヘルマンはこの戦いにおいて、ドイツ騎士団と結んでヴワディスワフ2世を破滅に追い込もうとする義理の息子ジギスムントと敵対し、義理の甥ヴワディスワフを支援した。ウワディスワフとその同盟者であるスラヴ同盟は、ローマ教皇を含め22もの西欧諸国から送られてきた戦士たちを率いるドイツ騎士団を打ち負かしたのである。
バルバラは結婚後の生活の大半をハンガリーで過ごしたが、夫は数多くの国の統治者として他国に出向くことも多く、このためバルバラは夫が不在だった1412年、1414年、1416年、1418年にハンガリーの摂政を務めた。バルバラは知性と美貌を兼ね備えた皇后・王妃だったと言われ、母国語のスロヴェニア語はもちろん、ドイツ語もラテン語も自由に使いこなした。バルバラは無神論者であり、自分の侍女たちに神に祈ることを禁じていたとされる。後に教皇ピウス2世となる人文主義者エネア・シルヴィオ・ピッコローミニによれば、バルバラは夫と同様に愛人を囲い、愛人たちの「ハレム」を作っていた。こうした不倫に怒ったジギスムントは1419年、バルバラをオラデアに追放したが、1421年にはバルバラは許されて宮廷に戻っている。
バルバラは自分の兄フリデリクとその息子ウルリクと共謀し、夫の死後のボヘミア王位を娘婿のオーストリア公アルブレヒトではなく、ポーランド王ヴワディスワフ3世に差し出そうとした。この陰謀を知ったジギスムントは1437年12月5日にバルバラをブラチスラヴァに監禁したが、その4日後の12月9日にジギスムントは亡くなった。
夫の死後、バルバラは解放されたものの全財産を没収され、ハンガリーを出国することを余儀なくされた。彼女はポーランドに移り、サンドミェシュを領地として与えられた。1441年になると、バルバラはボヘミアのムニェルニークに移った。彼女はこの地で前ボヘミア王妃としての余生を送ったが、ここでも体制転覆の陰謀を図ったとして告発されている。バルバラは晩年を趣味の化学やオカルト諸学の研究に費やした。バルバラはペストに罹って亡くなった。
史実ではバルバラはチェコで亡くなったが、民話によると、クロアチアのメドヴェドニツァ山(Medvednica)の城で亡くなったことになっている。オスマン帝国がメドヴェドニツァ山の城を攻め落したとき、バルバラ・ツェリスカは生き残るために自分の魂を悪魔に売って、契約を結んだと言われている。しかし悪魔は彼女を助けないで、さらに彼女と財産に呪いをかけ、その呪われた財産は今もまだ誰にも、発見されていないという民話がある。