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ツェリェ伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ツェリェのウルリク2世の紋章。

ツェリェ伯スロベニア語: Celjski grofje )またはツィリ伯ツィレイ伯ドイツ語: Grafen von Cilli  ;ハンガリー語: cillei grófok)は、中世後期スロベニアで最も影響力をもった貴族である。14世紀初めにハプスブルク家が歴任するシュタイアーマルク公の配下にあって繁栄し、1341年から帝国伯家としてツェリェに移ってツェリェ伯領を治めた。1436年には神聖ローマ帝国帝国諸侯となった。[1]

歴史

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ツェリェ城。

彼らの祖先は12世紀以来、下シュタイアーマルク(現在のシュタイエルスカ地方)のサヴィニャ川沿いにあるゾフネク(ザンネク)城の城主であった。[2]城主についての最初の記述は、1123年から1130年頃にあり、その祖先はこの地域に大規模な土地を所有していたヘマ・フォン・グルク(1045年死去[3])の親戚であった可能性がある。ゾフネク城は、アヴァールに対抗するためにカール大帝の支配下で建設されたとされている。

黎明

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1278年のマルヒフェルトの戦いで、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世の支持者としてレオポルド・フォン・ザンネクが登場した。時代が下って14世紀初頭、レオポルドはボヘミア王国周辺でのオーストリア公ルドルフ3世(ハプスブルク家)とケルンテン公ハインリヒ6世の対立の際にハプスブルク家と同盟を結び、1308年にはハプスブルク家の家臣となった。 [4]

レオポルドの兄弟フリデリクは、婚姻によって1322年にホインブルク伯家の所領であったツェリェ市の半分と下シュタイアーマルクを相続し[1]、1333年にはツェリェ全域を獲得したが[4] 、プファンベルク伯ウルリヒ5世や他のいくつかの近隣貴族はこれを認めなかった。フリデリクは最終的にオーストリア公でシュタイアーマルク公のオットーによる支援を受けて正式にツェリェを勝ち取った。そしてツェリェに移ると、ツェリェ城(特に「上ツェリェ城」。スロベニア語: Gornje Celje)と呼ばれる城に居を構えた。[5]1341年4月16日、オットーによる承認を受けて神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世によってフリデリクはツェリェ城に由来するCylieまたはCilliの称号を受けツェリェ伯となり、グルク司教区のレンベルク領と呼ばれていた領域がツェリェ伯領となった。[1]

その後ツェリェ伯家は、婚姻を通して短期間で現代のスロベニア全体に20以上の城を所有するまでになった。シュタイアーマルク公国、ケルンテン公国、カルニオラ辺境伯領およびハンガリー王国領(クロアチアスラヴォニアを含む)に隣接する大規模な領土を獲得したことでツェリェ伯家の影響力は高まり、この地域で最も強力な貴族の1つとなった。傭兵を率いていたツェリェ伯ウルリク1世は、ハンガリー王ラヨシュ1世による1354年のダルマチア遠征と、翌年の神聖ローマ皇帝カール4世の戴冠式に参加した。ウルリヒ1世の息子ヴィルヘルムはポーランド王カジミェシュ3世の娘アンナと結婚し[6]、この頃ツェリェ伯家はボスニア王家、ポーランド王家、ハンガリー王家と姻戚関係にあった。 また、後にバルバラ・ツェリスカを通じてツェリェ伯家はボヘミア王家とも姻戚関係にあった。

栄華

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ツェリェ伯家の急速な勢力拡大は、1396年のニコポリスの戦い以後も続いた。この戦いでツェリェ伯ヘルマン2世は、カール4世の息子で当時ハンガリー王だったジギスムントの命を救った。王は褒賞として1397年から1399年にかけてヴァラジュディン市や多くのクロアチアの荘園を伯家に与え[4]、1399年にはザゴリエ伯領も伯家に加えられた。[1]1400年頃にはツェリェ市の南の山頂にあったツェリェ城から市内に建てたルネサンス様式のスポドニ城(「低地の城」の意。スロベニア語: Spodnji grad)へと移った。[5]1401年にツェリェ伯家は、ハンガリー国内のマグナート達から支援を渋られていたジギスムントの支援者に名を連ねていた。帝室であったルクセンブルク家との同盟は、1405年にヘルマン2世の娘バルバラ・ツェリスカがジギスムントと結婚してさらに緊密になり[4][6][7] 、ヘルマン2世はさらにハンガリー領であったクロアチア王国にも領土を獲得してクロアチアスラヴォニアバンになった[1]。1422年、ヘルマン2世はケルンテンからカルニオラにかけてあったオルテンブルク伯家(オルデンブルク家とは異なる)の断絶に伴い、その領土であったケルンテンのオルテンブルク伯領、シュテルンベルク伯領とカルニオラゴットシェー領を継承した。[1]

1433年にジギスムントが神聖ローマ皇帝になると、1436年11月20日にツェリェ伯家を帝国諸侯へと昇格させ、ツェリェ、オルテンブルク、シュテルンベルク伯領は帝国の封土となってハプスブルク家の臣下ではなくなった。[1]ハプスブルク家にとってツェリェ伯家は重大な政敵となり、相互相続の合意が署名された1443年まで相続戦争が行われた。

ツェリェ伯ウルリク2世は、ツェリェ家の最盛期を築いた。1432年にウルリク2世はセルビア公国の専制君主ジュラジ・ブランコヴィッチの娘カタリナと結婚した。ウルリク2世は複数国の宮廷で大きな影響力を持っており、これはツェリェ家の過去の姻戚関係に端を発していた。1439年にハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世が亡くなると、ウルリク2世はアルブレヒト2世の幼い息子ラディスラウス・ポストゥムスを傀儡とすることで、ハプスブルク家の支配下にあったハンガリー王国、ボヘミア王国、オーストリア公国において摂政の地位を獲得しようとした。そうした野心はハンガリーのフニャディ家など多くの政敵を作った。[2]ラディスラウス・ポストゥムスのボスニア王戴冠が失敗した後もツェリェ伯家はクロアチアとスラヴォニアでいくつかの領土を取得し、1452年[2]、ついに神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世はラディスラウス・ポストゥムスの身柄をウルリク2世のもとに引き渡した。これにより、ウルリク2世はハンガリーの事実上の摂政となった。

滅亡

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政敵フニャディ・ヤーノシュが1456年に世を去ると、ウルリク2世はハンガリーの提督としてヤーノシュの後を継いだ。[2]これがウルリク2世に対するフニャディ家の陰謀の端緒となり、同年11月9日[1]、ウルリク2世はベオグラードでヤーノシュの子フニャディ・ラースローの部下に暗殺された。

ウルリク2世の死によってツェリェ伯家は男系が断絶し、継承戦争の後、相続協定に基づいてすべての領土と財産がフリードリヒ3世に引き渡された。[1]

影響

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かつてのポーランド王家であるクヤヴィ・ピャスト家、神聖ローマ帝国内のゲルツ伯家、ルクセンブルク家の他に、ボスニア王家、セルビア公家、ハンガリーのマグナートであるフランコパン家とガラ家と姻戚関係にあったツェリェ伯家の滅亡は、バルカン半島北西部のキリスト教諸国の権力構造を崩壊させてオスマン帝国によるバルカン半島侵攻に壊滅的な影響を及ぼした。[1]

遺産

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ツェリェ伯家の紋章(ザンネク領主時代から使われ、1322年にホインブルク伯家から継承した青い背景に金の三つの六芒星の紋章)の一部は、1920年代にユーゴスラビア王国国章に使われ[8]、1991年以後はスロベニア国章にも使われている[9]。現在のツェリェの市章でもある。

ザンネク領主(ゾウネ男爵)とツェリェ伯の一覧

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神聖ローマ帝国の構造図におけるツェリェ伯(下段、右から2番目)

ゾフネク(ザンネク)領主、またはゾウネ男爵[10]

  • ゲブハルト(1130頃-1144)
  • ゲブハルト2世(1173–1227)
  • コンラート1世(1255頃死去)
  • ウルリク1世(1265頃死去)
  • ウルリク2世(1316頃死去)…ホインブルク伯ウルリヒ2世とバーデン辺境伯女アグネス(ヘルマン6世の娘)の娘カタリナと結婚した。
  • フリデリク1世(1300頃-1359/60)…ウルリク2世の子。1341年からツェリェ伯。

下に付す家系図のようにウルリクが1人だけであったか、表のようにウルリク1世とウルリク2世の2人がいたのかは現在不明である。[11][12]

ツェリェ(ツィリ)伯[10]

ウルリク2世の未亡人であるカタリナが暫定的に伯領を統治した(1456–1458)後、1458年にシュタイアーマルク公国へと併合された。

系図[13]

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ゲブハルト1世

1129-1144

ゾウネ領主
 
 
ゲブハルト2世

1173-1228

ゾイネケ・レンゲンブルク領主
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コンラート1世

1202-1241

レンゲンブルク・ゾイネケ領主
レオポルド2世

1224
レンゲンブルク領主

(コンラート1世の兄弟?)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゲブハルト3世
-1292
コンラート2世
-1262
レオポルト3世
-1268
 
マーガレット
(ホインブルク伯女)
ウルリク1世
-1316
 
カタリナ
(ホインブルク伯女)
ゾフィー
-1264
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンナ
(ザクセン公女)
 
 
 
フリデリク1世

-1359
ゼネケ自由領主
ツェリェ伯

(1341-)
 
 
 
ディームト
(ヴァルゼー領女)
アンナ
1318年成婚
 
ルドルフ
(リヒテンシュタイン領主)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オットー
(オルテンブルク伯)
 
アンナアルブレヒト4世
(ゲルツ伯)
 
カタリナ
 
ヨハン
(ヴァルトブルク領主)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アーデルハイト
(エッティンゲン伯女)
 
ウルリク1世
-1368
 
アーデルハイト
(オルテンブルク伯女)
カジミェシュ3世
(ポーランド王)
ヘルマン1世
-1385
 
 
 
カタリナ
(ボスニア王女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エリーザベト
(ゲルツ伯女)
 
ヴィルヘルム
-1392
 
 
 
アンナエリーザベト
(プファンベルク伯女)
 
ヨハン
-1372
ヘルマン2世
-1434
 
エリーザベト
(シャウンベルク伯女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンナ
 
ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エリーザベト
(モドルシュ伯女)
 
フリデリク2世
-1454
 
ヴェロニカ
(デセニス家女)
 
 
エルンスト
(バイエルン=ミュンヘン公)
ルートヴィヒ
-1418(?)
 
 
アンナ
 
ミクローシュ2世
(ガライ家)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エリーザベト
(アーベンスベルク伯女)
 
ヘルマン3世
-1426
 
ベアトリクスハインリヒ4世
(ゲルツ伯)
 
エリーザベトジギスムント
(神聖ローマ皇帝)
 
バルバラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘルマン1世
(モントフォート=プファンベルク伯)
 
マルガレータ
 
ラディスラウス
(グローガウ公)
アルブレヒト2世
(神聖ローマ皇帝)
 
 
 
エリーザベト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウルリク2世
-1456
 
 
 
カタリナフリデリクラディスラウス・ポストゥムス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘルマン
-1452
ゲオルグ
-1443
エリーザベト
-1455

参考文献

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k Hans Wagner (1957). Cilli. Neue Deutsche Biographie 3. Duncker & Humblot. pp. 254-255. https://www.deutsche-biographie.de/gnd119345463.html#ndbcontent 2022年1月31日閲覧。 
  2. ^ a b c d Berei, Andor (1960). Új magyar lexikon. Akadémiai Kiadó. p. 448. ISBN 963-05-0773-0 
  3. ^ 29 June according to Gurk Cathedral Archived 2006-02-05 at the Wayback Machine.
  4. ^ a b c d Enciklopedija Slovenije II, 1988, f. 13 COBISS 17411
  5. ^ a b Zavod Celeia Celje. “CELJE” (スロベニア語)(英語). 2022年1月29日閲覧。
  6. ^ a b 柴宜弘、アンドレイ・ベケシュ、山崎信一編著『スロヴェニアを知るための60章』明石書店、2017年9月10日、97頁。ISBN 978-4-7503-4560-4 
  7. ^ 瀬原義生『ドイツ中世後期の歴史像』文理閣、2011年、240頁。 
  8. ^ Fugger Germandik, Rolanda (2013) (Slovenian). Grofje Celjski med zgodovino in mitom [Counts of Celje Between History and Myth]. ISBN 978-961-6845-04-5 
  9. ^ “Zakon o grbu, zastavi in himni Republike Slovenije ter o slovenski narodni zastavi [The Law on the Coat of Arms, the Flag and the Anthem of the Republic of Slovenia and on the Slovene National Flag]” (Slovenian). Uradni list [Official Gazette]. (21 October 1994). http://www.uradni-list.si/1/objava.jsp?urlid=199467&stevilka=2392 
  10. ^ a b Enciklopedija Slovenije II, 1988, f. 14 COBISS 17411COBISS 17411
  11. ^ Sitar, Sandi (1999). Sto pričevanj o slovenski zgodovini. Prešernova družba. p. 68 
  12. ^ Fugger Germadnik Romanda et al. (2001): Razstava Grofje Celjski (1999; Celje). Celje, Pokrajninski muzej Celje. Str. 13.
  13. ^ Kalchberg, Johann Ritter von (1878). Schlosser, Anton. ed (ドイツ語). Johann Ritter von Kalchberg's Gesammelte Schriften. 2. Braumüller. p. 39. https://www.digitale-sammlungen.de/de/view/bsb11377256?page=1 2022年3月14日閲覧。 

 

外部リンク

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