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'''クン・エルジェーベト'''({{lang-hu|Kun Erzsébet}}、[[1239年]]頃 - [[1290年]]?)は、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[イシュトヴァーン5世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン5世]]の妃である。子の[[ラースロー4世 (ハンガリー王)|ラースロー4世]]が未成年だった[[1272年]]から[[1277年]]には[[摂政]]を務めた。クンは[[クマン族]]の意味で、エルジェーベトは[[洗礼名]]である{{refnest|group="注"|「クマン族」はハンガリー史上の名称であり、彼女の父はルーシ史上では「ポロヴェツ族」の「コチャン」という名で記録されているが、便宜上、本頁ではクマン族で統一する。なお、洗礼前の彼女を指す場合も「エルジェーベト」が用いられている。}}。 |
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==生涯== |
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===摂政と息子=== |
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[[1270年]]5月3日、ベーラ4世は死去し、夫のイシュトヴァーン5世がハンガリー王となった。そのイシュトヴァーンは[[1272年]]8月6日に死去し、エルジェーベトは10歳の息子・[[ラースロー4世]]の摂政となった。エルジェーベトの摂政としての統治は1277年まで続いた。一方、彼女が息子を得たことは、新たな問題を生じさせた。息子のラースローは台頭してきた貴族に対抗するために<ref name='ド史p56'>『ドナウ・ヨーロッパ史』p56</ref>、母の血統であるクマン族の社会を支持した。ラースローはクマン族の服を身に着け、クマン族の側室に囲まれていた。[[エステルゴム大司教]]ロドメールは、異教徒のクマン族とラースローの結束によって教会勢力が危ぶまれることを危惧し、[[ローマ教皇]]の援助をも得て非難したが<ref>『ハンガリー史 1』p97</ref>、ラースローはこのエステルゴム大司教からのクマン族改宗の請求も退けた<ref name='ド史p56'></ref>。同様にハンガリー貴族は遠ざけられた。後に、ハンガリー貴族の忠誠を買おうと試みたときは、代わりにクマン族が遠ざけられた。 |
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[[1290年]]7月10日、ラースロー4世はビハール[[:en:Bihar County|(en)]]での野営中、貴族に雇われたクマン族に殺された<ref>『ハンガリー史 1』p98</ref>。おそらく、エルジェーベトもこの時に死亡したとみなされている。ラースローの後継者の[[アンドラーシュ3世]]の治世期の史料には、エルジェーベトに関する言及がない。よって、エルジェーベトは1290年に死去したとするのが伝統的な解釈である。 |
[[1290年]]7月10日、ラースロー4世はビハール[[:en:Bihar County|(en)]]での野営中、貴族に雇われたクマン族に殺された<ref>『ハンガリー史 1』p98</ref>。おそらく、エルジェーベトもこの時に死亡したとみなされている。ラースローの後継者の[[アンドラーシュ3世]]の治世期の史料には、エルジェーベトに関する言及がない。よって、エルジェーベトは1290年に死去したとするのが伝統的な解釈である。 |
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*[[マリア・ドゥンゲリア|マーリア]]:[[ナポリ王国|ナポリ王]][[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]と結婚。 |
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*アンナ{{enlink|Anna of Hungary (1260–1281)|a=on}}:[[東ローマ帝国|ビザンツ皇帝]][[アンドロニコス2世パレオロゴス]]と結婚。 |
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*[[ラースロー4世]]:ハンガリー王。 |
*[[ラースロー4世 (ハンガリー王)|ラースロー4世]]:ハンガリー王。 |
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*アンドラーシュ:スラヴォニア公。 |
*アンドラーシュ:スラヴォニア公。 |
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2021年5月24日 (月) 21:39時点における版
クン・エルジェーベト Kun Erzsébet | |
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ハンガリー王妃 | |
| |
在位 | 1270年 - 1272年 |
出生 |
1239年頃 |
死去 |
1290年? |
結婚 | 1253年 |
配偶者 | ハンガリー王イシュトヴァーン5世 |
子女 |
エルジェーベト (en) カタリン (en) マーリア アンナ (en) ラースロー4世 アンドラーシュ |
父親 | クマン族のハン・ケテニュ |
クン・エルジェーベト(ハンガリー語: Kun Erzsébet、1239年頃 - 1290年?)は、ハンガリー王イシュトヴァーン5世の妃である。子のラースロー4世が未成年だった1272年から1277年には摂政を務めた。クンはクマン族の意味で、エルジェーベトは洗礼名である[注 1]。
生涯
父の死
エルジェーベトは1239年から1240年頃に生まれた。おそらく、クマン族のハン・ケテニュの娘である。クマン族はテュルク諸語のクマン語(en)(ポロヴェツ語(ru))またはキプチャク語(en)を話す、クマン・キプチャク連合の西の部族である。ヨーロッパのキリスト教徒からは、シャーマニズムを信仰する異教徒であるとみなされていた。
1238年、父のケテニュはモンゴルのルーシ侵攻を逃れ、同族を率いてハンガリー王国へ入った。ハンガリー王ベーラ4世はクマン族と同盟を結び、彼らがカトリックへ改宗し、ハンガリーの王位に忠誠を誓うことを条件に、ドナウ川とティサ川の間に居住地を提供した。この待遇は、ベーラ4世にとっては国境防衛の意味合いがあった[1]。一方、遊牧生活をおくるクマン族の家畜が農作物に被害を与え、付近の農民との間に摩擦が生じるようになると、ベーラ4世と対立する貴族たちは、この摩擦をベーラ4世への非難に利用した[2]。いずれにせよこの同盟は、ケテニュの娘のエルジェーベトと、ベーラ4世の長男のイシュトヴァーン5世との婚姻によって、より堅実なものとなった。同盟締結時、おそらくイシュトヴァーンはまだ赤子だった。また、エルジェーベトがイシュトヴァーンより年上であったかは疑わしい。
1241年、バトゥとスブタイの率いるモンゴル帝国軍のヨーロッパ侵攻(en)が始まると、寝返りを恐れたハンガリーの貴族によってケテニュは殺された。一方ハンガリー軍は同年4月11日のモヒの戦いに敗れた。しかし、モンゴル帝国の大ハーン(en)・オゴデイ崩御の知らせが届くと、バトゥは後継者を決めるクリルタイへ参加するために、カラコルムへの帰還を決めた。そのようにして、ハンガリーはモンゴルから放棄された。
結婚
父のケテニュは死んだが、結婚の約束はまだ有効だった。ケテニュの死後クマン族はブルガリア王国へ去っていたが、ベーラ4世は結婚によって再びクマン族との結びつきを強め、彼らの軍事力を利用しようとした[3]。イシュトヴァーン5世との婚儀は1253年に執り行われた。エルジェーベトは結婚の準備の過程でカトリックに改宗した。新郎は12歳であり、花嫁エルジェーベトもまた同じぐらいの年齢だった。1262年、イシュトヴァーンは、ボヘミア王オタカル2世に対する戦争に援軍を送った褒賞として、29の管区を父に要求した。領土を得、イシュトヴァーンは「若王」として戴冠された。若王とは国王の在位中に戴冠したアールパード朝ハンガリー王国の皇太子に冠された称号であり、東ハンガリーにおいて王権を行使することができた[4]。つまり実質的には、彼の得た管区は独立した王国として統治された。エルジェーベトは王妃となった。
摂政と息子
1270年5月3日、ベーラ4世は死去し、夫のイシュトヴァーン5世がハンガリー王となった。そのイシュトヴァーンは1272年8月6日に死去し、エルジェーベトは10歳の息子・ラースロー4世の摂政となった。エルジェーベトの摂政としての統治は1277年まで続いた。一方、彼女が息子を得たことは、新たな問題を生じさせた。息子のラースローは台頭してきた貴族に対抗するために[5]、母の血統であるクマン族の社会を支持した。ラースローはクマン族の服を身に着け、クマン族の側室に囲まれていた。エステルゴム大司教ロドメールは、異教徒のクマン族とラースローの結束によって教会勢力が危ぶまれることを危惧し、ローマ教皇の援助をも得て非難したが[6]、ラースローはこのエステルゴム大司教からのクマン族改宗の請求も退けた[5]。同様にハンガリー貴族は遠ざけられた。後に、ハンガリー貴族の忠誠を買おうと試みたときは、代わりにクマン族が遠ざけられた。
1290年7月10日、ラースロー4世はビハール(en)での野営中、貴族に雇われたクマン族に殺された[7]。おそらく、エルジェーベトもこの時に死亡したとみなされている。ラースローの後継者のアンドラーシュ3世の治世期の史料には、エルジェーベトに関する言及がない。よって、エルジェーベトは1290年に死去したとするのが伝統的な解釈である。
子女
エルジェーベトとイシュトヴァーン5世との間の子として、以下の6人の人物が知られている。
- エルジェーベト (en) :初めファルケンシュテイン (en) 領主ザーヴィシュ(Záviš z Falkenštejna) (en) と結婚(注:人名はチェコ語表記)。次にセルビア王ステファン・ウロシュ2世ミルティンと結婚。
- カタリン (en) :セルビア王ステファン・ドラグティンと結婚。
- マーリア:ナポリ王カルロ2世と結婚。
- アンナ (en) :ビザンツ皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスと結婚。
- ラースロー4世:ハンガリー王。
- アンドラーシュ:スラヴォニア公。
脚注
注釈
- ^ 「クマン族」はハンガリー史上の名称であり、彼女の父はルーシ史上では「ポロヴェツ族」の「コチャン」という名で記録されているが、便宜上、本頁ではクマン族で統一する。なお、洗礼前の彼女を指す場合も「エルジェーベト」が用いられている。
出典
- ^ 『ドナウ・ヨーロッパ史』p47
- ^ 『ハンガリー史 1』p87
- ^ 『ハンガリー史 1』p95
- ^ 『ハンガリー史 1』p85
- ^ a b 『ドナウ・ヨーロッパ史』p56
- ^ 『ハンガリー史 1』p97
- ^ 『ハンガリー史 1』p98
参考文献
- ブリタニカ百科事典第11版
- Marek, Miroslav. "A listing of descendants of Árpád dynasty, including her husband and children". Genealogy.EU.
- Cawley, Charles, Medieval Lands . Foundation for Medieval Genealogy.
- Her profile in Peerage.com
- 南塚信吾編 『ドナウ・ヨーロッパ史』(新版 世界各国史19)、山川出版社、1999年。
- パムレーニ・エルヴィン編、田代文雄・鹿島正裕訳『ハンガリー史 1』(増補版)恒文社、1990年。