「ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (カーロイ1世 (ハンガリー王)) - log |
|||
43行目: | 43行目: | ||
* [[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]](1296年 - 1346年) ボヘミア王およびルクセンブルク伯。皇帝[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の父。 |
* [[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]](1296年 - 1346年) ボヘミア王およびルクセンブルク伯。皇帝[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の父。 |
||
* [[マリー・ド・リュクサンブール|マリー]](1304年 - 1324年) フランス王[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]の妃。 |
* [[マリー・ド・リュクサンブール|マリー]](1304年 - 1324年) フランス王[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]の妃。 |
||
* [[ベアトリクス・フォン・ルクセンブルク|ベアトリクス]](1305年 - 1319年) ハンガリー王[[カーロイ1世]]の妃。 |
* [[ベアトリクス・フォン・ルクセンブルク|ベアトリクス]](1305年 - 1319年) ハンガリー王[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]の妃。 |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
2021年5月24日 (月) 21:43時点における版
ハインリヒ7世 Heinrich VII. | |
---|---|
ローマ皇帝 | |
| |
在位 |
1308年 - 1313年(ローマ王) 1312年 - 1313年(ローマ皇帝) |
別号 | ルクセンブルク伯 |
出生 |
1275年 神聖ローマ帝国 エノー伯国、ヴァランシエンヌ |
死去 |
1313年8月24日 神聖ローマ帝国 イタリア王国、ブオンコンヴェント |
埋葬 | ピサ大聖堂 |
配偶者 | マルグリット・フォン・ブラバント |
子女 |
ヨハン マリー ベアトリクス |
家名 | ルクセンブルク家 |
父親 | ルクセンブルク伯ハインリヒ6世 |
母親 | ベアトリス・ダヴェーヌ |
ハインリヒ7世(Heinrich VII., 1275年 - 1313年8月24日)は神聖ローマ帝国の皇帝。ルクセンブルク家の初代皇帝(在位:1312年 - 1313年)にしてローマ王(ドイツ王)(在位:1308年 - 1313年)。ルクセンブルク伯(在位:1288年 - 1310年)でもある。フランス語を母語とし(ドイツ語も堪能)、フランス王の封建家臣でもあった[1][2]。フランス名はアンリ(Henri)。ルクセンブルク伯ハインリヒ6世の子。皇帝としてはハインリヒ「6世」であるが、皇帝ではなかった東フランク王(ドイツ王)ハインリヒ1世から数えて「7世」とするのが一般的である。1250年にフリードリヒ2世が死去して以来、62年ぶりに皇帝の称号を復活させ、神聖ローマ帝国に秩序をもたらす君主としてルネサンス文化人に期待された。
生涯
もともとは父の後を継いだルクセンブルク伯に過ぎなかったが、1308年にアルプレヒト1世が暗殺されると、教皇クレメンス5世および弟トリーア大司教バルドゥインやマインツ大司教ペーター・フォン・アスペルト( ミンネゼンガー フラウエンロープの晩年の支援者)ら選帝侯の支持を受け、即位することとなった[3]。ローマ王(ドイツ王)への選出は1308年11月27日、アーヘンでの戴冠は1309年1月6日[4]。この背景にはフランス王フィリップ4世が弟シャルルをローマ王に据えようとする動きを阻止したいという教皇や選帝侯の意図があった[5]。
1309年にはスイスの一部を領有し、翌年には息子ヨハンとボヘミア王(ハンガリーとポーランドの王も兼ねた)ヴァーツラフ3世の妹エリシュカとの縁組の結果、ボヘミア王位を自家に獲得するなど[6]、一族の勢力を短期間のうちに拡大させ、ルクセンブルク家は一躍神聖ローマ帝国における最有力の勢力となった。
ハインリヒ7世はさらに、皇帝戴冠式を行うためローマへと向かう。しかし皇帝の侵入によりイタリアの内乱はたちまち激化し、ローマに辿り着くまでには2年という時間を要した。しかもアヴィニョンの教皇はローマに姿を現わすことはなく、しかたなくハインリヒは枢機卿から帝冠を受けることとなった。その後、ナポリへの遠征を行うが、その最中にマラリアで死去する[7]。皇帝権力の伸長を嫌うフランスや教皇派により暗殺されたとも考えられている[8]。葬儀は1313年9月2日、日曜日にピサ大聖堂で営まれ、同日埋葬されたが、後に石棺は近隣のカンポサント(Camposanto)に移された。しかし、ダンテ没後600年記念の1921年に、当時イタリアの文部大臣であった哲学者・歴史学者ベネデット・クローチェは、石棺をピサの大聖堂に戻した[9]。
イタリア遠征のとき、詩人で有名なダンテは『帝政論』で彼を絶賛している[10]。ダンテによる理想化は、後世の人々の皇帝に対するイメージに大きな影響を与えた[11]。フィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニはハインリヒに期待をかけ、その年代記の中で「神の子羊」「イタリアの矯正者」と呼びかけている。
家族
1292年にブラバント公ジャン1世の娘マルグリット(マルガレーテ、1276年 - 1311年)と結婚し、1男2女をもうけた。
- ヨハン(1296年 - 1346年) ボヘミア王およびルクセンブルク伯。皇帝カール4世の父。
- マリー(1304年 - 1324年) フランス王シャルル4世の妃。
- ベアトリクス(1305年 - 1319年) ハンガリー王カーロイ1世の妃。
脚注
- ^ 成瀬 他、p. 297
- ^ 鈴本、p. 17
- ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2), Sp. 2048.
- ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2), Sp. 2047-2048.
- ^ 鈴本、p. 16 - 17
- ^ 鈴本、p. 24
- ^ 成瀬 他、p.298
- ^ 菊池、p. 144
- ^ Kaiser Heinrichs Romfahrt. Die Bilderchronik von Kaiser Heinrich VII. und Kurfürst Balduin von Luxemburg 1308-1313. Mit einer Einleitung und Erläuterungen herausgegeben von Franz-Josef Heyen. Deutscher Taschenbuch Verlag 1978 (ISBN 3-423-01358-3), S. 122.
- ^ 鈴本、p. 31 - 32
- ^ Kaiser Heinrichs Romfahrt. Die Bilderchronik von Kaiser Heinrich VII. und Kurfürst Balduin von Luxemburg 1308-1313. Mit einer Einleitung und Erläuterungen herausgegeben von Franz-Josef Heyen. Deutscher Taschenbuch Verlag 1978 (ISBN 3-423-01358-3), S. 35.
参考文献
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
- 鈴本達哉 『ルクセンブルク家の皇帝たち』 近代文芸社、1997年
- 菊池良生 『神聖ローマ帝国』 講談社現代新書、2003年
- G. トラウシュ 『ルクセンブルクの歴史‐小さな国の大きな歴史‐』 刀水書房、1999年
- Kaiser Heinrichs Romfahrt. Die Bilderchronik von Kaiser Heinrich VII. und Kurfürst Balduin von Luxemburg 1308-1313. Mit einer Einleitung und Erläuterungen herausgegeben von Franz-Josef Heyen. Deutscher Taschenbuch Verlag 1978 (ISBN 3-423-01358-3)〔1340年頃トリーアで製作された写本の73個の絵は、ハインリヒ7世の事績、特にそのローマ遠征を見事に活写している〕
- Lexikon des Mittelalters. Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2), Sp. 2047-2049 (Beitrag von H. Thomas zu ‚Heinrich VII., röm.-dt. Kg., Ks.‘).
関連項目
|
|
|
|