「フランチェスコ1世・ダ・カッラーラ」の版間の差分
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フランチェスコは[[モンツァ]]で生まれ、25歳の時に父の[[ジャコモ2世・ダ・カッラーラ]]が暗殺されると、民衆の支持を受けてパドヴァ領主を継いだ。1356年、[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]から皇帝代理に任じられた。1360年には[[ハンガリー王]][[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]によって[[フェルトレ]]と[[ベッルーノ]]を獲得し、[[トレント自治県|トレント]]の貿易を支配する[[バルスガナ]]も手に入れた。1372年から1373年にかけては強力な隣国[[ヴェネツィア共和国]]と戦ったが益は無かった。[[キオッジャ戦争]]中の1375年から1381年には[[ジェノヴァ共和国]]に与してヴェネツィアと戦い、[[オーストリア公]][[レオポルト3世]]から[[トレヴィゾ]]を受け取った。 |
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1385年、[[ヴェローナ]]の領主[[スカリジェ家]]に対抗して[[ミラノ]]の[[僭主]][[ヴィスコンティ家]]の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]と同盟した。1387年、[[ジョン・ホークウッド]]率いるパドヴァ軍は[[カスタニャーロの戦い]]でヴェローナ軍を破った。しかし翌年、ミラノはフランチェスコ1世を裏切ってヴェネツィアと共にパドヴァ包囲網を組んだため、フランチェスコ1世は息子の[[フランチェスコ2世・ダ・カッラーラ|フランチェスコ2世]]に譲位して[[ロンバルディア]]へ亡命を余儀なくされた。フランチェスコ1世の身柄はジャン・ガレアッツォによって[[コモ]]、次いでモンツァに移され、そこで1393年に没した。 |
1385年、[[ヴェローナ]]の領主[[スカリジェ家]]に対抗して[[ミラノ]]の[[僭主]][[ヴィスコンティ家]]の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]と同盟した。1387年、[[ジョン・ホークウッド]]率いるパドヴァ軍は[[カスタニャーロの戦い]]でヴェローナ軍を破った。しかし翌年、ミラノはフランチェスコ1世を裏切ってヴェネツィアと共にパドヴァ包囲網を組んだため、フランチェスコ1世は息子の[[フランチェスコ2世・ダ・カッラーラ|フランチェスコ2世]]に譲位して[[ロンバルディア]]へ亡命を余儀なくされた。フランチェスコ1世の身柄はジャン・ガレアッツォによって[[コモ]]、次いでモンツァに移され、そこで1393年に没した。 |
2021年5月24日 (月) 21:58時点における最新版
フランチェスコ1世・ダ・カッラーラ Francesco I da Carrara | |
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パドヴァ領主 | |
在位 | 1350年 - 1388年 |
出生 |
1325年9月29日 モンツァ |
死去 |
1393年10月6日(68歳没) モンツァ |
配偶者 | フィーナ・ブッザッカリーニ |
子女 |
フランチェスコ2世 チェチーリア |
家名 | カッラーラ家 |
父親 | ジャコモ2世・ダ・カッラーラ |
フランチェスコ1世・ダ・カッラーラ (イタリア語:Francesco I da Carrara、1325年9月29日 - 1393年10月6日) は、パドヴァの領主(在位:1350年 - 1388年)。通称イル・ヴェッキオ(il Vecchio、老公)。
生涯[編集]
フランチェスコはモンツァで生まれ、25歳の時に父のジャコモ2世・ダ・カッラーラが暗殺されると、民衆の支持を受けてパドヴァ領主を継いだ。1356年、神聖ローマ皇帝カール5世から皇帝代理に任じられた。1360年にはハンガリー王ラヨシュ1世によってフェルトレとベッルーノを獲得し、トレントの貿易を支配するバルスガナも手に入れた。1372年から1373年にかけては強力な隣国ヴェネツィア共和国と戦ったが益は無かった。キオッジャ戦争中の1375年から1381年にはジェノヴァ共和国に与してヴェネツィアと戦い、オーストリア公レオポルト3世からトレヴィゾを受け取った。
1385年、ヴェローナの領主スカリジェ家に対抗してミラノの僭主ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと同盟した。1387年、ジョン・ホークウッド率いるパドヴァ軍はカスタニャーロの戦いでヴェローナ軍を破った。しかし翌年、ミラノはフランチェスコ1世を裏切ってヴェネツィアと共にパドヴァ包囲網を組んだため、フランチェスコ1世は息子のフランチェスコ2世に譲位してロンバルディアへ亡命を余儀なくされた。フランチェスコ1世の身柄はジャン・ガレアッツォによってコモ、次いでモンツァに移され、そこで1393年に没した。
人物[編集]
フランチェスコ1世は芸術家のパトロンであり、パドヴァ大学を支援した。フランチェスコ・ペトラルカは彼の友人であり、アルクァ(現アルクァ・ペトラルカ)に領地を与えている。
家族[編集]
フィーナ・ブッザッカリーニと結婚し、娘チェチーリア・ダ・カッラーラはザクセン選帝侯ヴェンツェルに嫁いでいる。
関連リンク[編集]
- Biography at Rinascimento.it (イタリア語)
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