「アンナ・ヤギエロ」の版間の差分
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (ウラースロー2世 (ハンガリー王)) - log |
||
22行目: | 22行目: | ||
|子女={{Collapsible list|title=一覧参照|[[エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1526-1545)|エリーザベト]]<br/>[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]<br/>[[アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)|アンナ]]<br/>[[フェルディナント2世 (オーストリア大公)|フェルディナント2世]]<br/>[[マリア・フォン・エスターライヒ (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公妃)|マリア]]<br/>[[マグダレーナ・フォン・エスターライヒ|マグダレーナ]]<br/>[[カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1533-1572)|カタリーナ]]<br/>[[エレオノーレ・フォン・エスターライヒ (1534-1594)|エレオノーレ]]<br/>[[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (1536-1567)|マルガレーテ]]<br/>[[バルバラ・ダウストリア|バルバラ]]<br/>[[カール2世 (オーストリア大公)|カール2世]]<br/>[[ヘレーナ・フォン・エスターライヒ|ヘレーナ]]<br/>[[ジョヴァンナ・ダズブルゴ|ヨハンナ]]}} |
|子女={{Collapsible list|title=一覧参照|[[エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1526-1545)|エリーザベト]]<br/>[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]<br/>[[アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)|アンナ]]<br/>[[フェルディナント2世 (オーストリア大公)|フェルディナント2世]]<br/>[[マリア・フォン・エスターライヒ (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公妃)|マリア]]<br/>[[マグダレーナ・フォン・エスターライヒ|マグダレーナ]]<br/>[[カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1533-1572)|カタリーナ]]<br/>[[エレオノーレ・フォン・エスターライヒ (1534-1594)|エレオノーレ]]<br/>[[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (1536-1567)|マルガレーテ]]<br/>[[バルバラ・ダウストリア|バルバラ]]<br/>[[カール2世 (オーストリア大公)|カール2世]]<br/>[[ヘレーナ・フォン・エスターライヒ|ヘレーナ]]<br/>[[ジョヴァンナ・ダズブルゴ|ヨハンナ]]}} |
||
|家名=[[ヤギェウォ家]] |
|家名=[[ヤギェウォ家]] |
||
|父親=ベーメン・ハンガリー王[[ウラースロー2世]] |
|父親=ベーメン・ハンガリー王[[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]] |
||
|母親=[[アンヌ・ド・フォワ|ツァンダレ=イ・アンナ]] |
|母親=[[アンヌ・ド・フォワ|ツァンダレ=イ・アンナ]] |
||
|宗教= |
|宗教= |
||
}} |
}} |
||
{{commonscat|Anna of Bohemia and Hungary}} |
{{commonscat|Anna of Bohemia and Hungary}} |
||
'''アンナ・ヤギエロ'''({{lang-de-short|Anna Jagiello}})または'''アンナ・フォン・ベーメン・ウント・ウンガルン'''({{lang-de-short|Anna von Böhmen und Ungarn}}, [[1503年]][[7月23日]] - [[1547年]][[1月27日]]{{要出典|date=2021-04}})は、[[ローマ王]]<ref>フェルディナント1世は[[神聖ローマ皇帝]]にもなったが、それはアンナの死後であり、それまでは[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が皇帝に在位していてフェルディナントは副帝的な立場であった。</ref>および[[ボヘミア王冠領|ベーメン]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]の妃。ベーメンとハンガリーの王[[ウラースロー2世]]の長女。[[チェコ語]]名は'''アンナ・ヤゲロンスカー'''(Anna Jagellonská)、[[ハンガリー語]]名は'''ヤゲロー・アンナ'''({{lang|hu|Jagelló Anna}})。 |
'''アンナ・ヤギエロ'''({{lang-de-short|Anna Jagiello}})または'''アンナ・フォン・ベーメン・ウント・ウンガルン'''({{lang-de-short|Anna von Böhmen und Ungarn}}, [[1503年]][[7月23日]] - [[1547年]][[1月27日]]{{要出典|date=2021-04}})は、[[ローマ王]]<ref>フェルディナント1世は[[神聖ローマ皇帝]]にもなったが、それはアンナの死後であり、それまでは[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が皇帝に在位していてフェルディナントは副帝的な立場であった。</ref>および[[ボヘミア王冠領|ベーメン]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]の妃。ベーメンとハンガリーの王[[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]]の長女。[[チェコ語]]名は'''アンナ・ヤゲロンスカー'''(Anna Jagellonská)、[[ハンガリー語]]名は'''ヤゲロー・アンナ'''({{lang|hu|Jagelló Anna}})。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
2021年5月24日 (月) 22:13時点における版
アンナ・ヤギエロ Anna Jagiello | |
---|---|
ローマ王妃 ハンガリー王妃 ボヘミア王妃 | |
在位 |
ハンガリー王妃・ボヘミア王妃: 1526年8月29日 - 1547年1月27日 ローマ(ドイツ)王妃: 1531年 - 1547年1月27日 |
出生 |
1503年7月23日 ハンガリー王国、ブダ |
死去 |
1547年1月27日(43歳没) 神聖ローマ帝国 ベーメン王国、プラハ |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ベーメン王国、プラハ、聖ヴィート大聖堂 |
結婚 | 1521年5月26日 リンツ |
配偶者 | ローマ王フェルディナント1世 |
子女 | |
家名 | ヤギェウォ家 |
父親 | ベーメン・ハンガリー王ウラースロー2世 |
母親 | ツァンダレ=イ・アンナ |
アンナ・ヤギエロ(独: Anna Jagiello)またはアンナ・フォン・ベーメン・ウント・ウンガルン(独: Anna von Böhmen und Ungarn, 1503年7月23日 - 1547年1月27日[要出典])は、ローマ王[1]およびベーメンとハンガリーの王フェルディナント1世の妃。ベーメンとハンガリーの王ウラースロー2世の長女。チェコ語名はアンナ・ヤゲロンスカー(Anna Jagellonská)、ハンガリー語名はヤゲロー・アンナ(Jagelló Anna)。
生涯
1515年にヤギェウォ家とハプスブルク家の二重結婚(ウィーン二重結婚)が決定されるが、この時点ではアンナの夫は未定で、代わりに皇帝マクシミリアン1世と代理結婚した。1521年、リンツにてマクシミリアン1世の孫のフェルディナントと正式に結婚した。また翌1522年には弟ラヨシュ2世とフェルディナントの妹マリアが結婚した。
ラヨシュ2世は1526年にモハーチの戦いでオスマン帝国軍に敗れ、20歳で戦死した。王妃マリアとの間に嗣子がなかったため、アンナの夫フェルディナントがハンガリーとベーメンの王に選ばれ、アンナは王妃となった。フェルディナントは兄カール5世の皇帝在位中の1531年にローマ王にもなった(アンナの死後の1556年に兄から皇帝位を譲られた)。
アンナは夫に助言し、できる限り付き従った。
1547年1月27日、プラハにて44歳で死去した。アンナ死後のフェルディナント1世は決して髭を剃らず、質素に暮らし引きこもりがちになったという。
人物
- 「いとも麗しく、いとも雅やかな」と評される美貌の持ち主だった。
- アンナは小柄な女性であったが、夫フェルディナントも長身ではなく似合いの夫婦だった。
子女
政略結婚であったが2人の結婚は幸福なものであり、フェルディナント1世との間に4男11女をもうけた。ハプスブルク家の多産の伝統の先駆けである。
- エリーザベト(1526年 - 1545年) - ポーランド王ジグムント2世アウグスト妃
- マクシミリアン2世(1527年 - 1576年) - 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世
- アンナ(1528年 - 1590年) - バイエルン公アルブレヒト5世妃
- フェルディナント2世(1529年 - 1595年) - 前方オーストリア大公、チロルの領主。フィリッピーネ・ヴェルザーとの貴賎結婚で知られる。
- マリア(1531年 - 1581年) - ユーリヒ=クレーフェ公ヴィルヘルム妃
- マグダレーナ(1532年 - 1590年) - ハル女子修道院長
- カタリーナ(1533年 - 1572年) - マントヴァ公フランチェスコ3世妃、ポーランド王ジグムント2世アウグスト妃
- エレオノーレ(1534年 - 1594年) - マントヴァ公グリエルモ妃
- マルガレーテ(1536年 - 1566年) - 修道女
- ヨーハン(1538年 - 1539年)
- バルバラ(1539年 - 1572年) - フェラーラ公アルフォンソ2世妃
- カール2世(1540年 - 1590年) - 内オーストリア大公、フェルディナント2世の父。
- ウルスラ(1541年 - 1543年)
- ヘレーナ(1543年 - 1574年) - 修道女
- ヨハンナ(1546年 - 1578年) - トスカーナ大公フランチェスコ1世妃
長男マクシミリアンは、フェルディナント1世の祖父マクシミリアン1世にちなんで名付けられた。次男フェルディナントには、彼女が夫の名を付けることを熱望したためこの名となった。
ポーランド王国において国王自由選挙によって国王が選出されるようになると、アンナの息子マクシミリアン2世やその息子マクシミリアン大公が立候補している。さらに、アンナの血筋を根拠にしたかどうかは定かではないが、子孫であるカール・シュテファン大公が、第一次世界大戦中にドイツ帝国の衛星国であるポーランド摂政王国の国王候補者に推されている。