コンテンツにスキップ

「ナーダシュディ・タマーシュ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
6行目: 6行目:
ナダーシュディ・フェレンツ(1世)の息子として生まれ、貴族の子弟として幅広い教育を受け、[[グラーツ]]、[[ボローニャ]]、[[ローマ]]に遊学した。1535年、由緒ある大貴族家門[[カニジャイ家]]([[:de:Kanizsay|Kanizsay]])の最後の末裔である[[カニジャイ・オルショリャ]]と結婚し、同家の資産を受け継いだ。この資産の中にはシャールヴァール城([[ナーダシュディ城]]、[[:de:Schloss Nádasdy|Sárvári vár]])が含まれており、ナーダシュディはこの城を[[ルネサンス]]様式に改築させた。オルショリャとの結婚により、ナーダシュディはハンガリーで最も裕福な大地主([[マグナート]])の1人となった。
ナダーシュディ・フェレンツ(1世)の息子として生まれ、貴族の子弟として幅広い教育を受け、[[グラーツ]]、[[ボローニャ]]、[[ローマ]]に遊学した。1535年、由緒ある大貴族家門[[カニジャイ家]]([[:de:Kanizsay|Kanizsay]])の最後の末裔である[[カニジャイ・オルショリャ]]と結婚し、同家の資産を受け継いだ。この資産の中にはシャールヴァール城([[ナーダシュディ城]]、[[:de:Schloss Nádasdy|Sárvári vár]])が含まれており、ナーダシュディはこの城を[[ルネサンス]]様式に改築させた。オルショリャとの結婚により、ナーダシュディはハンガリーで最も裕福な大地主([[マグナート]])の1人となった。


1521年、教皇使節・[[ドミニコ会]]総長の[[トマス・カイェタン]]枢機卿の通訳として、枢機卿の[[ブダ]]訪問に随行している。1525年にはハンガリーの国務会議の一員となり、[[ラヨシュ2世]]王の命を受けて、直前に迫るオスマン帝国との戦争で支援を得るため、[[シュパイヤー]]の帝国議会に赴いている。翌1526年の[[モハーチの戦い]]でハンガリー王国が政治的破局を迎えた後、国王未亡人[[マリア・フォン・エスターライヒ|マリア]]が[[コマーロム]]から[[ポジョニ]]へ移る際に随行している。1527年には[[ハプスブルク家]]の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]大公をハンガリー王位に就けるために重要な役割を果たした。翌1528年には[[タタ (ハンガリー)|タタ]]の要塞の司令官に任命され、[[チェスネキー・ジェルジ]]([[:hu:Cseszneky György|Cseszneky György]])伯爵とともに[[ジェール]]を占領した。
1521年、教皇使節・[[ドミニコ会]]総長の[[トマス・カイェタン]]枢機卿の通訳として、枢機卿の[[ブダ]]訪問に随行している。1525年にはハンガリーの国務会議の一員となり、[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]王の命を受けて、直前に迫るオスマン帝国との戦争で支援を得るため、[[シュパイヤー]]の帝国議会に赴いている。翌1526年の[[モハーチの戦い]]でハンガリー王国が政治的破局を迎えた後、国王未亡人[[マリア・フォン・エスターライヒ|マリア]]が[[コマーロム]]から[[ポジョニ]]へ移る際に随行している。1527年には[[ハプスブルク家]]の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]大公をハンガリー王位に就けるために重要な役割を果たした。翌1528年には[[タタ (ハンガリー)|タタ]]の要塞の司令官に任命され、[[チェスネキー・ジェルジ]]([[:hu:Cseszneky György|Cseszneky György]])伯爵とともに[[ジェール]]を占領した。


1529年、ハンガリー軍司令官としてブダをオスマン帝国軍から防衛することになった。ところが自軍の中の裏切り者に捕えられ、監禁されたうえに鎖を着けられてトルコ軍に引き渡された。ところがブダを占領したトルコの[[大宰相]][[パルガル・イブラヒム・パシャ]]はナーダシュディを解放した。解放後、ナダーシュディはハンガリーの対立王[[サポヤイ・ヤーノシュ]]の陣営に加わり、1530年にはフェルディナント1世の軍隊からブダを防衛することに成功した。ところが1533年、サポヤイの寵臣ルドヴィーコ・グリッティ([[:en:Lodovico Gritti|Lodovico Gritti]])との政争に敗れたことに怒り、再びフェルディナント1世の宮廷に出仕した。
1529年、ハンガリー軍司令官としてブダをオスマン帝国軍から防衛することになった。ところが自軍の中の裏切り者に捕えられ、監禁されたうえに鎖を着けられてトルコ軍に引き渡された。ところがブダを占領したトルコの[[大宰相]][[パルガル・イブラヒム・パシャ]]はナーダシュディを解放した。解放後、ナダーシュディはハンガリーの対立王[[サポヤイ・ヤーノシュ]]の陣営に加わり、1530年にはフェルディナント1世の軍隊からブダを防衛することに成功した。ところが1533年、サポヤイの寵臣ルドヴィーコ・グリッティ([[:en:Lodovico Gritti|Lodovico Gritti]])との政争に敗れたことに怒り、再びフェルディナント1世の宮廷に出仕した。

2021年5月24日 (月) 22:22時点における最新版

ナーダシュディ・タマーシュ男爵、17世紀制作の肖像画
ナーダシュディと詩人のティノーディ・シェベシュティエーン、ショマ・オルライ・ペトリチ(Soma Orlai Petrics)画、1855年

ナーダシュディ・タマーシュ(3世):Nádasdy Tamás(III.), nádasdi és fogarasföldi báró, 1498年 エゲルヴァール - 1562年6月2日 エゲルヴァール)は、ハンガリーの貴族、政治家。男爵。ハンガリー宮中伯(副王)を務め、その政治的影響力の強大さから「大宮中伯(„nagy nádor”)」と称された。バートリ・エルジェーベト伯爵夫人の舅にあたる。

生涯[編集]

ナダーシュディ・フェレンツ(1世)の息子として生まれ、貴族の子弟として幅広い教育を受け、グラーツボローニャローマに遊学した。1535年、由緒ある大貴族家門カニジャイ家Kanizsay)の最後の末裔であるカニジャイ・オルショリャと結婚し、同家の資産を受け継いだ。この資産の中にはシャールヴァール城(ナーダシュディ城Sárvári vár)が含まれており、ナーダシュディはこの城をルネサンス様式に改築させた。オルショリャとの結婚により、ナーダシュディはハンガリーで最も裕福な大地主(マグナート)の1人となった。

1521年、教皇使節・ドミニコ会総長のトマス・カイェタン枢機卿の通訳として、枢機卿のブダ訪問に随行している。1525年にはハンガリーの国務会議の一員となり、ラヨシュ2世王の命を受けて、直前に迫るオスマン帝国との戦争で支援を得るため、シュパイヤーの帝国議会に赴いている。翌1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国が政治的破局を迎えた後、国王未亡人マリアコマーロムからポジョニへ移る際に随行している。1527年にはハプスブルク家フェルディナント大公をハンガリー王位に就けるために重要な役割を果たした。翌1528年にはタタの要塞の司令官に任命され、チェスネキー・ジェルジCseszneky György)伯爵とともにジェールを占領した。

1529年、ハンガリー軍司令官としてブダをオスマン帝国軍から防衛することになった。ところが自軍の中の裏切り者に捕えられ、監禁されたうえに鎖を着けられてトルコ軍に引き渡された。ところがブダを占領したトルコの大宰相パルガル・イブラヒム・パシャはナーダシュディを解放した。解放後、ナダーシュディはハンガリーの対立王サポヤイ・ヤーノシュの陣営に加わり、1530年にはフェルディナント1世の軍隊からブダを防衛することに成功した。ところが1533年、サポヤイの寵臣ルドヴィーコ・グリッティ(Lodovico Gritti)との政争に敗れたことに怒り、再びフェルディナント1世の宮廷に出仕した。

1541年より自分の所領であるシャールヴァールに印刷業者のヨハン・ジルフェスター(Johann Sylvester)を招き、ハンガリー語の新約聖書を翻訳・印刷させた。この新約聖書は、最初のハンガリー語の印刷物となった。もっとも、ナーダシュディ家の設立した印刷所は長続きはしなかった。

1537年から1539年まで、クロアチアダルマチアスラヴォニアバン(副王)を務めた。1542年にはハンガリー大法官となり、1554年にはプレスブルク(現在のブラチスラヴァ)において、ハンガリー宮中伯に選出された。1562年に死去し、家督は息子のフェレンツ(2世)が継いだ。

参考文献[編集]

  • Georgius Pray, Epistolae Procerum Regni Hungariae, Pars II, Complectens Epistolas ab Anno M.D.XXXXI ad M.D.LIV, Posonii MDCCCVI (mit zahlreichen Briefen an Nadasdy)
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Nádasdy, Tamás I.". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 19 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 148.