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「コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
1228年、母の死によりエルサレム王位を継承した。コンラート4世には異母兄ハインリヒがいたが、彼は[[1234年]]に[[教皇|ローマ教皇]]に煽動されて父帝に反逆したため、[[皇太子]]を廃されたうえで自殺しており<ref>瀬原、p. 498-499</ref>、次男であったコンラートが父帝の後継者となった。[[1237年]]2月、フリードリヒ2世はウィーンに居合わせた諸侯にコンラートをローマ王および将来の皇帝に選出させた<ref name=N281>成瀬 他、p. 281</ref><ref>瀬原、p. 501</ref>。1246年、チューリンゲン方伯[[ハインリヒ・ラスペ]]が対立王に選ばれたため、フランクフルトでハインリヒ・ラスペと戦ったが敗北した<ref name=S515>瀬原、p. 515。</ref>。翌1247年にハインリヒ・ラスペは死去し、ホラント伯[[ウィレム2世 (ホラント伯)|ウィレム2世]]が新たに対立王に選ばれ、コンラートはウィレムと戦い勝利した<ref name=N281 />。1250年に父が亡くなり<ref>瀬原、p. 510。赤痢か熱病といわれる。</ref>、単独のローマ王(ドイツ王)となったが、シュタウフェン家の勢力はフリードリヒ2世の死とともに急速に衰えた<ref name=N285>成瀬 他、p. 285</ref>。コンラートはシチリア王国占領を目指して1251年10月にイタリアに向け出発<ref name=N285 />、1252年にイタリアに入り、弟[[マンフレーディ]]をシチリア王の代理統治者に任じた<ref name=S515 />。
1228年、母の死によりエルサレム王位を継承した。コンラート4世には異母兄ハインリヒがいたが、彼は[[1234年]]に[[教皇|ローマ教皇]]に煽動されて父帝に反逆したため、[[皇太子]]を廃されたうえで自殺しており<ref>瀬原、p. 498-499</ref>、次男であったコンラートが父帝の後継者となった。[[1237年]]2月、フリードリヒ2世はウィーンに居合わせた諸侯にコンラートをローマ王および将来の皇帝に選出させた<ref name=N281>成瀬 他、p. 281</ref><ref>瀬原、p. 501</ref>。1246年、チューリンゲン方伯[[ハインリヒ・ラスペ (テューリンゲン方伯)|ハインリヒ・ラスペ]]が対立王に選ばれたため、フランクフルトでハインリヒ・ラスペと戦ったが敗北した<ref name=S515>瀬原、p. 515。</ref>。翌1247年にハインリヒ・ラスペは死去し、ホラント伯[[ウィレム2世 (ホラント伯)|ウィレム2世]]が新たに対立王に選ばれ、コンラートはウィレムと戦い勝利した<ref name=N281 />。1250年に父が亡くなり<ref>瀬原、p. 510。赤痢か熱病といわれる。</ref>、単独のローマ王(ドイツ王)となったが、シュタウフェン家の勢力はフリードリヒ2世の死とともに急速に衰えた<ref name=N285>成瀬 他、p. 285</ref>。コンラートはシチリア王国占領を目指して1251年10月にイタリアに向け出発<ref name=N285 />、1252年にイタリアに入り、弟[[マンフレーディ]]をシチリア王の代理統治者に任じた<ref name=S515 />。


1254年、短期間病んだ後、コンラート4世は死去した<ref name=S515 />。幼い息子のコッラディーノや庶弟のエンツォとマンフレーディ兄弟もローマ教皇と争い、その支持を受けた[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]によって滅ぼされ、[[1272年]]にホーエンシュタウフェン家で唯一、生き残った弟エンツォも嗣子がないまま[[ボローニャ]]で獄死した。ホーエンシュタウフェン朝は断絶し、帝国は[[大空位時代]]を迎えることになった。
1254年、短期間病んだ後、コンラート4世は死去した<ref name=S515 />。幼い息子のコッラディーノや庶弟のエンツォとマンフレーディ兄弟もローマ教皇と争い、その支持を受けた[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]によって滅ぼされ、[[1272年]]にホーエンシュタウフェン家で唯一、生き残った弟エンツォも嗣子がないまま[[ボローニャ]]で獄死した。ホーエンシュタウフェン朝は断絶し、帝国は[[大空位時代]]を迎えることになった。
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* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年


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2021年5月26日 (水) 21:29時点における版

コンラート4世
Konrad IV.
ローマ王
エルサレム王
シチリア王
在位 1237年2月 - 1254年5月21日

出生 1228年4月25日
シチリア王国アンドリア
死去 (1254-05-21) 1254年5月21日(26歳没)
シチリア王国バジリカータラヴェッロ
埋葬 シチリア王国メッシーナ大聖堂
配偶者 エリーザベト・フォン・バイエルン
子女 コッラディーノ
家名 ホーエンシュタウフェン家
王朝 ホーエンシュタウフェン朝
父親 フリードリヒ2世
母親 イザベル2世
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コンラート4世(Konrad IV., 1228年4月25日 - 1254年5月21日[1])は、ローマ王(在位:1237年 - 1254年)、エルサレム王(在位:1228年 - 1254年)及びシチリア王(在位:1250年 - 1254年)。ホーエンシュタウフェン朝第7代にして最後のローマ王。イタリア名はコッラード(Corrado)。父はシチリア王ローマ皇帝を兼ねたフリードリヒ2世、母はエルサレム女王イザベル2世(ヨランダ)。異母兄に先代ローマ王ハインリヒ(7世)、異母弟にサルデーニャ王エンツォアンティオキア公フリードリヒ3世とマンフレーディがいる。シチリア王コッラディーノ(コンラーディン)の父。

生涯

1228年、母の死によりエルサレム王位を継承した。コンラート4世には異母兄ハインリヒがいたが、彼は1234年ローマ教皇に煽動されて父帝に反逆したため、皇太子を廃されたうえで自殺しており[2]、次男であったコンラートが父帝の後継者となった。1237年2月、フリードリヒ2世はウィーンに居合わせた諸侯にコンラートをローマ王および将来の皇帝に選出させた[3][4]。1246年、チューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが対立王に選ばれたため、フランクフルトでハインリヒ・ラスペと戦ったが敗北した[5]。翌1247年にハインリヒ・ラスペは死去し、ホラント伯ウィレム2世が新たに対立王に選ばれ、コンラートはウィレムと戦い勝利した[3]。1250年に父が亡くなり[6]、単独のローマ王(ドイツ王)となったが、シュタウフェン家の勢力はフリードリヒ2世の死とともに急速に衰えた[7]。コンラートはシチリア王国占領を目指して1251年10月にイタリアに向け出発[7]、1252年にイタリアに入り、弟マンフレーディをシチリア王の代理統治者に任じた[5]

1254年、短期間病んだ後、コンラート4世は死去した[5]。幼い息子のコッラディーノや庶弟のエンツォとマンフレーディ兄弟もローマ教皇と争い、その支持を受けたシャルル・ダンジューによって滅ぼされ、1272年にホーエンシュタウフェン家で唯一、生き残った弟エンツォも嗣子がないままボローニャで獄死した。ホーエンシュタウフェン朝は断絶し、帝国は大空位時代を迎えることになった。

子女

1246年にバイエルン公ライン宮中伯オットー2世の娘エリーザベトと結婚、1男をもうけた。

エリーザベトは1259年ケルンテン公マインハルトと再婚した。

脚注

  1. ^ コンラート4世』 - コトバンク
  2. ^ 瀬原、p. 498-499
  3. ^ a b 成瀬 他、p. 281
  4. ^ 瀬原、p. 501
  5. ^ a b c 瀬原、p. 515。
  6. ^ 瀬原、p. 510。赤痢か熱病といわれる。
  7. ^ a b 成瀬 他、p. 285

参考文献

  • 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
先代
フリードリヒ2世
ハインリヒ7世
ローマ王
1237年 - 1254年
対立王:ハインリヒ・ラスペ
(1246年 - 1247年)
ヴィルヘルム・フォン・ホラント
(1247年 - 1256年)
次代
ヴィルヘルム・フォン・ホラント
大空位時代
先代
フェデリーコ2世
イザベル2世
エルサレム国王
1228年 - 1254年
次代
コッラディーノ