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「インノケンティウス4世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''インノケンティウス4世'''(Innocentius IV, [[1195年]]頃 - [[1254年]][[12月7日]])は、第180代[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1243年]] - 1254年)。本名はシニバルド・フィエスキ(Sinibaldo Fieschi)。[[ハドリアヌス5世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス5世]]は甥に当たる。
'''インノケンティウス4世'''(Innocentius IV, [[1195年]]頃 - [[1254年]][[12月7日]])は、第180代[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1243年]] - 1254年)。本名はシニバルド・フィエスキ(Sinibaldo Fieschi)。[[ハドリアヌス5世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス5世]]は甥に当たる。


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[[1245年]]、[[第1リヨン公会議]]を開催、[[フランシスコ会]]の修道士[[プラノ・カルピニ]]を、東方より来襲したタタール([[モンゴル帝国]])の偵察と再侵入防止工作の為にタタールの居住地方へと派遣した。一方で[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]を[[破門]]、[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ハインリヒ・ラスペ (テューリンゲン方伯)|ハインリヒ・ラスペ]]や[[ホラント伯]][[ウィレム2世 (ホラント伯)|ウィレム2世]]を[[対立王]]に選出した。また、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[サンシュ2世 (ポルトガル王)|サンシュ2世]]を廃位に追い込み、弟の[[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]に王位を譲らせた。


東欧では{{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}}以降、ヨーロッパ防衛の橋頭堡だった[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]が[[モンゴル帝国]]の[[ジョチ・ウルス]]の属国になると、[[第二次ブルガリア帝国]]を新たなヨーロッパ防衛の橋頭堡とすべく、[[イヴァン・アセン2世]]時代に失効したブルガリアとの教会合同を[[カリマン1世]]に申し出た。
東欧では{{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}}以降、ヨーロッパ防衛の橋頭堡だった[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]が[[モンゴル帝国]]の[[ジョチ・ウルス]]の属国になると、[[第二次ブルガリア帝国]]を新たなヨーロッパ防衛の橋頭堡とすべく、[[イヴァン・アセン2世]]時代に失効したブルガリアとの教会合同を[[カリマン1世]]に申し出た。

2021年5月26日 (水) 21:30時点における版

インノケンティウス4世
第180代 ローマ教皇
教皇就任 1243年6月28日
教皇離任 1254年12月7日
先代 ケレスティヌス4世
次代 アレクサンデル4世
個人情報
出生 1195年頃
マナローラ
死去 1254年12月7日
ナポリ
その他のインノケンティウス
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インノケンティウス4世(Innocentius IV, 1195年頃 - 1254年12月7日)は、第180代ローマ教皇(在位:1243年 - 1254年)。本名はシニバルド・フィエスキ(Sinibaldo Fieschi)。ハドリアヌス5世は甥に当たる。

1245年第1リヨン公会議を開催、フランシスコ会の修道士プラノ・カルピニを、東方より来襲したタタール(モンゴル帝国)の偵察と再侵入防止工作の為にタタールの居住地方へと派遣した。一方で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世破門テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペホラント伯ウィレム2世対立王に選出した。また、ポルトガルサンシュ2世を廃位に追い込み、弟のアフォンソ3世に王位を譲らせた。

東欧ではヤロスラヴの戦いウクライナ語版ロシア語版ポーランド語版以降、ヨーロッパ防衛の橋頭堡だったハールィチ・ヴォルィーニ大公国モンゴル帝国ジョチ・ウルスの属国になると、第二次ブルガリア帝国を新たなヨーロッパ防衛の橋頭堡とすべく、イヴァン・アセン2世時代に失効したブルガリアとの教会合同をカリマン1世に申し出た。

1246年、ジョチ・ウルスと戦っていたハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロに王位を授けてルーシ王とし、ジョチ・ウルスを牽制したが、同年8月24日クリルタイグユクが第3代ハーンになり、カルピニが謁見の際に教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なった。この時に教皇宛に送られたグユク・ハンの勅書が現存しており、グユクは教皇に帰順を求めている。帰国後カルピニは一時、教皇の怒りを買った。