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2021年5月29日 (土) 11:35時点における版
円載(えんさい、生年不詳 - 元慶元年(877年))は、平安時代前期の天台宗の僧。出身は大和国。
来歴
幼い頃から日本天台宗の祖最澄に師事し、838年(承和5年)天台座主円澄の天台宗義に関する疑問50条を携えて唐に渡った。天台山広修・維蠲(いけん)の「唐決」を得て弟子の仁好(にんこう)に託して日本に送った。その後も唐に残り学識を持って宣宗の帰依を受け、また、855年(斉衡2年)円珍とともに長安青龍寺法全(はっぜん)から灌頂を受けた。この間、日本の朝廷から2度にわたり黄金の送金を受けていた。
864年(貞観6年)、真如法親王(高岳親王)や宗叡が長安に到着。在唐30余年になる円載の手配により、長安西明寺に案内された。
877年(元慶元年)、日本へ帰る途中にて船が難破し、遭難死。
「破戒僧」として
なお、唐に滞在している間に破戒悪行があったとも伝えられている。円珍「行歴抄」では、円載との確執が描写されている[1]。
円載は、唐滞在中に会昌の廃仏に遭遇し、他の多くの僧と同様に強制的に還俗させられており、妻子も持った。これが「破戒悪行」として日本に伝わった可能性もある。同時期に唐に滞在していた円仁も同様に還俗させられている(円仁が再度剃髪したのは帰国する直前のことであった。また円仁は円載とちがって無事帰国を果たしている)。
佐伯有清は、円珍の円載評価については、確執もあり、割り引いて考量する方が適切との見方をしている[2]。
脚注
参考文献
- 佐伯有清『悲運の遣唐僧 円載の数奇な生涯』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、1999年) ISBN 4-642-05463-4
- 王勇『唐から見た遣唐使』講談社1998