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2021年5月29日 (土) 11:41時点における版

 
瀬名一秀 (瀬名弌秀)
時代 室町時代後期(戦国時代
生誕 永享4年(1432年
死没 文亀3年4月20日1503年5月15日)?
改名 義秀(初名)→瀬名弌秀
別名 源五郎
戒名 光鏡院殿實山秀公大居士
墓所 光鏡院(静岡県静岡市葵区瀬名) 
官位 従五位下、陸奥守
主君 今川義忠今川氏親
氏族 清和源氏足利氏今川氏瀬名氏
父母 父:今川貞延
兄弟 瀬名一秀堀越貞基
氏貞貞清氏成
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瀬名 一秀(せな かずひで)は、室町時代武将遠江今川氏今川貞延(堀越貞延)の長男。駿河国庵原郡瀬名村に移り住み、瀬名を名字とした。

初名は義秀。また、の本来の表記は旧字体で「弌秀」である[要出典](子孫である弌明以降の当主が「弌」の字を名前に用いている)。

生涯

はじめ、遠江国堀越の海蔵寺の喝食であったが、文明6年(1474年)、父・貞延の死去により還俗し、家督を相続する。その後、駿河今川家・義忠が文明8年(1476年)に塩買坂で討死後、家を継いだ幼少の龍王丸(氏親)の補佐役となり、駿河国瀬名村(現:静岡県静岡市葵区瀬名)を与えられて居館を構えた。長享2年(1488年)に菩提寺として、光鏡院を建立した。永正3年(1506年)には二俣城に在城したことが『小笠原文書』に記されている。

菩提寺の光鏡院には江戸時代に250回忌の際に建立された供養塔と、平成9年(1997年)に500回忌に建立された供養塔がある。

系譜

寛政重修諸家譜』の「瀬名」系譜は、3男を載せる。嫡男の氏貞、次男の貞清(さだきよ。万五郎、尾張守)、三男の氏成(うじなり)である。曾孫には徳川家康の正室・築山殿がいる。

参考文献

関連項目