瀬名氏貞
表示
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 明応6年(1497年) |
死没 | 天文7年3月16日(1538年4月25日) |
別名 | 源五郎 |
戒名 | 松寿院殿玉山椿公大禅定門 |
墓所 | 松寿院(静岡県静岡市葵区瀬名) |
官位 | 従五位下、陸奥守 |
主君 | 今川氏親 |
氏族 | 清和源氏足利氏流今川氏→瀬名氏 |
父母 | 父:瀬名一秀 |
兄弟 | 氏貞、貞清、氏成 |
妻 | 堀越貞基の娘 |
子 | 氏俊、義広(関口親永)、氏次、女(武田左衛門尉某室) |
瀬名 氏貞(せな うじさだ)は、戦国時代の武将。遠江今川氏の流れを汲む瀬名氏の2代当主。
生涯
[編集]はじめ遠江国二俣城に住した。のちに駿河国庵原郡瀬名村(現:静岡県静岡市葵区瀬名)に住んだ。
栴岳承芳(今川義元)と玄広恵探が争った花倉の乱では、承芳方に属した。
『寛政重修諸家譜』は、天文7年(1538年)3月16日没、享年42としるす。
系譜
[編集]『寛政重修諸家譜』の「瀬名」系譜は3男1女を載せる。嫡男の氏俊、次男の義広(築山殿の父)、氏次(うじつぐ、勘十郎)、女子(武田左衛門尉某室)である。
ただし、天文20年(1551年)頃と作成年代が絞ることが可能な 『土佐国蠧簡集残篇』所収「今川系図」からは氏次の存在は確認できない(瀬名元世のように庶流出身の人物が同時代史料に登場するため、同族の可能性はある)[1]。また、小鹿安房守(範満の甥[2])の子である又五郎もしくはその子・民部少輔の妻が氏貞の娘と推定されている[3]。
脚注
[編集]- ^ 黒田基樹「総論 今川氏真の研究」『今川氏真』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三五巻〉、2023年9月、35頁。ISBN 978-4-86403-485-2。
- ^ 黒田基樹「総論 今川氏親の新研究」『今川氏親』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻〉、2019年4月、22-25頁。ISBN 978-4-86403-485-2。
- ^ 黒田基樹「総論 今川氏真の研究」『今川氏真』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三五巻〉、2023年9月、31頁。ISBN 978-4-86403-318-3。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第九十五