瀬名貞雄
時代 | 江戸時代中期-後期 |
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生誕 | 享保元年(1716年)[1][2] |
死没 |
寛政8年10月4日(1796年11月3日)[1] [注釈 1] |
改名 | 弌福→貞雄 [3] |
別名 |
通称:巳之助、主膳、源五郎 [3] 号:狐阡軒 |
戒名 | 日中[3] |
墓所 | 東京都豊島区の妙行寺[3] |
氏族 | 瀬名氏(清和源氏足利氏流今川氏支流) |
父母 | 父:瀬名俊光、母:瀬名弌明の養女[3] |
妻 | 正室:堀井の養女 [3] |
子 | 貞如、娘(飯室昌許室)、貞恒 [4] |
瀬名 貞雄(せな さだお)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本・故実家[1]。武家故実・歴史・地理に関する著作をおこなった[1]。『藩翰譜続編』の編纂や、大田南畝との『瀬田問答』で知られる。号は狐阡軒(こせんけん)[2]。
生涯
[編集]旗本瀬名俊光の子として生まれる。諱ははじめ弌福(かずまさ)[3]。
延享4年(1747年)11月29日、父の隠居により家督を継ぐ[3]。寛延元年(1748年)3月28日、徳川家重に初謁[3]。同年5月10日に大番となり、天明2年(1782年)7月6日まで務める[3]。
寛政元年(1789年)8月26日、奥御祐筆組頭格となり[3]、同年12月16日に布衣をゆるされる[3]。平岡資模の『御九族記』編纂に関与し、『御九族記』完成後の寛政2年(1790年)5月22日にこれが賞されて時服2領を賜る[3]。『藩翰譜続編』の編纂も進めたが、完成を見ることはできなかった。
寛政8年(1796年)10月12日、老齢を理由として職を辞し、旗本寄合席に列する[3]。このとき、時服3領を賜る[3]。『寛政譜』によれば同年11月17日死去[3]。享年81[3]。ただし『朝日日本歴史人物事典』によれば10月4日没とある[1]。
著作
[編集]『
このほか代表的著作として『今川家式』[1]『武家職掌分類』[1]『江戸割絵図』[1]『改撰江戸志』[1]『関東補任記』[2]などが挙げられる。
瀬名家は遠江今川氏の一族(今川貞世の末裔)にあたり[1]、明和2年(1772年)には今川一族の由緒を記した「今川一苗之記」(内閣文庫蔵)を著している。
系譜
[編集]補足
[編集]- 瀬名家は瀬名弌明(幕臣としての3代目)が瀬名氏明(甚五郎。土屋知義の子)を婿養子に迎えていたものの、氏明は父に先立った。氏明には娘が2人あり、うち1人が弌明の養女との形式をとり、瀬名俊光(久保辰房の子)が婿養子に入った。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j “瀬名貞雄”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年3月19日閲覧。
- ^ a b c “瀬名貞雄”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年3月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『寛政重修諸家譜』巻第九十五「瀬名」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.546。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九十五「瀬名」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.546-547。
- ^ “瀬田問答”. 旗本御家人III お仕事いろいろ. 国立公文書館. 2023年3月19日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第九十五「瀬名」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.547。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第九十五「瀬名」
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/1/282
外部リンク
[編集]- 瀬田問答 - 国立公文書館