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今川氏睦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
今川氏睦
時代 江戸時代中期
生誕 寛文8年(1668年
死没 元禄12年6月25日1699年7月21日
改名 範朝→氏勝→氏睦
別名 彦太郎、吉太郎、刑部(通称
戒名 高徳院殿傑堂英公大居士[1]
墓所 東京都杉並区和田の長延寺
官位 従五位下、侍従、刑部大輔、丹後
幕府 江戸幕府高家
主君 徳川家綱綱吉
氏族 品川家[注釈 1]今川家
父母 父:品川高寛、養父:今川氏堯
兄弟 氏睦遠山頼直養女、品川高清一色定尚
正室:北条氏平の娘[注釈 2]
養子:範高
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今川 氏睦(いまがわ うじみち)は、江戸時代前期の高家旗本。一門の品川家から養子に迎えられて家督を継ぎ、高家職(奥高家)に就任した。今川家15代当主[注釈 3]

生涯

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寛文8年(1668年)、旗本品川高寛の長男として生まれる。延宝元年(1673年)、今川氏堯の死に際して末期養子となり、12月11日に6歳で家督を相続する。

延宝3年(1675年10月7日、将軍徳川家綱御目見する。天和3年(1683年7月13日[2]北条氏平の娘と婚姻する。元禄元年(1688年11月14日、高家職(奥高家)に就任する。このとき、従兄弟(血縁上は従兄弟の子にあたる)品川伊氏も同時に高家職となっている。12月15日、従五位下・侍従に叙任、刑部大輔を称し、後に丹後守に改める。

元禄2年(1689年)閏1月15日小姓に転任するが、閏1月26日に高家職に復帰する。徳川綱吉の時代には、こうした短期間での人事異動や、制度(高家の家柄の者が就任する役職は高家職のみ)に従わない人事がよく見られた。高家職復帰後は伊勢神宮日光東照宮への代参使や公卿の迎接にあたっている。

元禄6年(1693年10月13日、再び御小姓に転任するが11月23日に解任、高家職にも戻ることなく、表高家衆に列する。

元禄12年(1699年)6月25日死去、享年32。氏睦には子女がなかったため、伊氏の子の範高を末期養子に迎えた。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第九十四
  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 品川家は今川氏真の次男高久が創始した家で、高久の次男高寛は分家を立てた。氏睦の養父となった氏堯は高久の娘と岡山弥清の子であるので、氏睦は氏堯の従弟にあたる。
  2. ^ 観泉寺過去帳によれば元禄7年(1694年)6月晦日[2]、『今川系図』によれば5月晦日に没した。法号は緑樹院殿陰草影池大姉[3]
  3. ^ 家祖・国氏から数えた代数。ただし、14代氏堯以降直系の子孫ではない。

出典

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  1. ^ 『今川氏と観泉寺』p.74、「近世今川家歴代法号一覧表」。
  2. ^ a b 『今川氏と観泉寺』p.47
  3. ^ 「近世今川家歴代法号一覧表」