コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

今川氏堯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
今川氏堯
時代 江戸時代
生誕 寛永19年(1642年[注釈 1]
死没 延宝元年11月15日1673年12月22日
改名 龍王丸(幼名)
別名 大学(通称
戒名 慈雲院殿覚法光性大居士
墓所 長延寺
幕府 江戸幕府高家旗本
主君 徳川家綱
氏族 清和源氏足利氏吉良氏今川氏
父母 父:岡山弥清、母:品川高久の娘、養父:今川直房
土井利重の娘
氏睦
テンプレートを表示

今川 氏堯(いまがわ うじなり)は、江戸時代前期の高家旗本

吉良家の一族である岡山弥清の長男で、生母は品川高久の娘。今川直房の養子に迎えられ、跡を継いだ。今川家14代当主[注釈 2]

生涯

[編集]

今川直房の子供が早世したため、養子に迎えられた。吉良家と今川家は多重の姻戚関係で結ばれており、氏堯の父弥清は直房の甥(弥清の母が直房の妹、すなわち今川範以の娘)、氏堯の母は直房の従妹(つまり氏真の次男品川高久の娘)、さらに弥清の父方祖母は今川氏真の娘という関係である。こうした今川家の血を濃く受けていることもあって養子に選ばれたと思われる。

万治元年(1658年)8月5日に将軍徳川家綱御目見する。寛文元年(1661年)12月10日、直房の死去により家督を相続する。氏堯は表高家であり(『徳川実紀』には旗本寄合席であったとも記される)、役職には就くことがなかった。

室町時代足利義教今川範忠の武功を称え、今川名字を嫡家に限るとしたことがあった。庶家が今川を名乗ることを禁じて嫡流の権威を高めるものであり、氏堯の外祖父高久(今川氏真の次男)が品川を称したのもこの由緒によるものである。しかし、江戸時代初期に統制は不十分であり、庶流で今川を称する者も多かった。寛文6年(1666年)6月19日、将軍家綱はこの由緒を確認し、今川の苗字は氏堯の家に限るよう命じた。これにより、瀬名氏の流れを汲む大番士の今川貞利義行父子が名字を瀬名に改めている。

延宝元年(1673年)11月15日死去、享年32[注釈 3]

系譜

[編集]

父方は吉良氏の一族である。吉良義弥(母は今川氏真の娘、今川直房の父母両系の従兄弟)と正室今川氏(今川範以の三女、今川直房の妹)の間に生まれた次男が岡山弥清である。なお、義弥の長男義冬の子が赤穂事件で知られる義央であり、氏堯は義央の従兄ということになる。

母方の品川氏は今川氏の支流で、今川氏真の次男高久(今川範以の弟、今川直房の叔父)にはじまる家である。

正室は土井利重の娘。子女は無く、母方の従弟である氏睦(実父は品川高寛)を養子にする。

参考文献

[編集]
  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 寛政重修諸家譜』に記載された享年からの逆算による。『今川系図』の享年に従えば慶安2年(1649年)生まれ。
  2. ^ 家祖・国氏から数えた代数。ただし、14代氏堯以降直系の子孫ではない。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』による。『今川系図』では享年24。

出典

[編集]