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2021年5月29日 (土) 11:43時点における版

榊原 職直(さかきばら もとなお、天正14年(1586年) - 慶安元年9月1日1648年10月17日))は江戸時代初期の武士旗本。通称は半平、左衛門佐官位は従五位下飛騨守。兄に花房職則。子に職信(左衛門)、職員(八左衛門)。

生涯

天正14年(1586年)、宇喜多氏家臣・花房職之の次男として誕生。母は同じく宇喜多氏家臣・額田三河守の娘。出家池上本門寺となっていたが、徳川家康還俗を命じられ慶長元年(1596年)に家康に拝謁、翌年に徳川秀忠の小姓となった。慶長4年(1599年)に榊原康政の養子となり、以後「榊原職直」と名乗るようになった。康政の側室が花房氏であり、また康政は宇喜多騒動の際に調停役を勤めたことがあり、それらの縁であろうと推測される。

慶長19年(1614年)の大坂の陣には父の職之・兄の職則と共に出陣。 職直はのちに兄の職則により、花房家8220石の内から1千石の分与を受け、旗本として独立して取り立てられた。寛永2年(1625年)、1800石を知行し御徒頭となる。寛永9年(1632年)には御書院番頭となり、従五位下飛騨守となった。寛永10年(1633年)、2500石に加増。

寛永11年(1634年)に長崎奉行に就任。江戸幕府が推進していたキリシタンの弾圧を更に推し進めた。長崎奉行時代に行われた幕府の政策として、唐貿易の許可を長崎のみと限定、日本人の外国渡航の禁止、長崎近在の混血児287人を海外に追放、ポルトガル人出島に移す、などがある。一方、諏訪神社の祭礼(現在の長崎くんち)を始めるなど長崎町人の懐柔を勧めた。

寛永15年(1638年)の島原の乱において職直は、鍋島勝茂軍監を勤めていた。5月、鍋島軍が抜け駆けを行ったの際、職直の子の職信が同時に抜け駆けを行った。職信は城内に突入する戦功を挙げたが、これは軍令違反であるため親子はただちに咎を受けた。同年6月29日に長崎奉行を免職、更に閉門の処分を受けてしまう。その後許され、寛永19年(1642年)には御先鉄砲頭、正保3年(1646年)に近江国水口城(水口御茶屋)城番を務める。

慶安元年(1648年)死去。墓所は東京上野の谷中天王寺墓地。「通性院殿前従五位下道空日華居士」。

子孫は幕府旗本として存続した。幕末剣豪榊原鍵吉東京女子医科大学の教授の榊原仟は、職直の後裔である[1]。幕末の榊原本家当主榊原政敬の婿養子となり、榊原本家15代目・子爵家を相続した榊原政和はこの旗本家の出身であり、以降の榊原氏本家はこの血統となった。

脚注

  1. ^ 『姓氏』(樋口清之丹羽基二秋田書店1970年)より。