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第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)11月、東京都練馬区大字江古田2237番地(現在の旭丘1丁目71番6号)の江古田駅前に開館した<ref name="総覧55_15" /><ref name="goo" />。同館の所在した練馬区江古田は、同年8月1日に従来の[[板橋区]]から分離して練馬区を形成した地域であり、[[中野区]][[江古田]]の北東に位置する。江古田駅は、そもそも1922年(大正11年)に[[武蔵高等学校 (旧制)|旧制武蔵高等学校]]の設立とともに設置された駅で、同校は現在も、[[武蔵大学]]あるいは[[武蔵中学校・高等学校]]として同地にあり、同駅近辺には、[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]](1939年[[麹町区]]から移転)、[[武蔵野音楽大学]](1929年設立)もあって、同館は学生街の駅至近の映画館として立地した<ref name="stview" /><ref name="goo" />。練馬区内には、戦前から[[練馬駅]]前にあった[[練馬映画劇場]](現在の[[練馬 (練馬区)|練馬]]1丁目6番22号)が戦後も稼働したほか、同館開館後の1950年(昭和25年)6月には大字東大泉812番地(現在の[[東大泉]]3丁目17番)に大泉映画館(のちの[[大泉名画座]]、経営・円内一男)、1952年(昭和27年)6月には[[下石神井]]2丁目1298番地(現在の[[石神井町]]6丁目)に石神井会館(のちの[[石神井映画劇場]]、経営・渡辺軍蔵)がそれぞれ新設された<ref name="総覧55_15" />。当初の同館の経営は溝口末春の個人経営、支配人も溝口が兼ねた<ref name="総覧55_15" />。[[木構造 (建築)|木造一階建]]、観客定員数250名の比較的小規模の映画館であり、当時の興行系統は[[東宝]]および[[松竹]]の作品を上映した<ref name="総覧55_15" />。同区内では、練馬映画劇場が松竹・[[大映]]系、石神井会館が大映・[[東映]]系、大泉映画館が[[新東宝]]・東宝系と棲み分けが行われていた<ref name="総覧55_15" />。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)11月、東京都練馬区大字江古田2237番地(現在の旭丘1丁目71番6号)の江古田駅前に開館した<ref name="総覧55_15" /><ref name="goo" />。同館の所在した練馬区江古田は、同年8月1日に従来の[[板橋区]]から分離して練馬区を形成した地域であり、[[中野区]][[江古田]]の北東に位置する。江古田駅は、そもそも1922年(大正11年)に[[武蔵高等学校 (旧制)|旧制武蔵高等学校]]の設立とともに設置された駅で、同校は現在も、[[武蔵大学]]あるいは[[武蔵中学校・高等学校]]として同地にあり、同駅近辺には、[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]](1939年[[麹町区]]から移転)、[[武蔵野音楽大学]](1929年設立)もあって、同館は学生街の駅至近の映画館として立地した<ref name="stview" /><ref name="goo" />。練馬区内には、戦前から[[練馬駅]]前にあった[[練馬映画劇場]](現在の[[練馬 (練馬区)|練馬]]1丁目6番22号)が戦後も稼働したほか、同館開館後の1950年(昭和25年)6月には大字東大泉812番地(現在の[[東大泉]]3丁目17番)に大泉映画館(のちの[[大泉名画座]]、経営・円内一男)、1952年(昭和27年)6月には[[下石神井]]2丁目1298番地(現在の[[石神井町]]6丁目)に石神井会館(のちの[[石神井映画劇場]]、経営・渡辺軍蔵)がそれぞれ新設された<ref name="総覧55_15" />。当初の同館の経営は溝口末春の個人経営、支配人も溝口が兼ねた<ref name="総覧55_15" />。[[木構造 (建築)|木造一階建]]、観客定員数250名の比較的小規模の映画館であり、当時の興行系統は[[東宝]]および[[松竹]]の作品を上映した<ref name="総覧55_15" />。同区内では、練馬映画劇場が松竹・[[大映]]系、石神井会館が大映・[[東映]]系、大泉映画館が[[新東宝]]・東宝系と棲み分けが行われていた<ref name="総覧55_15" />。


同館は、1952年前後には『江古田文化劇場NEWS』と題した週報を発行していた<ref name="週報_52">[[#外部リンク|''江古田文化劇場NEWS No.75'']]、江古田文化劇場、1952年発行、2014年7月7日閲覧。</ref>。現存する同第75号によれば、『霧笛』(原作[[大佛次郎]]、監督[[谷口千吉]]、製作・配給東宝、1952年3月5日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1952/cb000460.htm 霧笛]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)、『[[黄色い鞄]]』(原作[[井上靖]]、監督[[弓削進]]、製作松竹大船撮影所、同年5月8日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1952/cb000950.htm 黄色い鞄]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)、『[[東京騎士傳]]』(監督[[瑞穂春海]]、製作松竹大船撮影所、同年5月8日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1952/cb000970.htm 東京騎士伝]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)が3本立で上映されている<ref name="週報_52" />。翌1953年(昭和28年)には、同週報は『江古田文化ウィークリー』と改称した<ref name="週報_53" />。同年に『[[悲剣乙女桜]]』(監督[[野淵昶]]、製作[[宝塚映画製作所]]、配給東宝、1953年3月5日公開)が同館で公開されたときには、戦前の旧作である『[[月下の若武者]]』(監督[[中川信夫]]、製作[[東宝映画京都撮影所]]、1938年12月1日公開)と『選挙戦の裏表』という題の啓蒙映画の3本立で上映された<ref name="週報_53" />。新作の『[[逃亡地帯 (1953年の映画)|逃亡地帯]]』(監督[[杉江敏男]]、製作[[東京映画]]、配給東宝、1953年3月19日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1953/cc000740.htm 逃亡地帯]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)と、戦時中に製作・公開された『[[伊那の勘太郎]]』(監督[[滝沢英輔]]、製作[[東宝映画]]、1943年1月3日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1943/bs000010.htm 伊那の勘太郎]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)を『伊那節仁義』と改題しての2本立という番組もあった<ref name="週報_53" />。1950年代後半には区内の映画館は急増、1960年(昭和35年)には9館に増加し、同館と練馬映画劇場、石神井映画劇場、大泉名画座のほか、[[ネリマ東映劇場]]([[豊玉北|豊玉北町]]5丁目15番地)、練馬文化劇場([[北町 (練馬区)|練馬北町]]1丁目142番地)、石神井東映([[上石神井]]1丁目415番地)、大泉東映八光座(東大泉町506番地)、[[関町東|関町]](関町3丁目111番地)が割拠した<ref name="便覧61_23" />。[[高須基仁]]の回想によれば、1960年代後半、同館で[[加賀まりこ]]が主演する『[[乾いた花 (映画)|乾いた花]]』(監督[[篠田正浩]]、製作松竹大船撮影所、1964年3月1日公開)を観たという<ref name="高須" />。
同館は、1952年前後には『江古田文化劇場NEWS』と題した週報を発行していた<ref name="週報_52">[[#外部リンク|''江古田文化劇場NEWS No.75'']]、江古田文化劇場、1952年発行、2014年7月7日閲覧。</ref>。現存する同第75号によれば、『霧笛』(原作[[大佛次郎]]、監督[[谷口千吉]]、製作・配給東宝、1952年3月5日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1952/cb000460.htm 霧笛]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)、『[[黄色い鞄]]』(原作[[井上靖]]、監督[[弓削進]]、製作松竹大船撮影所、同年5月8日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1952/cb000950.htm 黄色い鞄]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)、『[[東京騎士傳]]』(監督[[瑞穂春海]]、製作松竹大船撮影所、同年5月8日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1952/cb000970.htm 東京騎士伝]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)が3本立で上映されている<ref name="週報_52" />。翌1953年(昭和28年)には、同週報は『江古田文化ウィークリー』と改称した<ref name="週報_53" />。同年に『[[悲剣乙女桜]]』(監督[[野淵昶]]、製作[[宝塚映画製作所]]、配給東宝、1953年3月5日公開)が同館で公開されたときには、戦前の旧作である『[[月下の若武者]]』(監督[[中川信夫]]、製作[[東宝映画京都撮影所]]、1938年12月1日公開)と『選挙戦の裏表』という題の啓蒙映画の3本立で上映された<ref name="週報_53" />。新作の『[[逃亡地帯 (1953年の映画)|逃亡地帯]]』(監督[[杉江敏男]]、製作[[東京映画]]、配給東宝、1953年3月19日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1953/cc000740.htm 逃亡地帯]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)と、戦時中に製作・公開された『[[伊那の勘太郎]]』(監督[[滝沢英輔]]、製作[[東宝映画]]、1943年1月3日公開<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1943/bs000010.htm 伊那の勘太郎]、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。</ref>)を『伊那節仁義』と改題しての2本立という番組もあった<ref name="週報_53" />。1950年代後半には区内の映画館は急増、1960年(昭和35年)には9館に増加し、同館と練馬映画劇場、石神井映画劇場、大泉名画座のほか、[[ネリマ東映劇場]]([[豊玉北|豊玉北町]]5丁目15番地)、練馬文化劇場([[北町 (練馬区)|練馬北町]]1丁目142番地)、石神井東映([[上石神井]]1丁目415番地)、大泉東映八光座(東大泉町506番地)、[[関町東|関町]](関町3丁目111番地)が割拠した<ref name="便覧61_23" />。[[高須基仁]]の回想によれば、1960年代後半、同館で[[加賀まりこ]]が主演する『[[乾いた花]]』(監督[[篠田正浩]]、製作松竹大船撮影所、1964年3月1日公開)を観たという<ref name="高須" />。


その後急速に同区内の映画館は減少し、1967年(昭和42年)までには大泉名画座や八光座、石神井東映が閉館<ref name="便覧67_19" />、1970年(昭和45年)までには練馬文化劇場が閉館し、合計5館になった<ref name="便覧70_51" />。当時の同館は[[日活]]系に変わっているが、1971年(昭和46年)11月に日活が「[[日活ロマンポルノ]]」を開始して[[成人映画]]に舵を切り、その前後に同区内の映画館が激減、練馬駅前の老舗・練馬映画劇場と同館の2館のみになる<ref name="便覧70_51" /><ref name="便覧73_47" />。この時期に、同館は東宝・松竹および洋画(輸入映画)の上映館に変わった<ref name="便覧70_51" /><ref name="便覧73_47" />。練馬映画劇場は非日活系の成人映画館になったが、同館は名画座的劇場でありつづけた<ref name="便覧73_47" />。1975年(昭和50年)10月に発行された『[[キネマ旬報]]』10月上旬秋の特別号では、グラビアページの『われらの映画館 東京篇』で同館の取材記事が掲載された<ref>[[キネマ旬報|キネ旬]][1975], p.88.</ref>。この時期に観客定員数を140名に縮小している<ref name="名簿79_43" />。[[イラストレーター]]の[[宮崎祐治]]によれば、この時期の同館には2階があり、卓球場になっていたという<ref name="キネ91_29">キネ旬[1991], p.29.</ref>。宮崎は、同館で
その後急速に同区内の映画館は減少し、1967年(昭和42年)までには大泉名画座や八光座、石神井東映が閉館<ref name="便覧67_19" />、1970年(昭和45年)までには練馬文化劇場が閉館し、合計5館になった<ref name="便覧70_51" />。当時の同館は[[日活]]系に変わっているが、1971年(昭和46年)11月に日活が「[[日活ロマンポルノ]]」を開始して[[成人映画]]に舵を切り、その前後に同区内の映画館が激減、練馬駅前の老舗・練馬映画劇場と同館の2館のみになる<ref name="便覧70_51" /><ref name="便覧73_47" />。この時期に、同館は東宝・松竹および洋画(輸入映画)の上映館に変わった<ref name="便覧70_51" /><ref name="便覧73_47" />。練馬映画劇場は非日活系の成人映画館になったが、同館は名画座的劇場でありつづけた<ref name="便覧73_47" />。1975年(昭和50年)10月に発行された『[[キネマ旬報]]』10月上旬秋の特別号では、グラビアページの『われらの映画館 東京篇』で同館の取材記事が掲載された<ref>[[キネマ旬報|キネ旬]][1975], p.88.</ref>。この時期に観客定員数を140名に縮小している<ref name="名簿79_43" />。[[イラストレーター]]の[[宮崎祐治]]によれば、この時期の同館には2階があり、卓球場になっていたという<ref name="キネ91_29">キネ旬[1991], p.29.</ref>。宮崎は、同館で

2021年5月29日 (土) 11:57時点における版

江古田文化劇場
Ekoda Bunka
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 江古田文化
本社所在地 日本の旗 日本
176-0005
東京都練馬区旭丘1丁目71番6号
設立 1947年11月
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
代表者 代表・支配人 溝口末春
関係する人物 古屋照夫
山田春作
稲垣弘司
特記事項:略歴
1947年11月 開館
1984年 閉館
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江古田文化劇場(えこだぶんかげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)11月、東京都練馬区大字江古田(現在の旭丘1丁目)の江古田駅前に開館した[4]学生街の映画館として親しまれたが、1984年(昭和59年)には閉館した[10][11]。略称・通称は江古田文化(えこだぶんか)[12][13][14]。江古田駅南口の「旭丘文化通り商店会」は同館に面した通りにあり[15]、通りの命名は同館に由来する[16]。竹内緑郎と旅行かばん『江古田スケッチ』に歌われることでも知られる[14]

沿革

データ

概要

建て替え前、戦後の面影を残す江古田駅南口(2008年撮影、2010年改築)。この右手に入った道沿いに同館は位置した。

第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)11月、東京都練馬区大字江古田2237番地(現在の旭丘1丁目71番6号)の江古田駅前に開館した[4][18]。同館の所在した練馬区江古田は、同年8月1日に従来の板橋区から分離して練馬区を形成した地域であり、中野区江古田の北東に位置する。江古田駅は、そもそも1922年(大正11年)に旧制武蔵高等学校の設立とともに設置された駅で、同校は現在も、武蔵大学あるいは武蔵中学校・高等学校として同地にあり、同駅近辺には、日本大学芸術学部(1939年麹町区から移転)、武蔵野音楽大学(1929年設立)もあって、同館は学生街の駅至近の映画館として立地した[17][18]。練馬区内には、戦前から練馬駅前にあった練馬映画劇場(現在の練馬1丁目6番22号)が戦後も稼働したほか、同館開館後の1950年(昭和25年)6月には大字東大泉812番地(現在の東大泉3丁目17番)に大泉映画館(のちの大泉名画座、経営・円内一男)、1952年(昭和27年)6月には下石神井2丁目1298番地(現在の石神井町6丁目)に石神井会館(のちの石神井映画劇場、経営・渡辺軍蔵)がそれぞれ新設された[4]。当初の同館の経営は溝口末春の個人経営、支配人も溝口が兼ねた[4]木造一階建、観客定員数250名の比較的小規模の映画館であり、当時の興行系統は東宝および松竹の作品を上映した[4]。同区内では、練馬映画劇場が松竹・大映系、石神井会館が大映・東映系、大泉映画館が新東宝・東宝系と棲み分けが行われていた[4]

同館は、1952年前後には『江古田文化劇場NEWS』と題した週報を発行していた[19]。現存する同第75号によれば、『霧笛』(原作大佛次郎、監督谷口千吉、製作・配給東宝、1952年3月5日公開[20])、『黄色い鞄』(原作井上靖、監督弓削進、製作松竹大船撮影所、同年5月8日公開[21])、『東京騎士傳』(監督瑞穂春海、製作松竹大船撮影所、同年5月8日公開[22])が3本立で上映されている[19]。翌1953年(昭和28年)には、同週報は『江古田文化ウィークリー』と改称した[12]。同年に『悲剣乙女桜』(監督野淵昶、製作宝塚映画製作所、配給東宝、1953年3月5日公開)が同館で公開されたときには、戦前の旧作である『月下の若武者』(監督中川信夫、製作東宝映画京都撮影所、1938年12月1日公開)と『選挙戦の裏表』という題の啓蒙映画の3本立で上映された[12]。新作の『逃亡地帯』(監督杉江敏男、製作東京映画、配給東宝、1953年3月19日公開[23])と、戦時中に製作・公開された『伊那の勘太郎』(監督滝沢英輔、製作東宝映画、1943年1月3日公開[24])を『伊那節仁義』と改題しての2本立という番組もあった[12]。1950年代後半には区内の映画館は急増、1960年(昭和35年)には9館に増加し、同館と練馬映画劇場、石神井映画劇場、大泉名画座のほか、ネリマ東映劇場豊玉北町5丁目15番地)、練馬文化劇場(練馬北町1丁目142番地)、石神井東映(上石神井1丁目415番地)、大泉東映八光座(東大泉町506番地)、関町(関町3丁目111番地)が割拠した[5]高須基仁の回想によれば、1960年代後半、同館で加賀まりこが主演する『乾いた花』(監督篠田正浩、製作松竹大船撮影所、1964年3月1日公開)を観たという[13]

その後急速に同区内の映画館は減少し、1967年(昭和42年)までには大泉名画座や八光座、石神井東映が閉館[6]、1970年(昭和45年)までには練馬文化劇場が閉館し、合計5館になった[7]。当時の同館は日活系に変わっているが、1971年(昭和46年)11月に日活が「日活ロマンポルノ」を開始して成人映画に舵を切り、その前後に同区内の映画館が激減、練馬駅前の老舗・練馬映画劇場と同館の2館のみになる[7][8]。この時期に、同館は東宝・松竹および洋画(輸入映画)の上映館に変わった[7][8]。練馬映画劇場は非日活系の成人映画館になったが、同館は名画座的劇場でありつづけた[8]。1975年(昭和50年)10月に発行された『キネマ旬報』10月上旬秋の特別号では、グラビアページの『われらの映画館 東京篇』で同館の取材記事が掲載された[25]。この時期に観客定員数を140名に縮小している[9]イラストレーター宮崎祐治によれば、この時期の同館には2階があり、卓球場になっていたという[26]。宮崎は、同館で 『書を捨てよ町へ出よう』(監督寺山修司、製作人力飛行機舎、配給ATG、1971年4月24日公開[27])、『ボクサー』(監督寺山修司、製作東映東京撮影所、配給東映、1977年10月1日公開[28])、『田園に死す』(監督寺山修司、製作人力飛行機舎、配給ATG、1974年12月28日公開[29])の3本立を観ている[26]。1977年(昭和52年)11月9日にビクター音楽産業(現在のJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)が発売した竹内緑郎と旅行かばんのシングル『江古田スケッチ』に同館は登場し、「江古田文化の深夜映画に涙流した」と歌われた[14]。1979年(昭和54年)前後には、同館も成人映画館になっている[9]

1984年(昭和59年)には閉館した[10][11]。同館の経営は閉館まで一貫して、溝口末春の個人経営であった[4][5][6][7][8][10]。跡地にはパチンコ店「ミナミ江古田店」が建ったが、同店は2013年(平成25年)9月25日に閉店し、同年12月27日には「ジェイクラブ江古田店」が開店して現在に至る(2014年4月)[17][18]。練馬映画劇場は1989年(平成元年)12月に閉館している。

脚注

  1. ^ 年鑑[1942], p.10_34.
  2. ^ 年鑑[1943], p.453.
  3. ^ 年鑑[1951], p.334.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 総覧[1955], p.15.
  5. ^ a b c d e f g h 便覧[1961], p.23-24.
  6. ^ a b c d e f g h 便覧[1967], p.19.
  7. ^ a b c d e f g h i j 便覧[1970], p.51.
  8. ^ a b c d e f g h i j 便覧[1973], p.47.
  9. ^ a b c d e f g h 名簿[1979], p.43.
  10. ^ a b c d e f g h i j 名簿[1984], p.42.
  11. ^ a b c 名簿[1985], p.38.
  12. ^ a b c d 江古田文化ウィークリー 表・裏、江古田文化劇場、1953年発行、2014年7月7日閲覧。
  13. ^ a b 高須[2000], p.152.
  14. ^ a b c 江古田スケッチ、歌詞GET, 2014年7月7日閲覧。
  15. ^ 旭丘文化通り商店会練馬区、2014年7月7日閲覧。
  16. ^ 映画フィルムの現像職人・今田長一映画保存協会、2014年7月7日閲覧。
  17. ^ a b c 東京都練馬区旭丘1丁目71番6号Google ストリートビュー、2014年4月撮影、2014年7月7日閲覧。
  18. ^ a b c d 江古田文化劇場Goo地図、1947年・1963年撮影、2014年7月7日閲覧。
  19. ^ a b 江古田文化劇場NEWS No.75、江古田文化劇場、1952年発行、2014年7月7日閲覧。
  20. ^ 霧笛、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
  21. ^ 黄色い鞄、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
  22. ^ 東京騎士伝、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
  23. ^ 逃亡地帯、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
  24. ^ 伊那の勘太郎、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
  25. ^ キネ旬[1975], p.88.
  26. ^ a b キネ旬[1991], p.29.
  27. ^ 書を捨てよ町へ出よう、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
  28. ^ ボクサー、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
  29. ^ 田園に死す、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。

参考文献

  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
  • 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
  • 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事通信社、1961年発行
  • 『映画年鑑 1967 別冊 映画便覧』、時事通信社、1967年発行
  • 『映画年鑑 1970 別冊 映画便覧』、時事通信社、1970年発行
  • 『映画年鑑 1973 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1973年発行
  • キネマ旬報』10月上旬秋の特別号、キネマ旬報社、1975年10月発行
  • 『映画年鑑 1979 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1979年発行
  • 『映画年鑑 1984 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1984年発行
  • 『映画年鑑 1985 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1985年発行
  • 『キネマ旬報』7月下旬号、キネマ旬報社、1991年7月発行
  • 『極楽女優』高須基仁、『サンデー毎日』第79巻第62号通巻4418号所収、毎日新聞社、2000年12月

関連項目

外部リンク

画像外部リンク
江古田文化劇場NEWS No.75
1952年発行(アーカイブ)
江古田文化ウィークリー 表
1953年発行(アーカイブ)
江古田文化ウィークリー 裏
1953年発行(アーカイブ)