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「ドロテア・ア・ダンマーク (1504-1547)」の版間の差分

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== 生涯 ==
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その後、父王とその腹心の大法官ヴォルフガング・フォン・ウーテンホーフ(Wolfgang von Utenhof)が、プロイセン公アルブレヒトとの縁談を持ち込んできた。2人の結婚式は1526年7月1日に[[ケーニヒスベルク]]で行われた。公爵夫妻は仲が良く、ドロテアは母国デンマークとプロイセンとの積極的な交流を推し進めた。ドロテア夫婦と同母兄[[クリスチャン3世 (デンマーク王)|クリスチャン3世]]の関係も良好で、両者の間では頻繁に文通が交わされ、アルブレヒトは1537年に[[コペンハーゲン]]で行われたクリスチャン3世の戴冠式にも出席した。また、アンナは1536年から1542年までの間、異母弟の[[ハンス (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ハーデルスレーベン公)|ハンス]]をケーニヒスベルク宮廷に引き取って養育した。
その後、父王とその腹心の大法官ヴォルフガング・フォン・ウーテンホーフ(Wolfgang von Utenhof)が、プロイセン公アルブレヒトとの縁談を持ち込んできた。2人の結婚式は1526年7月1日に[[ケーニヒスベルク]]で行われた。公爵夫妻は仲が良く、ドロテアは母国デンマークとプロイセンとの積極的な交流を推し進めた。ドロテア夫婦と同母兄[[クリスチャン3世 (デンマーク王)|クリスチャン3世]]の関係も良好で、両者の間では頻繁に文通が交わされ、アルブレヒトは1537年に[[コペンハーゲン]]で行われたクリスチャン3世の戴冠式にも出席した。また、アンナは1536年から1542年までの間、異母弟の[[ハンス (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ハーデルスレーベン公)|ハンス]]をケーニヒスベルク宮廷に引き取って養育した。

2021年5月29日 (土) 12:04時点における版

ドロテア・ア・ダンマーク
Dorothea af Danmark

称号 プロイセン公妃
出生 1504年
デンマーク王国
シュレースヴィヒ公国シュレースヴィヒ、ゴットルプ城
死去 1547年4月11日
プロイセン公国ケーニヒスベルク城
埋葬 プロイセン公国ケーニヒスベルク大聖堂
配偶者 プロイセンアルブレヒト
子女 一覧参照
家名 オルデンブルク家
父親 デンマークフレゼリク1世
母親 アンナ・フォン・ブランデンブルク
テンプレートを表示
プロイセン公爵夫人ドロテアのデスマスクを元にした胸像、コルネリス・フローリス制作、プーシキン美術館

ドロテア・ア・ダンマークDorothea af Danmark, 1504年 - 1547年4月11日)は、プロイセンアルブレヒトの最初の妻。

生涯

デンマークフレゼリク1世とその最初の妻でブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロの娘であるアンナの間の第2子、長女として生まれた。1523年に父が王位に就いて間もなく、フランス王フランソワ1世が庇護していたイングランドヨーク派王位請求者リチャード・ド・ラ・ポール英語版との縁談が持ち上がったが、実現しなかった。

その後、父王とその腹心の大法官ヴォルフガング・フォン・ウーテンホーフ(Wolfgang von Utenhof)が、プロイセン公アルブレヒトとの縁談を持ち込んできた。2人の結婚式は1526年7月1日にケーニヒスベルクで行われた。公爵夫妻は仲が良く、ドロテアは母国デンマークとプロイセンとの積極的な交流を推し進めた。ドロテア夫婦と同母兄クリスチャン3世の関係も良好で、両者の間では頻繁に文通が交わされ、アルブレヒトは1537年にコペンハーゲンで行われたクリスチャン3世の戴冠式にも出席した。また、アンナは1536年から1542年までの間、異母弟のハンスをケーニヒスベルク宮廷に引き取って養育した。

ドロテアはまた熱心な慈善活動でも知られた。公爵夫人は1544年に夫君がアルベルトゥス大学ケーニヒスベルクを創立した際、学棟の北部に、自身の化粧料から費用を出して10人の無料給費生のための学生寮を設置・運営している。さらにプロテスタント信仰の勢力拡大も支援し、プロイセン領内にルター派神学者を多く呼び寄せ、パウル・スペラトゥス英語版ヨハン・グラマンドイツ語版と信頼関係を築いた。

子女

公爵夫妻の間には6人の子供が生まれたが、育ったのは長女だけだった。

  • アンナ・ゾフィア(1527年 - 1591年) - 1555年、メクレンブルク公ヨハン・アルブレヒト1世と結婚
  • カタリーナ(1528年)
  • フリードリヒ・アルブレヒト(1529年 - 1530年)
  • ルツィア・ドロテア(1531年 - 1532年)
  • ルツィア(1537年 - 1539年)
  • アルブレヒト(1539年』

参考文献