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[[ファイル:Dolgorukov Vasiliy Lukich (painted portrait).jpg|thumb|ヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ公の肖像]] |
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'''ヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ[[クニャージ|公]]'''({{Lang-ru|Князь Васи́лий Луки́ч Долгору́ков|Knyaz Vasily Lukich Dolgorukov}}、[[1672年]] - [[1739年]][[11月8日]])は、[[ロシア帝国]]の[[外交官]]、また[[大臣]]として[[ピョートル2世]]の治世後半における最高権力者の地位にあった人物。姓は'''ドルゴルーキー'''とも称する。 |
'''ヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ[[クニャージ|公]]'''({{Lang-ru|Князь Васи́лий Луки́ч Долгору́ков|Knyaz Vasily Lukich Dolgorukov}}、[[1672年]] - [[1739年]][[11月8日]])は、[[ロシア帝国]]の[[外交官]]、また[[大臣]]として[[ピョートル2世 (ロシア皇帝)|ピョートル2世]]の治世後半における最高権力者の地位にあった人物。姓は'''ドルゴルーキー'''とも称する。 |
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[[リューリク朝]]の流れをくむ名門[[ドルゴルーコフ家]]の公子であった彼は、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]の派遣した[[西ヨーロッパ|西欧]]への最初の[[留学|留学生団]]に加えられた。[[1687年]]から[[1700年]]にかけて[[パリ]]に滞在していたドルゴルーコフは、主要な西欧の言語数か国語を取得し、[[ヴェルサイユ宮殿|ヴェルサイユ宮廷]]のうわべを重視する洗練を身につけ、また[[イエズス会]]の[[修道士]]と交流を通じて彼らの道徳観に感化されたという。 |
[[リューリク朝]]の流れをくむ名門[[ドルゴルーコフ家]]の公子であった彼は、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]の派遣した[[西ヨーロッパ|西欧]]への最初の[[留学|留学生団]]に加えられた。[[1687年]]から[[1700年]]にかけて[[パリ]]に滞在していたドルゴルーコフは、主要な西欧の言語数か国語を取得し、[[ヴェルサイユ宮殿|ヴェルサイユ宮廷]]のうわべを重視する洗練を身につけ、また[[イエズス会]]の[[修道士]]と交流を通じて彼らの道徳観に感化されたという。 |
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帰国した彼は外交官庁に所属し、[[ポーランド・リトアニア共和国]]への使節([[1706年]]‐[[1707年]])を経て[[コペンハーゲン]]駐在[[デンマーク]]公使に着任、[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]に[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]][[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]との同盟の継続をやめさせるよう説得することに成功した。[[1720年]]ドルゴルーコフはヴェルサイユに戻り、スウェーデンとの休戦交渉を[[フランス王国|フランス]]に頼み、またピョートル1世が名乗ろうとしていた「[[インペラトル|ロシア皇帝]]」の称号を同国に承認させる外交努力を尽くした。 |
帰国した彼は外交官庁に所属し、[[ポーランド・リトアニア共和国]]への使節([[1706年]]‐[[1707年]])を経て[[コペンハーゲン]]駐在[[デンマーク]]公使に着任、[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]に[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]][[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]との同盟の継続をやめさせるよう説得することに成功した。[[1720年]]ドルゴルーコフはヴェルサイユに戻り、スウェーデンとの休戦交渉を[[フランス王国|フランス]]に頼み、またピョートル1世が名乗ろうとしていた「[[インペラトル|ロシア皇帝]]」の称号を同国に承認させる外交努力を尽くした。 |
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[[1727年]]に[[ピョートル2世]]が即位すると、ドルゴルーコフは[[最高枢密院]]のメンバーに選ばれた。実権を握る[[アレクサンドル・メーンシコフ|メーンシコフ]]の失脚を画策してこれに成功すると、幼い皇帝を自分の従弟アレクセイの娘である[[エカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァ|エカチェリーナ]]と婚約させた。しかしピョートル2世はあっけなく急死したため、ドルゴルーコフはクールラント公妃[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ・イヴァノヴナ]]を擁立し、彼女に即位に際して君主権を制約する「条件」をのませて傀儡とすることで、最高枢密院に拠った大貴族たちの実権を保持させようとした。ところがアンナは中小貴族たちの支持を背景に「条件」を撥ねつけてしまった。 |
[[1727年]]に[[ピョートル2世 (ロシア皇帝)|ピョートル2世]]が即位すると、ドルゴルーコフは[[最高枢密院]]のメンバーに選ばれた。実権を握る[[アレクサンドル・メーンシコフ|メーンシコフ]]の失脚を画策してこれに成功すると、幼い皇帝を自分の従弟アレクセイの娘である[[エカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァ|エカチェリーナ]]と婚約させた。しかしピョートル2世はあっけなく急死したため、ドルゴルーコフはクールラント公妃[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ・イヴァノヴナ]]を擁立し、彼女に即位に際して君主権を制約する「条件」をのませて傀儡とすることで、最高枢密院に拠った大貴族たちの実権を保持させようとした。ところがアンナは中小貴族たちの支持を背景に「条件」を撥ねつけてしまった。 |
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2021年6月13日 (日) 05:20時点における版
ヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ公(ロシア語: Князь Васи́лий Луки́ч Долгору́ков, tr. Knyaz Vasily Lukich Dolgorukov、1672年 - 1739年11月8日)は、ロシア帝国の外交官、また大臣としてピョートル2世の治世後半における最高権力者の地位にあった人物。姓はドルゴルーキーとも称する。
リューリク朝の流れをくむ名門ドルゴルーコフ家の公子であった彼は、ピョートル1世の派遣した西欧への最初の留学生団に加えられた。1687年から1700年にかけてパリに滞在していたドルゴルーコフは、主要な西欧の言語数か国語を取得し、ヴェルサイユ宮廷のうわべを重視する洗練を身につけ、またイエズス会の修道士と交流を通じて彼らの道徳観に感化されたという。
帰国した彼は外交官庁に所属し、ポーランド・リトアニア共和国への使節(1706年‐1707年)を経てコペンハーゲン駐在デンマーク公使に着任、フレデリク4世にスウェーデン王カール12世との同盟の継続をやめさせるよう説得することに成功した。1720年ドルゴルーコフはヴェルサイユに戻り、スウェーデンとの休戦交渉をフランスに頼み、またピョートル1世が名乗ろうとしていた「ロシア皇帝」の称号を同国に承認させる外交努力を尽くした。
1727年にピョートル2世が即位すると、ドルゴルーコフは最高枢密院のメンバーに選ばれた。実権を握るメーンシコフの失脚を画策してこれに成功すると、幼い皇帝を自分の従弟アレクセイの娘であるエカチェリーナと婚約させた。しかしピョートル2世はあっけなく急死したため、ドルゴルーコフはクールラント公妃アンナ・イヴァノヴナを擁立し、彼女に即位に際して君主権を制約する「条件」をのませて傀儡とすることで、最高枢密院に拠った大貴族たちの実権を保持させようとした。ところがアンナは中小貴族たちの支持を背景に「条件」を撥ねつけてしまった。
1730年4月17日、ドルゴルーコフは全ての官職と名誉を剥奪されて、邸宅も奪われてソロヴェツキー修道院に追放された。9年後、ピョートル2世の遺言状から探し出された罪によってドルゴルーコフは告発され、拷問を受けて1739年11月8日にノヴゴロドで斬首された[1]。
脚注
- ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、80頁。ISBN 978-4-334-03811-3。
参考文献
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Dolgoruki, Vasily Lukich". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
外交職 | ||
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先代 グリゴリー・ドルゴルーコフ |
在ポーランド・リトアニア共和国ロシア公使 1706年 – 1707年 |
次代 グリゴリー・ドルゴルーコフ |
先代 アンドレイ・イズマイロフ |
在デンマークロシア公使 1707年 – 1720年 |
次代 アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン |
先代 ハンス・クリストフ・シュレイニッツ |
在フランスロシア公使 1720年 – 1722年 |
次代 アレクサンドル・クラーキン |
先代 セルゲイ・ドルゴルーコフ |
在ポーランド・リトアニア共和国ロシア公使 1725年 – 1726年 |
次代 ミハイル・ベストゥージェフ=リューミン |