「ドミトリー・ミハイロヴィチ・ゴリツィン」の版間の差分
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1697年にイタリアに派遣されて軍事について学んだ後、1704年に[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]派遣軍の指揮官に任命され、スウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]と戦った<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Golitsuin, Dmitry Mikhailovich|volume=12|page=225|last=Bain|first=Robert Nisbet|authorlink=ロバート・ニスベット・ベイン}}</ref>。1711年から1718年まで[[ベルゴロド]]総督を務めた後、1718年に{{仮リンク|元老院 (ロシア)|en|Governing Senate|label=元老院}}議員と{{仮リンク|ピョートル1世の政府改革|en|Government reform of Peter the Great}}により設立された{{仮リンク|商業参議会|en|Collegium of Commerce}}の初代議長に任命された<ref name="EB1911" />。 |
1697年にイタリアに派遣されて軍事について学んだ後、1704年に[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]派遣軍の指揮官に任命され、スウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]と戦った<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Golitsuin, Dmitry Mikhailovich|volume=12|page=225|last=Bain|first=Robert Nisbet|authorlink=ロバート・ニスベット・ベイン}}</ref>。1711年から1718年まで[[ベルゴロド]]総督を務めた後、1718年に{{仮リンク|元老院 (ロシア)|en|Governing Senate|label=元老院}}議員と{{仮リンク|ピョートル1世の政府改革|en|Government reform of Peter the Great}}により設立された{{仮リンク|商業参議会|en|Collegium of Commerce}}の初代議長に任命された<ref name="EB1911" />。 |
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1723年に[[ピョートル・シャフィーロフ]]が失脚すると、ゴリツィンも巻き込まれて全ての官職と称号を失い、[[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]のとりなしでようやく取り戻した<ref name="EB1911" />。1725年にピョートル1世が死去すると、ゴリツィンはピョートル1世が先妻[[エヴドキヤ・ロプーヒナ]]を捨ててマルファ・スカヴロンスカヤ(エカチェリーナ1世)と結婚したことを許さない保守派の長として広く認められた<ref name="EB1911" />。しかし、エカチェリーナ1世の治世(1725年 - 1727年)では[[アレクサンドル・メーンシコフ]]や[[ピョートル・アンドレーエヴィチ・トルストイ]]ら改革派が政治を主導、メーンシコフが1727年に失脚するまで続いた<ref name="EB1911" />。ピョートル1世の孫[[ピョートル2世]]の治世(1728年 - 1730年)、ゴリツィンがロシアで影響力の最も強い政治家になった<ref name="EB1911" />。ピョートル2世の死後は君主の権力を制限して、自らが議長を務める[[最高枢密院]]に従属させようとし、さらに「{{仮リンク|条件 (ロシア)|en|Conditions (Russia)|label=条件}}」と呼ばれる規定を起草して、次期皇帝に選出されたクールラント女公[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]に迫って、[[イェルガヴァ|ミタウ]]で条件に署名させた<ref name="EB1911" />。アンナは即位するとすぐに条件を破棄して、条件の作成に関わった人物に復讐したが、ゴリツィン自身は一時は処罰を免れて引退生活を送った<ref name="EB1911" />。 |
1723年に[[ピョートル・シャフィーロフ]]が失脚すると、ゴリツィンも巻き込まれて全ての官職と称号を失い、[[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]のとりなしでようやく取り戻した<ref name="EB1911" />。1725年にピョートル1世が死去すると、ゴリツィンはピョートル1世が先妻[[エヴドキヤ・ロプーヒナ]]を捨ててマルファ・スカヴロンスカヤ(エカチェリーナ1世)と結婚したことを許さない保守派の長として広く認められた<ref name="EB1911" />。しかし、エカチェリーナ1世の治世(1725年 - 1727年)では[[アレクサンドル・メーンシコフ]]や[[ピョートル・アンドレーエヴィチ・トルストイ]]ら改革派が政治を主導、メーンシコフが1727年に失脚するまで続いた<ref name="EB1911" />。ピョートル1世の孫[[ピョートル2世 (ロシア皇帝)|ピョートル2世]]の治世(1728年 - 1730年)、ゴリツィンがロシアで影響力の最も強い政治家になった<ref name="EB1911" />。ピョートル2世の死後は君主の権力を制限して、自らが議長を務める[[最高枢密院]]に従属させようとし、さらに「{{仮リンク|条件 (ロシア)|en|Conditions (Russia)|label=条件}}」と呼ばれる規定を起草して、次期皇帝に選出されたクールラント女公[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]に迫って、[[イェルガヴァ|ミタウ]]で条件に署名させた<ref name="EB1911" />。アンナは即位するとすぐに条件を破棄して、条件の作成に関わった人物に復讐したが、ゴリツィン自身は一時は処罰を免れて引退生活を送った<ref name="EB1911" />。 |
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1736年、コンスタンチン・カンテミール公(1724年にゴリツィンの娘アナスタシアと結婚していた)の陰謀への関与を疑われて逮捕されたが<ref name="EB1911" />、実際に起訴された理由は絶対君主制への反対である。その後、ゴリツィンの政敵は裁判を主導して死刑判決を下したが、アンナ女帝はそれを[[シュリッセリブルク]]での無期禁錮と全財産の没収に軽減した<ref name="EB1911" />。禁錮から3か月後の1737年4月14日、獄中で死去した<ref name="EB1911" />。 |
1736年、コンスタンチン・カンテミール公(1724年にゴリツィンの娘アナスタシアと結婚していた)の陰謀への関与を疑われて逮捕されたが<ref name="EB1911" />、実際に起訴された理由は絶対君主制への反対である。その後、ゴリツィンの政敵は裁判を主導して死刑判決を下したが、アンナ女帝はそれを[[シュリッセリブルク]]での無期禁錮と全財産の没収に軽減した<ref name="EB1911" />。禁錮から3か月後の1737年4月14日、獄中で死去した<ref name="EB1911" />。 |
2021年6月13日 (日) 05:21時点における版
ドミトリー・ミハイロヴィチ・ゴリツィン公(ロシア語: Дмитрий Михайлович Голицын、1665年7月13日 - 1737年4月25日(グレゴリオ暦))は、ロシア・ツァーリ国およびロシア帝国の貴族、政治家。ゴリツィン家出身。
生涯
1697年にイタリアに派遣されて軍事について学んだ後、1704年にポーランド派遣軍の指揮官に任命され、スウェーデン王カール12世と戦った[1]。1711年から1718年までベルゴロド総督を務めた後、1718年に元老院議員とピョートル1世の政府改革により設立された商業参議会の初代議長に任命された[1]。
1723年にピョートル・シャフィーロフが失脚すると、ゴリツィンも巻き込まれて全ての官職と称号を失い、エカチェリーナ1世のとりなしでようやく取り戻した[1]。1725年にピョートル1世が死去すると、ゴリツィンはピョートル1世が先妻エヴドキヤ・ロプーヒナを捨ててマルファ・スカヴロンスカヤ(エカチェリーナ1世)と結婚したことを許さない保守派の長として広く認められた[1]。しかし、エカチェリーナ1世の治世(1725年 - 1727年)ではアレクサンドル・メーンシコフやピョートル・アンドレーエヴィチ・トルストイら改革派が政治を主導、メーンシコフが1727年に失脚するまで続いた[1]。ピョートル1世の孫ピョートル2世の治世(1728年 - 1730年)、ゴリツィンがロシアで影響力の最も強い政治家になった[1]。ピョートル2世の死後は君主の権力を制限して、自らが議長を務める最高枢密院に従属させようとし、さらに「条件」と呼ばれる規定を起草して、次期皇帝に選出されたクールラント女公アンナに迫って、ミタウで条件に署名させた[1]。アンナは即位するとすぐに条件を破棄して、条件の作成に関わった人物に復讐したが、ゴリツィン自身は一時は処罰を免れて引退生活を送った[1]。
1736年、コンスタンチン・カンテミール公(1724年にゴリツィンの娘アナスタシアと結婚していた)の陰謀への関与を疑われて逮捕されたが[1]、実際に起訴された理由は絶対君主制への反対である。その後、ゴリツィンの政敵は裁判を主導して死刑判決を下したが、アンナ女帝はそれをシュリッセリブルクでの無期禁錮と全財産の没収に軽減した[1]。禁錮から3か月後の1737年4月14日、獄中で死去した[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k Bain, Robert Nisbet (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 12 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 225.