コンテンツにスキップ

「ホルシュタイン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
リンク調整
Cewbot (会話 | 投稿記録)
9行目: 9行目:
ホルシュタイン、つまり[[エルベ川]]の北に位置した古代ザクセンの一部は、800年ごろ[[カール大帝]]によって征服された。ホルシュタインは、13世紀初頭には[[デンマーク]]によって占拠されはしたが、[[1111年]]から[[1474年]]まで[[神聖ローマ帝国]]の1州で、その後は[[1806年]]の帝国解体まで帝国直轄の[[ホルシュタイン公国]]だった。[[1460年]]以来、ホルシュタインは[[シュレースヴィヒ公国]]とともに、王としてではなく公としてその地を支配したデンマーク王によって相続された。
ホルシュタイン、つまり[[エルベ川]]の北に位置した古代ザクセンの一部は、800年ごろ[[カール大帝]]によって征服された。ホルシュタインは、13世紀初頭には[[デンマーク]]によって占拠されはしたが、[[1111年]]から[[1474年]]まで[[神聖ローマ帝国]]の1州で、その後は[[1806年]]の帝国解体まで帝国直轄の[[ホルシュタイン公国]]だった。[[1460年]]以来、ホルシュタインは[[シュレースヴィヒ公国]]とともに、王としてではなく公としてその地を支配したデンマーク王によって相続された。


2つの公国は、デンマーク王家によって相続される中で、一部はデンマーク王家の支配下に、他はこの王家の分家たる[[ホルシュタイン=ゴットルプ家]]の下にそれぞれがさらに分割された。ホルシュタイン=ゴットルプ公は、[[大北方戦争]]の結果、[[1720年]]にシュレースヴィヒ内の領地をデンマーク王家に引き渡すことを強いられたが、公は[[キール (都市)|キール]]に移り、[[1773年]]までホルシュタイン内の領地を保持した。しかしデーン人は、特にホルシュタイン=ゴットルプ公が[[ピョートル3世]]として[[1762年]]に[[ツァーリ|ロシア皇帝]]になって以後、シュレースヴィヒ内の失われた[[ゴットルプ]]領([[:en:Gottorp]])を回復するため、デンマークの攻撃を計画し始めると、自らの領土を完全なものとすることを熱望した。ピョートルはその妻[[エカチェリーナ2世]]によってすぐに権力の座から引きおろされたが、デーン人はこの問題を自身の手で取り除くことを決意した。[[1773年]]に、ホルシュタイン全土を支配下に収めるため、彼らは[[オルデンブルク (領邦)|オルデンブルク]]をホルシュタイン内のゴットルプ領と交換した。
2つの公国は、デンマーク王家によって相続される中で、一部はデンマーク王家の支配下に、他はこの王家の分家たる[[ホルシュタイン=ゴットルプ家]]の下にそれぞれがさらに分割された。ホルシュタイン=ゴットルプ公は、[[大北方戦争]]の結果、[[1720年]]にシュレースヴィヒ内の領地をデンマーク王家に引き渡すことを強いられたが、公は[[キール (都市)|キール]]に移り、[[1773年]]までホルシュタイン内の領地を保持した。しかしデーン人は、特にホルシュタイン=ゴットルプ公が[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]として[[1762年]]に[[ツァーリ|ロシア皇帝]]になって以後、シュレースヴィヒ内の失われた[[ゴットルプ]]領([[:en:Gottorp]])を回復するため、デンマークの攻撃を計画し始めると、自らの領土を完全なものとすることを熱望した。ピョートルはその妻[[エカチェリーナ2世]]によってすぐに権力の座から引きおろされたが、デーン人はこの問題を自身の手で取り除くことを決意した。[[1773年]]に、ホルシュタイン全土を支配下に収めるため、彼らは[[オルデンブルク (領邦)|オルデンブルク]]をホルシュタイン内のゴットルプ領と交換した。


[[1815年]]から[[1864年]]までホルシュタイン公国は、なお[[デンマーク]]と[[同君連合]](デンマーク王はホルシュタイン公でもある)であったが、[[ドイツ連邦]]の一部でもあった。[[1863年]]のデンマーク王[[フレデリク7世 (デンマーク王)|フレゼリク7世]]の死の結果、シュレースヴィヒとホルシュタインの相続権が争われた。新王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]は、女系でもってデンマークの王位を主張した。王家の他の系統であまり有力でなかったアウグステンブルク公[[クリスチャン・アウグスト2世]]がそれら2つの公国を要求すると、間もなくドイツ連邦は[[プロイセン王国|プロイセン]]と[[オーストリア帝国|オーストリア]]に率いられ、デンマークとの戦争([[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]])に踏み切り、[[1864年]]に素早くこれを打ち破って両公国を割譲させた。しかしながら両公国は、結局アウグステンブルク公には与えられず、オーストリアがホルシュタインを占領・管理し、一方、プロイセンがシュレースヴィヒを同様にするという協定がプロイセンとオーストリアの間で[[1865年]]に締結された。この協定は[[1866年]]の[[普墺戦争]]で終わりを迎え、プロイセンにシュレースヴィヒとホルシュタインの両国が組み入れられることになる。
[[1815年]]から[[1864年]]までホルシュタイン公国は、なお[[デンマーク]]と[[同君連合]](デンマーク王はホルシュタイン公でもある)であったが、[[ドイツ連邦]]の一部でもあった。[[1863年]]のデンマーク王[[フレデリク7世 (デンマーク王)|フレゼリク7世]]の死の結果、シュレースヴィヒとホルシュタインの相続権が争われた。新王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]は、女系でもってデンマークの王位を主張した。王家の他の系統であまり有力でなかったアウグステンブルク公[[クリスチャン・アウグスト2世]]がそれら2つの公国を要求すると、間もなくドイツ連邦は[[プロイセン王国|プロイセン]]と[[オーストリア帝国|オーストリア]]に率いられ、デンマークとの戦争([[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]])に踏み切り、[[1864年]]に素早くこれを打ち破って両公国を割譲させた。しかしながら両公国は、結局アウグステンブルク公には与えられず、オーストリアがホルシュタインを占領・管理し、一方、プロイセンがシュレースヴィヒを同様にするという協定がプロイセンとオーストリアの間で[[1865年]]に締結された。この協定は[[1866年]]の[[普墺戦争]]で終わりを迎え、プロイセンにシュレースヴィヒとホルシュタインの両国が組み入れられることになる。

2021年6月13日 (日) 05:29時点における版

シュレースヴィヒ地方とホルシュタイン地方

ホルシュタインドイツ語: Holsteinドイツ語発音: [ˈhɔlʃtaɪn])、低地ドイツ語: Holsteenデンマーク語: Holstenラテン語及び古典的な英語: Holsatia)は、エルベ川アイダー川の間、現在のドイツシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の南部地域をいう。同州の州都キールはホルシュタインの代表的な都市でもある。またハンブルク市は、この地域のすぐ南にある。

その名前は、アングロサクソン語(古英語)のHolt-sǣtanすなわち「森の住人」と同義の低地ドイツ語の言葉に由来している。

歴史

ホルシュタイン伯爵家の紋章

ホルシュタイン、つまりエルベ川の北に位置した古代ザクセンの一部は、800年ごろカール大帝によって征服された。ホルシュタインは、13世紀初頭にはデンマークによって占拠されはしたが、1111年から1474年まで神聖ローマ帝国の1州で、その後は1806年の帝国解体まで帝国直轄のホルシュタイン公国だった。1460年以来、ホルシュタインはシュレースヴィヒ公国とともに、王としてではなく公としてその地を支配したデンマーク王によって相続された。

2つの公国は、デンマーク王家によって相続される中で、一部はデンマーク王家の支配下に、他はこの王家の分家たるホルシュタイン=ゴットルプ家の下にそれぞれがさらに分割された。ホルシュタイン=ゴットルプ公は、大北方戦争の結果、1720年にシュレースヴィヒ内の領地をデンマーク王家に引き渡すことを強いられたが、公はキールに移り、1773年までホルシュタイン内の領地を保持した。しかしデーン人は、特にホルシュタイン=ゴットルプ公がピョートル3世として1762年ロシア皇帝になって以後、シュレースヴィヒ内の失われたゴットルプ領(en:Gottorp)を回復するため、デンマークの攻撃を計画し始めると、自らの領土を完全なものとすることを熱望した。ピョートルはその妻エカチェリーナ2世によってすぐに権力の座から引きおろされたが、デーン人はこの問題を自身の手で取り除くことを決意した。1773年に、ホルシュタイン全土を支配下に収めるため、彼らはオルデンブルクをホルシュタイン内のゴットルプ領と交換した。

1815年から1864年までホルシュタイン公国は、なおデンマーク同君連合(デンマーク王はホルシュタイン公でもある)であったが、ドイツ連邦の一部でもあった。1863年のデンマーク王フレゼリク7世の死の結果、シュレースヴィヒとホルシュタインの相続権が争われた。新王クリスチャン9世は、女系でもってデンマークの王位を主張した。王家の他の系統であまり有力でなかったアウグステンブルク公クリスチャン・アウグスト2世がそれら2つの公国を要求すると、間もなくドイツ連邦はプロイセンオーストリアに率いられ、デンマークとの戦争(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)に踏み切り、1864年に素早くこれを打ち破って両公国を割譲させた。しかしながら両公国は、結局アウグステンブルク公には与えられず、オーストリアがホルシュタインを占領・管理し、一方、プロイセンがシュレースヴィヒを同様にするという協定がプロイセンとオーストリアの間で1865年に締結された。この協定は1866年普墺戦争で終わりを迎え、プロイセンにシュレースヴィヒとホルシュタインの両国が組み入れられることになる。

なお、伝統的に牧畜や酪農が盛んな地方であるが、世界的に有名なホルスタイン種は、この地方原産ではない(本来の原産地はオランダフリースラント)。ただし、ホルシュタイン種はホルシュタイン州原産である。

外部リンク