「レプニン家」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (ピョートル3世 (ロシア皇帝)) - log |
||
7行目: | 7行目: | ||
* ボリス・アレクサンドロヴィチ・レプニン…1639年以降、[[ボヤーレ|大貴族]]として多くの官房([[プリカース]])の長官を務めた。さらに[[アストラハン]](1643年-1646年)と[[スモレンスク]](1656年-1659年)で都市長官を務め、ツァーリの不在時には頻繁に[[ドゥーマ|貴族会議]]の議長役を代行していた。1670年5月17日に[[モスクワ]]で没した。 |
* ボリス・アレクサンドロヴィチ・レプニン…1639年以降、[[ボヤーレ|大貴族]]として多くの官房([[プリカース]])の長官を務めた。さらに[[アストラハン]](1643年-1646年)と[[スモレンスク]](1656年-1659年)で都市長官を務め、ツァーリの不在時には頻繁に[[ドゥーマ|貴族会議]]の議長役を代行していた。1670年5月17日に[[モスクワ]]で没した。 |
||
* [[アニキータ・レプニン|アニキータ・イヴァノヴィチ・レプニン]](1668年‐1726年)…ボリスの孫。[[大北方戦争]]に従軍した将軍で、陸軍元帥および*国防長官まで上りつめた。 |
* [[アニキータ・レプニン|アニキータ・イヴァノヴィチ・レプニン]](1668年‐1726年)…ボリスの孫。[[大北方戦争]]に従軍した将軍で、陸軍元帥および*国防長官まで上りつめた。 |
||
* ヴァシーリー・アニキートノヴィチ・レプニン(1696年‐1748年)…アニキータの子。[[ピョートル3世]]の傅育官で陸軍士官学校校長。[[オーストリア継承戦争]]の軍総司令官を務め、[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]成立に尽力したが、その帰途で没した。 |
* ヴァシーリー・アニキートノヴィチ・レプニン(1696年‐1748年)…アニキータの子。[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]の傅育官で陸軍士官学校校長。[[オーストリア継承戦争]]の軍総司令官を務め、[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]成立に尽力したが、その帰途で没した。 |
||
* [[ニコライ・レプニン|ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・レプニン]](1734年‐1801年)…ヴァシーリーの子、おそらく一族中最も有名な人物。大使として[[ロシア|ロシア帝国]]による[[ポーランド王国|ポーランド]]への[[内政干渉]]を強化させ、[[露土戦争|対トルコ戦争]]でも活躍した。嫡出には3人の娘しかいなかったため、[[アレクサンドル1世]]の許しを得て孫のニコライ・ヴォルコンスキー公にレプニンの姓と[[紋章]]を相続させた。このため子孫はレプニン=ヴォルコンスキー公家を名乗っている。庶子に[[詩人]][[イヴァン・プーニン]]がいる。 |
* [[ニコライ・レプニン|ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・レプニン]](1734年‐1801年)…ヴァシーリーの子、おそらく一族中最も有名な人物。大使として[[ロシア|ロシア帝国]]による[[ポーランド王国|ポーランド]]への[[内政干渉]]を強化させ、[[露土戦争|対トルコ戦争]]でも活躍した。嫡出には3人の娘しかいなかったため、[[アレクサンドル1世]]の許しを得て孫のニコライ・ヴォルコンスキー公にレプニンの姓と[[紋章]]を相続させた。このため子孫はレプニン=ヴォルコンスキー公家を名乗っている。庶子に[[詩人]][[イヴァン・プーニン]]がいる。 |
||
2021年6月13日 (日) 05:30時点における版
レプニン家(Репнин / Repnin)は、リューリク朝の流れをくむ由緒ある公(クニャージ)の家系。家名は一族の始祖イヴァン・ミハイロヴィチ・オボレンスキー公(1523年没)の、「まずいお粥」を意味する綽名「レプーニャ」に由来する。本家筋のオボレンスキー家と同じく、1246年にモンゴル帝国によって殺害されたキエフ大公ミハイル・チェルニゴフスキーの子孫である。
輩出した人物
同家に属する人物は全て「prince」に相当する「公(Князь / knyaz)」ないし「公女(княжна / knyaginya)」の称号を以て称されるが、ここでは略する。
- エレナ・ミハイロヴナ・レプニナ…夫のヴァシーリー・シュイスキーが1606年にツァーリに選出されたため、皇妃(ツァリーツァ)となった。しかし翌1607年、夫は彼女と離婚して若い女性と再婚した。
- ボリス・アレクサンドロヴィチ・レプニン…1639年以降、大貴族として多くの官房(プリカース)の長官を務めた。さらにアストラハン(1643年-1646年)とスモレンスク(1656年-1659年)で都市長官を務め、ツァーリの不在時には頻繁に貴族会議の議長役を代行していた。1670年5月17日にモスクワで没した。
- アニキータ・イヴァノヴィチ・レプニン(1668年‐1726年)…ボリスの孫。大北方戦争に従軍した将軍で、陸軍元帥および*国防長官まで上りつめた。
- ヴァシーリー・アニキートノヴィチ・レプニン(1696年‐1748年)…アニキータの子。ピョートル3世の傅育官で陸軍士官学校校長。オーストリア継承戦争の軍総司令官を務め、アーヘンの和約成立に尽力したが、その帰途で没した。
- ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・レプニン(1734年‐1801年)…ヴァシーリーの子、おそらく一族中最も有名な人物。大使としてロシア帝国によるポーランドへの内政干渉を強化させ、対トルコ戦争でも活躍した。嫡出には3人の娘しかいなかったため、アレクサンドル1世の許しを得て孫のニコライ・ヴォルコンスキー公にレプニンの姓と紋章を相続させた。このため子孫はレプニン=ヴォルコンスキー公家を名乗っている。庶子に詩人イヴァン・プーニンがいる。