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カール・アウグストもまだ幼かったので、その母[[アンナ・アマーリア・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|アンナ・アマーリア]]が摂政となった。彼女は[[七年戦争]]の最中という難局にあってよく国を治めた。また芸術や文学の後援も行い、[[ヨハン・ゴトフリート・ヘルダー|ヘルダー]]や[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]といった当時を代表する文化人をヴァイマルに招いている。 |
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[[1775年]]からカール・アウグストは親政をはじめ、[[1809年]]に両公国は統合されて正式にザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国となった。[[1804年]]には太子の[[カール・フリードリヒ (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・フリードリヒ]]を[[ロシア君主一覧|ロシア皇帝]][[アレクサンドル1世]]の妹である[[マリア・パヴロヴナ (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公妃)|マリア・パヴロヴナ]]と結婚させたが、これは[[ナポレオン戦争]]の混乱の中で[[ロシア帝国|ロシア]]の援助が必要だと判断したためであった。その甲斐あって、[[ウィーン会議]]ではアレクサンドル1世の口添えによりザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国はノイシュタットなどを獲得した上で大公国へ昇格した。 |
[[1775年]]からカール・アウグストは親政をはじめ、[[1809年]]に両公国は統合されて正式にザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国となった。[[1804年]]には太子の[[カール・フリードリヒ (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・フリードリヒ]]を[[ロシア君主一覧|ロシア皇帝]][[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の妹である[[マリア・パヴロヴナ (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公妃)|マリア・パヴロヴナ]]と結婚させたが、これは[[ナポレオン戦争]]の混乱の中で[[ロシア帝国|ロシア]]の援助が必要だと判断したためであった。その甲斐あって、[[ウィーン会議]]ではアレクサンドル1世の口添えによりザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国はノイシュタットなどを獲得した上で大公国へ昇格した。 |
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カール・アウグストが死去すると、大公位は息子のカール・フリードリヒが継承した。妃のマリア・パヴロヴナが音楽に傾倒していたこともあり、彼の治世のヴァイマルでは[[フランツ・リスト]]や[[ペーター・コルネリウス]]が活発に活動している。そのあとを嗣いだ息子[[カール・アレクサンダー (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・アレクサンダー]]のときに大公国は[[ドイツ帝国]]の構成国となった。 |
カール・アウグストが死去すると、大公位は息子のカール・フリードリヒが継承した。妃のマリア・パヴロヴナが音楽に傾倒していたこともあり、彼の治世のヴァイマルでは[[フランツ・リスト]]や[[ペーター・コルネリウス]]が活発に活動している。そのあとを嗣いだ息子[[カール・アレクサンダー (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・アレクサンダー]]のときに大公国は[[ドイツ帝国]]の構成国となった。 |
2021年6月13日 (日) 07:55時点における版
- ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国
ザクセン大公国 - Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach
Großherzogtum Sachsen -
(国旗) (紋章) - 国歌 : ヴァイマルの歌
-
首都 ヴァイマル 君主号 公(ドイツ語: Herzog、1815年まで)
大公(Großherzog)君主家 ヴェッティン家(エルンスト系) 面積 3,610 km2 人口 417,149人 (1910年) 人口密度 116 人/km2 成立 ザクセン=ヴァイマル公のザクセン=アイゼナハ継承(1741年)
1809年に正式に統合、1815年に大公国へ消滅 ドイツ革命による君主制廃止、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ自由州に移行(1918年)
1920年よりテューリンゲン州へ統合連邦参議院での投票権数 1 ナンバープレート S
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ(ドイツ語: Sachsen-Weimar-Eisenach)は、ドイツ中部のテューリンゲン地方にあった領邦国家。首都はヴァイマル。1741年から1815年まで公国、1815年から1918年まで大公国であった。
1903年に正式な国号をザクセン大公国(ドイツ語: Großherzogtum Sachsen)へと改めたが、それ以後もザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国(ドイツ語: Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach)の名で呼ばれることが多い。
地理
ドイツ帝国のもとでテューリンゲン諸邦と総称された領邦群のうちのひとつである。
ドイツ帝国時代の領土は大きく分けて3つ、すなわち西部の旧ザクセン=アイゼナハ公国領、中央部の旧ザクセン=ヴァイマル公国領、東部のノイシュタットに分けられ、このほか大小多数の飛び地があった。旧ザクセン=ヴァイマル公国の地域には、首都ヴァイマルや、イェーナ大学を擁する大学町イェーナがある。旧ザクセン=アイゼナハ公国の中心地アイゼナハは、J・S・バッハの出生地として知られる。
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の領土は、他のテューリンゲン諸国のすべて(ザクセン=アルテンブルク公国、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国、ザクセン=マイニンゲン公国、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国、ロイス=グライツ侯国、ロイス=ゲーラ侯国)の領土と境を接し、またプロイセン王国、ザクセン王国、バイエルン王国と隣接していた。
歴史
エルンスト系ヴェッティン家が統治した神聖ローマ帝国の領邦であるザクセン諸公国は、しばしば領土の分割・再編を繰り返していた。その中の一つ、ヴァイマル周辺を領土とするザクセン=ヴァイマル公国の君主であったエルンスト・アウグスト1世は、1741年に嗣子なく死去したザクセン=アイゼナハ公ヴィルヘルム・ハインリヒの遺領(アイゼナハ周辺)を継承した。これによってザクセン=ヴァイマルとザクセン=アイゼナハの同君連合が成立し、以後その領邦はザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国(ドイツ語: Herzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach)と呼ばれるようになった。
1748年にエルンスト・アウグスト1世が没すると、両公位は息子のエルンスト・アウグスト2世コンスタンティンが継承したが、彼はまだ幼かったので摂政が立てられた。エルンスト・アウグスト2世コンスタンティンは1755年から親政を始めるものの、そのわずか3年後に20歳で死去し、息子のカール・アウグストが公位を嗣いだ。
カール・アウグストもまだ幼かったので、その母アンナ・アマーリアが摂政となった。彼女は七年戦争の最中という難局にあってよく国を治めた。また芸術や文学の後援も行い、ヘルダーやシラー、ゲーテといった当時を代表する文化人をヴァイマルに招いている。
1775年からカール・アウグストは親政をはじめ、1809年に両公国は統合されて正式にザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国となった。1804年には太子のカール・フリードリヒをロシア皇帝アレクサンドル1世の妹であるマリア・パヴロヴナと結婚させたが、これはナポレオン戦争の混乱の中でロシアの援助が必要だと判断したためであった。その甲斐あって、ウィーン会議ではアレクサンドル1世の口添えによりザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国はノイシュタットなどを獲得した上で大公国へ昇格した。
カール・アウグストが死去すると、大公位は息子のカール・フリードリヒが継承した。妃のマリア・パヴロヴナが音楽に傾倒していたこともあり、彼の治世のヴァイマルではフランツ・リストやペーター・コルネリウスが活発に活動している。そのあとを嗣いだ息子カール・アレクサンダーのときに大公国はドイツ帝国の構成国となった。
1918年にドイツ革命が発生すると、最後の大公ヴィルヘルム・エルンストは退位宣言に署名し、大公国は消滅した。領域はいったんザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ自由州となったが、1920年に周辺の諸邦と合併してテューリンゲン州となった。
君主一覧
- ザクセン=ヴァイマル公およびザクセン=アイゼナハ公
- ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公
- カール・アウグスト(1815年 - 1828年)
- カール・フリードリヒ(1828年 - 1853年)
- カール・アレクサンダー(1853年 - 1901年)
- ヴィルヘルム・エルンスト(1901年 - 1918年)