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「アレクサンドル・クラーキン」の版間の差分

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1752年1月18日[[モスクワ]]に生まれる。クラーキン家は代々外交官を輩出してきた家柄で、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル大帝]]に仕えた外交官[[ボリス・クラーキン]]は曽祖父にあたる。[[1764年]]父のボリス・アレクサンドロヴィッチ・クラーキンが死去し、[[サンクトペテルブルク]]に移る。ペテルブルクでクラーキンは[[皇太子]]パーヴェル・ペトローヴィチ大公(後の[[ロシア皇帝|皇帝]][[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]])の宮廷に仕えた。パーヴェルの知遇を得たクラーキンは、パーヴェルのよき友人の一人であったが、それは長くは続かなかった。女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]によってクラーキンは、在外公館に派遣されたためである。
1752年1月18日[[モスクワ]]に生まれる。クラーキン家は代々外交官を輩出してきた家柄で、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル大帝]]に仕えた外交官[[ボリス・クラーキン]]は曽祖父にあたる。[[1764年]]父のボリス・アレクサンドロヴィッチ・クラーキンが死去し、[[サンクトペテルブルク]]に移る。ペテルブルクでクラーキンは[[皇太子]]パーヴェル・ペトローヴィチ大公(後の[[ロシア皇帝|皇帝]][[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]])の宮廷に仕えた。パーヴェルの知遇を得たクラーキンは、パーヴェルのよき友人の一人であったが、それは長くは続かなかった。女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]によってクラーキンは、在外公館に派遣されたためである。


[[1796年]]にエカテリーナ2世が死去し、パーヴェル1世が即位すると、クラーキンは帰国して副宰相に任命され、パーヴェルの宮廷に仕えることになる。パーヴェル1世の暗殺後に[[アレクサンドル1世]]にも仕え、この間[[1806年]]に駐在[[オーストリア]][[公使]]、[[1808年]]に駐[[フランス|仏]]公使として、[[ナポレオン戦争]]に直面することとなる。[[1807年]]の[[ティルジットの和約]]締結に当たっては、ロシア側代表として講和会議に出席している。
[[1796年]]にエカテリーナ2世が死去し、パーヴェル1世が即位すると、クラーキンは帰国して副宰相に任命され、パーヴェルの宮廷に仕えることになる。パーヴェル1世の暗殺後に[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]にも仕え、この間[[1806年]]に駐在[[オーストリア]][[公使]]、[[1808年]]に駐[[フランス|仏]]公使として、[[ナポレオン戦争]]に直面することとなる。[[1807年]]の[[ティルジットの和約]]締結に当たっては、ロシア側代表として講和会議に出席している。


1810年以降、クラーキンはアレキサンドル1世に対して多くの書簡を提出し、フランスとの戦争が不可避であることを警告し続けた。ナポレオンが[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を準備中であることを察知したクラーキンは、[[1812年]][[4月15日]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]と会談の上で、露仏間の外交関係を打開を試みた。[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]の進発後にクラーキンは公使を辞任した。
1810年以降、クラーキンはアレキサンドル1世に対して多くの書簡を提出し、フランスとの戦争が不可避であることを警告し続けた。ナポレオンが[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を準備中であることを察知したクラーキンは、[[1812年]][[4月15日]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]と会談の上で、露仏間の外交関係を打開を試みた。[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]の進発後にクラーキンは公使を辞任した。

2021年6月13日 (日) 07:55時点における最新版

アレクサンドル・クラーキン

アレクサンドル・ボリソヴィッチ・クラーキン公爵Александр Борисович КуракинAlexandr Borisovich Kurakin、または、Kourakine1752年1月18日 - 1818年6月24日)は、帝政ロシア政治家外交官。駐在オーストリア公使フランス公使、国家評議会議員(1810年から)、枢密顧問官などを歴任した。レフ・トルストイの「戦争と平和」の登場人物、クラーギン公爵(Kuragin)として登場している。

経歴[編集]

1752年1月18日モスクワに生まれる。クラーキン家は代々外交官を輩出してきた家柄で、ピョートル大帝に仕えた外交官ボリス・クラーキンは曽祖父にあたる。1764年父のボリス・アレクサンドロヴィッチ・クラーキンが死去し、サンクトペテルブルクに移る。ペテルブルクでクラーキンは皇太子パーヴェル・ペトローヴィチ大公(後の皇帝パーヴェル1世)の宮廷に仕えた。パーヴェルの知遇を得たクラーキンは、パーヴェルのよき友人の一人であったが、それは長くは続かなかった。女帝エカチェリーナ2世によってクラーキンは、在外公館に派遣されたためである。

1796年にエカテリーナ2世が死去し、パーヴェル1世が即位すると、クラーキンは帰国して副宰相に任命され、パーヴェルの宮廷に仕えることになる。パーヴェル1世の暗殺後にアレクサンドル1世にも仕え、この間1806年に駐在オーストリア公使1808年に駐公使として、ナポレオン戦争に直面することとなる。1807年ティルジットの和約締結に当たっては、ロシア側代表として講和会議に出席している。

1810年以降、クラーキンはアレキサンドル1世に対して多くの書簡を提出し、フランスとの戦争が不可避であることを警告し続けた。ナポレオンがロシア遠征を準備中であることを察知したクラーキンは、1812年4月15日ナポレオンと会談の上で、露仏間の外交関係を打開を試みた。大陸軍の進発後にクラーキンは公使を辞任した。

クラーキンは衣装道楽として知られ、パリ赴任中、華麗で贅を尽くした衣装から「ダイヤモンド公爵」の異名をとった。1810年7月1日、駐仏オーストリア公使シュヴァルツェンベルク (en主催の舞踏会で起こった火事では、避難するときに倒れて火傷を負ったが、豪奢な衣装によって一命を取り留めたという。

アレクサンドル1世、ニコライ1世に仕えて法典編纂事業に尽力したミハイル・スペランスキーを見出した人物としても知られる。

フランスのレストランで従来のフランス式サービスを止めて、温かい料理を徐々に出して行くロシア式サービス(en)(時間差フルコース)を紹介したことでも知られる。